26. 「最悪じゃない」
しばらくの間、二人でミルクティーを啜った。
窓の外では夕闇が深まり、空が燃えるような茜色から紫へと移り変わっていく。
人々の影が長く伸び、街灯がぽつりぽつりと灯り始める。
「あのさ」
「なあに」
「あんた結婚したの?」
「……!どこで聞いたの?」
「噂よ。話題性は抜群だもの。『没落貴族の令嬢と騎士の契約結婚』なんて、みんなの大好物よ」
「……そう」
「どんな人なの?」
「無愛想で、血も涙もない合理主義者。感情で動くことを嫌う人よ」
「最悪じゃない」
「ええ。でも、仕事はできるわ」
「それだけ?」
「……今のところはね」
マリエは肩をすくめた。
「まあ、あんたが決めたことならあたしが口出すことじゃないけど」
「ええ」
「――本当に、大丈夫なの?」
声の色が変わった。
冗談めかした軽やかさは消え、親友としての真摯な瞳が私を射抜く。
「……大丈夫、と言いたいところだけれど」
「言えない?」
「正直に言えば、まだ分からないわ」
マリエはしばらく私を見つめていたが、やがて椅子の背もたれに深く体を預けた。
「あんたみたいに生きるの、あたしには絶対無理だわ。疲れるもの。人のために自分をすり潰すなんてさ」
「マリエの生き方の方が、ずっと賢いわ」
「賢いかどうかは知らない。でも、楽だとは思う。あたしは『楽』を選んで生きてるから」
マリエは窓の外、暮れなずむ街並みに視線を投げた。
「でもね、あんたを見てるとたまに思うのよ。あたしは楽な方ばかり選んで、何かを本気で『選んだ』ことがあったかなって」
「……」
「まあ、あたしの話はいいわ!」
彼女はすぐに快活な調子を取り戻し、カップを掲げた。
「とにかく!あんたが本当にやるって決めたなら、あたしは何も言わない。でも何かあったらいつでも連絡しなさいよ。愚痴でも、泣き言でも、いくらでも聞いてあげるから」
「ありがとう」
「あと、一つだけ」
マリエが声を少し低くした。
「無理したら、すぐ顔に出るんだからね。今日みたいに」
「……気をつけるわ」
「気をつけてほしいのは『無理をしないこと』じゃなくて、『無理してるのを隠そうとすること』よ。分かった?」
私は不意を突かれ、目を瞬かせた。
「……ちゃんと、見ていてくれているのね」
「当たり前でしょ。腐れ縁なんだから」
立ち上がったマリエが、荷物をまとめて財布を取り出した。
「ここはあたしが払うわ。久しぶりなんだし」
「いいわ、私に――」
「いいの。あんたは今、少しでもお金を取っときなさい」
真顔で、突き放すような優しさ。
私は、今日初めて心から笑った気がした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
扉を開けると、夜の冷気が流れ込んできた。
「クラリス」
背中を向けたまま、マリエが言った。
「なあに?」
「……頑張りすぎるなよ」
それだけ言い残して、彼女は人混みの中へと消えていった。
カラン、と扉が閉まる。店内に残った温かな空気と、シナモンの残り香。
私はテーブルに残された、二つの空のカップを見つめた。親友が置いていってくれた気遣いの痕跡。
『頑張りすぎるな』という言葉を、心の中でそっとなぞってみる。
けれど、頑張らなければ守れない。それなのに、このままではいつか壊れてしまう気もする。どちらが正しいのか、答えは出なかった。
外に出ると、街はすっかり夜の帳に包まれ、冷たい紺色の空が広がっている。
馬車の傍らで待つランドルフが、私に気づいて静かに一礼した。
「お待たせしたわね」
「いいえ、滅相もございません」




