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没落令嬢と冷徹騎士の契約結婚 ~正しさを捨てて、あなたを選びます~  作者: 猫燕


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1. 「婚姻に関する全ての」

「――以上で、婚姻に関する全ての行政手続き、および契約の登記を完了いたします」


 カサリ、と冷え切った紙の擦れる音が、誰もいない静まり返った事務室に響いた。

 王宮から派遣された官吏の、いかにも事務的な声が耳の奥に滑り込んでくる。

 私は、まだ生乾きのインクが黒々と光る羊皮紙をじっと見つめていた。

 一番下の欄には、私、『クラリス・ヘインフォード』の歪なサインと、その隣に、硬く鋭い筆致で『レオ・グランツ』と記されている。


(本当に、結婚してしまったのね)


 心臓が、胸の奥でドク、ドクと嫌に重い音を立てて脈打った。体温が指先からみるみる引いていくのがわかる。

 窓の隙間から吹き込む風が、私の着古したドレスの裾を冷たく揺らした。

 お祝いの花も、祝いの言葉を述べる列席者もいない。あるのは、埃っぽい古い紙の匂いと、目の前に立つ男の、圧倒的な鉄の匂いだけだった。


「……これから、よろしくお願いいたします」


 私はゆっくりと顔を上げ、彼の胸元へと視線を向けた。

 首筋を隠すほどに仕立てられた、濃紺の騎士団制服。その胸元で、銀色の階級章が朝の光を浴びて冷ややかにきらめいている。

 挨拶を口にした私の声は、思いのほか小さく震えていた。

 断絶された未来への恐怖と、それでもこの領地を守らなければならないという悲壮な覚悟が、喉をきゅっと締め付けている。

 そんな私に彼は言った。


「あぁ。仕事だからな」


 ☆


 窓から差し込む朝の光が、斜めの線を描いている。

 その光の道の中で、埃の粒がゆっくりと躍っていた。

 かつては毎朝、使用人が一枚の塵も残さず拭き取っていたはずの埃。

 けれど、今は誰も気に留めない。

 ……いいえ、気にする人間が、もうこの屋敷にはいないのだ。

 私は執務室の椅子に深く腰掛けたまま、『ヘインフォード領地台帳』をめくる指を止めた。

 指先に触れる紙の端が、しっとりと湿っている。

 昨夜から暖炉を焚いていないせいで、部屋の空気が冷え切り、湿気を帯びてしまったらしい。

 白く凍えるほどではないけれど、指先の感覚は少しずつ、確実に失われていく。


「……寒い」


 それが、今朝の最初の感想。

 二番目は――あまりにも静かだ、ということ。

 廊下を通り過ぎる足音も、台所から響く賑やかな食器の音も聞こえない。

 朝食の準備に追われる活気は、もう遠い過去のこと。

 聞こえてくるのは、冷たい風が窓枠をカタカタと震わせる音だけ。


「はぁ」


 私は、逃げるように視線を領地台帳に戻した。

 そこには、残酷なまでに整然とした数字の羅列がある。

 支出、収入、そして――残高。

 最後の一行に刻まれた数字を、私はもう何度確認しただろう。

 そのたびに胃の奥が鉛でも飲んだように重くなる。

 それでも見返さずにはいられないのは、これが「何かの間違い」であってほしいという、惨めな期待を捨てきれないからだ。

 けれど、現実は甘くない。

 あと一ヶ月。

 この家から、すべての資金が尽きるまでのタイムリミットだ。

 パタン、と乾いた音を立てて帳簿を閉じる。

 背筋を伸ばし、窓の外へ目を向けた。

 冬枯れた庭木が風に揺れ、葉の一枚もない枝が、灰色の空をひっかいたような線を引いている。


(……とても綺麗なんて風景じゃないわね)


 自嘲気味に息を吐き、立ち上がろうとしたその時。

 廊下から、慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。

 軽いけれど、急ぎ足。

 そのリズムだけで、誰が来たのかすぐにわかった。


「姉さん!」


 ノックも待たず、勢いよく扉が開く。


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