37.「どうなってんの?」
午前中、私は執務室に籠もり、他の仕事の書類と格闘した。
だが、文字が滑る。
ペンを握っても、数字の意味が脳に届かない。同じ行を三度読み返しては、三度とも違う不安に意識が連れ去られた。
「エドモンドさんの件ですが……」
カルが、困惑を滲ませて報告に来た。
「他の担当者も気にしているようで。何か聞かれたら、私はどう答えればいいですか?」
「……もう少し待って。今日中には、必ず方針を出すから」
カルが去った後、部屋は不気味なほど静まり返った。
他の者も気にしている。つまり、噂はもう領内にまで広がり始めているのだ。
私が迷っている間に、情報は鮮度を失い、疑惑という毒に変わっていく。
処分を甘くすれば『不正をしても許される』という前例を作り、厳しくすれば、恩ある人をこの手で裁くことになる。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
その痛みから、私はどうしても逃げ出したかった。
昼過ぎには、さらに追い打ちをかけるような報告が届いた。
「南の区域で騒ぎがあったようです。配給の件が漏れ、不公平だという声が……」
まだ小さな火種。けれど、放置すれば瞬く間に領地を焼き尽くすかもしれない。
私が決めないせいで、事態は刻一刻と悪化しているのだ。レオが言っていた通りに。
☆
夕暮れ時。
心身ともに磨り減っていた私のもとに、ランドルフが意外な来客を告げた。
「クラリス様、マリエ様がお見えです。手土産を携えて」
マリエが?張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。
こんな時に、不謹慎だと思いながらも、私は救いを求めるように彼女を応接室へと招いた。
ソファに座っていたマリエは、菓子折りを膝に乗せ、片手には無造作にワインボトルを持っていた。
「来てしまった」
「……ここは街から離れているわよ?」
「まあ、そこは細かく聞かないで。ほら、これあんたの好きなやつ。あとこっちは、今夜一人で飲むなり誰かを捕まえるなりして使いなさい」
向かい合うと、彼女は一瞬だけ、冗談を封印した真剣な目で私を見た。
「顔色、最悪だよ。前に会ったときよりさらに酷い。どうなってんの?」
「……色々とね」
「また『色々』か。あんたの人生、本当にそればっかりね」
ランドルフが持ってきた温かい紅茶を啜る。喉を通る温もりに、今日初めて人心地がついた気がした。
私は迷った末、彼女に事実を打ち明けた。
長く仕えてくれた者の不正、その背景にある生活苦。
そして、それを裁けない自分の弱さを。
「処分しなきゃいけないのに、顔が浮かぶ人を傷つけるのが怖くて……決められないの」
マリエはカップを両手で包み、珍しく思案する顔をした。
「あたしは、なんとかなると思うけどね。どっちを選んでも、世界は続く。あんた、ちょっと重く考えすぎなんじゃない?」
「重く考えなきゃいけないことなのよ」
「そうかもしれないけどさ」
マリエは窓の外の夕景を見やった。
「あんたが『正しく決めよう』と足踏みしてる間に、状況がどんどん『正しくない方』へ転がってる。それって本末転倒じゃない?」
――本末転倒。
その言葉が、雷のように私の胸に落ちた。最善を求めて停滞している間に、選べる選択肢が『最悪』か『次悪』かしか残らなくなる。
今まさに起きている騒ぎが、その証拠だった。
「あたしなら、さっさと決めちゃうよ。後から間違ったって思っても、決めた方がマシだから。決めない間も、あんたは『決めないこと』を選び続けてるんだよ」




