28. 「後悔するぞ」
今度は、揺るぎない声だった。
蝋燭の炎が冷気に揺れたが、決して消えはしなかった。
私は窓辺を離れ、机に向かった。引き出しを開けると、前に仕舞ったままの指輪がそこにある。
手には取らず、ただ、その輪郭を見つめる。
小さくて、軽くて、私の少女時代をすべて預けていた夢の塊。その夢は、もう手放したのだ。ただ、その事実を改めて確認しただけ。
机の上の帳簿を手元に引き寄せる。
三週間。
レオが記した現実の数字。
もう迷わない――なんて、そんな強い人間にはなれないだろう。
きっとこれからも、何度も迷い、何度も泣きたくなる。
けれど、進む方向だけは決めた。
☆
翌朝、私は太陽が顔を出すよりも早く目覚めた。
空の端がわずかに白み始めたばかりの、静謐な時間。冷たい水で顔を洗うと、目の奥に居座っていた重みが少しだけ軽くなった。
鏡を覗き込む。
昨日よりは、いくらかマシな顔をしていると思う。
マリエが見たら、また何か言いそうな顔だけれど。
廊下に出ると、屋敷はまだ眠りの中にあった。
抜き足差し足で歩く。
台所の方から、パチパチと火を起こす音が微かに聞こえてきた。レオだろうか。彼は夜明けとともに食事をすると言っていたから。
応接室の扉を開けると、そこは朝焼け前の青い気配に満ちていた。
蝋燭に火を灯し、椅子に座る。昨夜決めたことを、祈るように反芻した。
重く、規則正しい足音が廊下に響く。
ノックの音。
「入ってください」
扉が開き、レオ・グランツが入ってきた。手には湯気の立つカップが一つ。
彼は私を見て、わずかに動きを止めた。
「早いな」
「あなたも」
「俺はいつもこの時間だ」
「知っています」
彼は向かいの椅子に腰を下ろし、テーブルにカップを置いた。
二人の間に、一本の蝋燭が燃えている。
窓の外の青い光と、蝋燭の橙色が、静かにせめぎ合っている。
「領地のことですが……」
切り出すと、レオの灰色の瞳が私を捉えた。
「進めましょう」
空気が、ぴんと張り詰めた。
レオはしばらくの間、無表情に私を見つめていた。その瞳の奥で何を計算しているのか、私には読み取れない。
「……後悔するぞ」
それは脅しではなく、淡々とした事実の宣告だった。
「それでも、選びます」
私の声は、一度も揺れなかった。昨夜、自室で『逃げられる』と呟いたときとは、明らかに違う力強さが宿っていた。
レオは、ゆっくりとカップを持ち上げた。
「なら、容赦はしない」
「ええ」
「全部変える。動かないものから力ずくで動かす。時間がないんだ。文句を言っている暇はない」
「文句は……言うかもしれません。でも、動きます。止まりません」
レオが一口、飲み物を口にした。立ち上る湯気が、彼の厳しい表情を一瞬だけ隠す。
「今日から始める。まず水路の図面を出せ。優先順位を決める」
「用意します」
「配給ルートも再確認だ。昨日ので全部だと思ったら大間違いだぞ」
「分かっています」
「人手は俺が手配する。お前は領民との調整だ。不満が出るだろうが、押さえ込め」
「適材適所、ですね」
「効率だ」
気づけば、私の口元がわずかに緩んでいた。
レオは立ち上がり、空になったカップを手に扉へ向かう。
「一時間後に執務室だ」
「承知しました」
扉に手をかけた彼の背中に、私は声をかけた。
「レオ」




