27. 「逃げることも」
馬車に乗り込み、揺れに身を任せる。
暗い車内、窓の外を流れる夜景を見つめながら、マリエの問いを反芻していた。
『なんでそこまでやるの?』『あなたが苦しむ必要、なくない?』胸を張って答えられる言葉を、私はまだ持っていない。
石畳を叩く蹄の音を聞きながら、私は静かに、重い瞼を閉じた。
☆
屋敷に帰り着いたのは、夜も深まってからのことだった。
「お疲れ様でございました」
ランドルフが、静かに頭を下げる。
「ありがとう。……夕食は?」
「用意できております。レオ様はすでに召し上がられました」
「そう……。私は先に部屋へ戻るわ。少し、一人で考えたいことがあるから」
「承知いたしました」
彼は余計な詮索をせず、ただ深く頷いて下がった。
私は一人、廊下を歩く。
通り過ぎるたびに蝋燭の炎が揺れ、壁に映る私の影が追いかけっこのように躍動する。
響くのは、自分の靴音だけ。
自室の扉を開けると、そこは静かな闇だった。薄い雲から漏れた月光が、床の上に青白い四角形の切り抜きを作っている。
蝋燭に火を灯すと、世界の色が一変した。冷淡な青から、柔らかな橙へ。バルコニーへ続く窓辺に立ち、夜の領地を見渡す。
今日の出来事を、最初から丁寧に辿り直してみる。
出会った人々の顔が、記憶の底から代わる代わる浮かび上がってきた。
一軒目の貴族。
笑顔の裏で私を値踏みした、あの冷ややかな目。
二軒目の親戚。
扉を閉めかけながら『もう間に合わない』と吐き捨てた、あの声。
三軒目の商会長。
慈悲深いふりをして『時間的に不可能だ』と告げた、あの指先。
そして――友人のマリエが投げかけた言葉。
『なんで、そこまでやるのよ』
結局、答えは変わらなかった。最初から分かっていたはずだ。しかし、頭で理解するのと、自分の足で絶望を確かめてくるのは、決定的に意味が違う。
だからこそ、今夜、私は決めることができる。
窓の外の、小さな灯火を見つめた。あの光の下に、人がいる。
私の領地で、懸命に今日を生きている人々がいる。
マリエは言った。
『誰も本気で期待なんてしていない』と。
そうかもしれない。
けれど、私はまだここにいる。
彼らが期待していようがいまいが、私はここに立っている。
それは、私が『ここ』を選んで残っているということに他ならない。
「全部放り投げて……、逃げることも……できるのよね」
誰もいない部屋に、私の呟きが落ちた。それを自分の耳で聞いてから、もう一度窓の外を見た。
あの光が消えたとき。
私が逃げ出した結果としてあの灯が失われたとき、私は私でいられるだろうか。
領地が売られ、誰か知らない管理者の下で、住人たちがバラバラになっていく。
それを遠い街の片隅から見守る自分。
――そんな姿、想像しようとしてもできなかった。
それが、私の出した答えだった。
「そうしたら……私は、私でいられなくなる」




