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没落令嬢と冷徹騎士の契約結婚 ~正しさを捨てて、あなたを選びます~  作者: 猫燕


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3. 「お邪魔しています」

 応接室――かつては多くの客人をもてなしたであろうその場所には、今や色褪せた沈黙だけが漂っている。

 壁際に置かれた長椅子の布地は、気品ある深い緑色を保ってはいるものの、縁を見ればわずかに擦り切れているのがわかる。

 中央のテーブルに置かれた花瓶は、皮肉なほどに空っぽだ。

 ここへ季節の花を活けていた使用人たちは、もう一人として残っていない。

 扉を開けた私は、冷たい空気を感じてすぐに背筋を正した。

 窓際、逆光の中にそれは立っていた。


「お邪魔しています」


 年齢は四十代ほど。

 濃紺の制服には金の縁取りが施され、胸元には王宮の紋章が誇らしげに刻まれている。

 がっしりとした体格の男が振り返った瞬間、私は一瞬だけ呼吸を忘れた。

 その瞳が、あまりに冷たかったからだ。

 向けられたのは悪意ではない。

 ただ、そこには感情というものが一切欠落していた。

 まるで私を人間ではなく、「早急に処理すべき書類」として見定めているような、事務的な視線。


「ヘインフォード家のクラリス様でいらっしゃいますか」

「……はい」

「王宮政策担当、ヴァルディス卿の代理として参りました。――どうぞ、お座りください」


 その言葉に、胸の奥で小さな違和感が跳ねた。ここは私の屋敷で、私の応接室だ。

 それなのに、客人に促されて座る。そんな些細な主客の逆転が、今の私たちの立場を残酷に物語っていた。

 私は表情を崩さぬよう細心の注意を払い、長椅子に腰を下ろす。

 向かい側に座った使者が、携えてきた書類を膝の上で広げる。

 しんとした部屋に、紙が擦れる乾いた音だけが響く。


「ヘインフォード領の現状については、王宮でもすべて把握しております」

「……そうですか」

「資金状況、領民の生活水準、そして軍事にかかわる水路の管理状態等々。隠し立ては無用です。すべて報告が上がっておりますので」


 淡々とした口調だった。

 責めるわけでも、憐れむわけでもない。

 ただ事実だけを積み上げていく話し方が、じわりと皮膚の下に沁み込んでくる。

 ――知られていた。何もかも。

 膝の上で重ねた手が、わずかに震えそうになる。

 悟られないよう、私はゆっくりと指先から力を抜いた。


「本日お伝えするのは、ヘインフォード領に関する王宮の裁定です」


 使者が書類へ視線を落とした。宣告が始まる。


「当該領地は、軍事水路を有する『特別管理区域』に指定されています。これは領主の意向にかかわらず、一定の管理基準を満たせなければ、王宮による強制管理の対象となることを意味します」

「……重々、承知しております」

「ですが現状、その基準を大きく下回っている。――そう判断されました」


 わかっていた。

 理解していたはずだ。

 けれど、こうして言葉として突きつけられると、胸の奥に冷たい石を沈められたような感覚に陥る。


「では、強制管理となった後は、どうなるのですか?」


 声が震えないよう、細心の注意を払って問いかけた。


「売却、です。より管理能力のある他貴族家への譲渡となります」


 売却。

 その単語が、冷たい空気の中にぽつんと浮いた。

 それは、先祖代々の土地も、今朝見た枯れ木の庭も、すべてが他人の手に渡るという宣告に他ならない。


「回避する方法は、……ありますか?」

「あります」


 使者は即答した。

 絶望の淵で、細い光が見えた気がした。希望、と呼ぶにはあまりに頼りない光が。


「特別管理区域においては、貴族と『王宮認定の騎士』が婚姻関係を結び、共同で管理体制を整えることで、強制管理を免れる特別法があります。実質的な運営能力を示せれば、所有権の維持が認められるでしょう」

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