2. 「まだ決まったわけじゃないわ」
予想通り、そこに立っていたのは弟のオリヴァーだった。
十四歳の彼は、寝癖のついた茶色い髪をそのままに、入口で立ち尽くしている。少し充血した瞳を見れば、彼もまた昨夜はろくに眠れなかったのだと察しがついた。
「おはよう、オリヴァー」
私は努めて、穏やかな声を出す。
「……おはよう」
部屋に入ってきた彼は、机の上の台帳と私の顔を交互に見た。
視線が何度も往復し、やがて低い声が零れる。
「領地……売られるの?」
子供特有の幼さが残る声。けれど、そこに混じった『諦め』の色が、私の胸を鋭く刺した。
「まだ決まったわけじゃないわ。……そう、方法ならまだあるもの」
「でも、父さんの時もそう言ってたじゃないか」
突き放すような言葉に、喉が詰まる。
父が倒れた時も。
借金が発覚した時も。
使用人たちが一人、また一人と去っていった時も。
私は彼に『大丈夫』と笑ってみせた。方法はある、なんとかなる、まだ終わっていない――。嘘を言ったつもりはなかった。
しかし、結果として、その言葉はどれも間に合わなかったのだ。
「……」
かける言葉が見つからず、私は視線を外へ逃がした。
ふと、暖炉の脇に用意された薪が目に入る。明らかに昨日の朝より減っている。きっと彼が、少しでも家計を助けようと節約したのだろう。
十四歳の弟に、薪の数まで気にさせて生活させている。
それが、今の私たちの「現実」だった。
「……ちゃんと朝ご飯は食べた?」
絞り出すように言えたのは、そんな世間話だけ。
オリヴァーは一瞬、泣き出しそうな、あるいは呆れたような複雑な顔をして、
「……食べてないよ」
「食べなさい。台所にパンがあるはずだから」
「姉さんは?」
「私は後で食べるわ。先に確認したいことがあるから」
真っ赤な嘘だ。
確認すべきことはすべて終わっていて、そのどれもが絶望的だった。ただ、食べ物も喉を通らないような惨めな姿を、彼に見せたくなかっただけ。
オリヴァーはしばらく私を凝視していたが、やがて諦めたように背を向けた。
そのまま部屋を出ていくのかと思ったが、彼は扉の直前で立ち止まった。
「……姉さん」
「なあに?」
「無理しないでよ。……絶対」
振り返らないままそう言い残し、彼は今度こそ去っていった。
バタン、と閉まった扉の音が、空っぽの部屋に虚しく響く。
私は一人、立ち尽くしていた。
『無理しないで』
その言葉の重みが、じわじわと胸に染みていく。情けなかった。姉として、管理者として、弟にこんな気を遣わせている自分が。
私がもっと完璧に立ち回っていれば、彼は今ごろ、年相応のわがままを言っていたはずなのに。
(守らなきゃ。……意地でも、守ってみせる)
冷たい帳簿を、祈るように胸へと抱きしめる。
間に合わないかもしれない。
でも、ここで諦めるわけにはいかない。
決意を固めるように深く息を吸い込んだ、その時。
廊下から、オリヴァーとは違う、落ち着いた足音が近づいてきた。
「クラリス様」
扉の向こうから、老執事ランドルフの通る声が響く。
「失礼いたします。――王宮からの使者が、到着いたしました」
空気が、一変した。
冷え切った部屋の匂いに、緊張感が混じる。
「……分かったわ。すぐに向かうと伝えて」
私は領地台帳を机に置いた。
乾いた音が、終わりの、あるいは始まりの合図のように響く。
ドレスの裾を整え、背筋をピンと伸ばす。
私は静かに、扉へと歩き出した。




