カルテ15:深夜残業
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「ふぃー、今日はヒューマンな一日だったぜ」
先程までファーレスの家からログアウト出来ずに居た矢沢先生は無事に救出されてデア・サブマに戻っていた。
「でもファーレスさんが心を開いてくれて良かったですね」
「本当ですよ、コンタクトを取れない事には治療も出来ないですからね」
『治療』・・。
現状は未だ氷山の一角を抜けた状態で有り、正面切って悩むのはこれからの事。
「取り敢えず、今日は夜も遅い。お前たちは家に帰ってゆっくりと休んでくれ」
「ふぬぬ?矢沢先生は帰らないんですか?」
「俺は残ってやる事があるからもう少しここに居る」
先に二人を返して診察室に残ると、一人で過去に診た患者さんのカルテと医学書を机に広げる。
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同じ時刻、大学病院と同じ町の中に建っている二十階建のタワーマンションの一室に灯りが点いていた。
リビングのテーブルの上には定例会議の書類が綺麗に乗せられており、隣のパソコンが閉じられた所を見ると、ちょうど資料の作成が完了したと伺える。
部屋の主であるフィーレはソファに座ったまま背伸びをすると、ドライアイ用の点眼薬を一滴打ち込み目を閉じる。そうすると頭の中に今日一日の出来事が浮かんだ。
『――では差し出がましい様ですが、今の彼の精神では治療はかなり難航する物と思われますが・・やはり本人の意思と家族の協力を頂けないと厳しいですよ』
『覚悟の上です』
『非常に泥臭い性分で』
・・フィーレは思い出を振り切るようにそっと目を開けると顔に垂れさがる前髪をサイドに寄せた。
彼にとってデア・サブマは過去に少しだけ聞いたことが有る程度。聞いたと言ってもインホスに勤務していた医者が新しく独立開業をしたという程度の情報で、日常の中でも定期的に小耳にする世間話の一つに過ぎない。
なのに何故だろう・・一瞬会話しただけにも関わらずフィーレは言い様の無い危機感を感じていた。
規模も設備投資も残してきた功績も大学病院の方がはるかに上回っているはずなのに、なぜ矢沢という医者はあんなに精神的な威圧感に満ち溢れているのか?
単に高飛車だったり先輩風を吹かす高圧的な態度の人間は大勢居たが、今回は何かが違う。
(ファーレスを救う事に何らかの確証を得ているのか?)
フィーレは言い様の無い不安に包まれる。
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「あぁ・・わっかんねぇ!」
場面はデア・サブマの診察室に戻り、先程広げられた医学書は何十ページと進んでいたが矢沢先生は頭を抱えたまま歯ぎしりをしていた。
リハビリをすると言ってもこの診療所には専門の理学療法士が居ない。
長年の医者人生で治療経験を養ってきた矢沢先生にとっても国家資格を必要とする作業をこなすのは当然容易な事では無いのだが・・。
「アイツが諦めて無いのに、俺が諦めてどうすんだよ!?」
窓から出て来たファーレスはあの部屋へ戻るのが怖くてリビングで生活する事にしたらしいが、それだけでも大変立派な前進である事に違いない。その一歩を進む上で彼の苦しみの七割を負担すると言った手前、今更簡単に投げ出す訳にもいかず、未知の道で仮説と否定の葛藤を繰り返す。
「やっぱ大抵の事はやってあるんだよなぁ・・」
ファーレスとアンに今までやって来た治療を尋ねた結果、やはり最新の設備でのリハビリは大学病院の方で一通り試してきた様だ。しかも半年の通院となれば症状の度合にもよるが平均的なリハビリとしては十分な期間に入る。
『――僕が大学で学んでいた頃にも火事による一酸化炭素中毒に陥った患者さんが、低酸素脳症と火傷の治療で大学病院に運ばれてきましたね』
ふと、カンファレンスで瑠唯が語った過去の経験談を思い出した。
『脳障害の症状が重篤だったので、今でも意識は回復していないと思われます』
現実問題として、こういった症状に陥ってしまった患者さん達を救えないでいる自分達・・
『バンッ――』
矢沢先生はネガティブな空気を断ち切るべく一回机を叩いて無理やり区切ると、自分の顔を平手打ちして精神を引き締める。
「いけねぇ、これじゃあ大学病院と同じじゃねぇか」
デアサブマの三人は帰る前にファーレスからこれまでの大学病院での事を何でもいいから話して欲しいと頼んで、本人の意見を直接聞いていた。
――ファーレスがリハビリを継続しなくなった理由――
六ヶ月の期間を経て回復しかけた右手は何故かまた動かなくなったらしい。その時にフィーレが伝えたプランというのが、動かない右手のリハビリもしながら不慣れな左手の使用訓練を施して社会復帰をするという案。
勿論、フィーレにとっても見捨てたつもりは無いが、何時まで経っても回復しない右腕に時間を費やし過ぎてファーレスの社会復帰が遅れるのも問題である。家族側と病院側の負担効率を考えた上での最良の決断だった筈だが、一番大切なファーレスの気持ちはついて来れないまま置いてきぼりを喰らってしまっていた。
何故なら本人にしてみれば六ヶ月間夢見て頑張って来たのは再び右の手を動かす事。不安と希望の波の中を懸命に泳ぎ陸地に辿り着く事を夢見たのに、再び大海へと漂流してしまったとなれば初期から溜めていた不安は爆発する。
そうして主治医に対して疑心暗鬼になればなる程、これからの右手の治療だってもう社交辞令にしか聞こえない。
そう、あの部屋は過去の現実と未来の現実の狭間に現れた今という夢の在りかだった。
夢はいつか覚める、起きた後の世界は血の通う温かい場所であって欲しいと矢沢先生は願う――
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「違う、これも違う・・」
低酸素脳症のリハビリ方法だけでは無く、視点を変えて他の病気の治療法からも気になる症例に付箋を貼っては治療法と照らし合わせるが、中々今回の場合の解決策へは繋がらない。
例えば神経系統の病気で身体の自由が利かなくなる場合、自己免疫疾患が考えられる。
通常、脳が異物を認識し排除するための役割を持つ免疫が、自分自身の正常な細胞や組織に対してまで過剰に反応し攻撃を加えてしまう症状。この病気の殆どが自己抗体という体内で精製する免疫の元になる部分の異常が原因で、その抗体状況を血液検査で確認できる。
そして検査値が正常だったファーレスにとって、この種の病気も治療法も当てはまらない事を意味した。
また、数十万人に一人の難病として扱われる神経症もこの自己免疫疾患に含まれる場合が多く、解決を探るには遺伝子単位まで遡って調べないとならないが、症例の報告数が少なく仮説を立てる事すら困難である。
もっと言えばこの自己免疫疾患の全体像を調べると、リウマチや一部の脱毛やアトピーなど多方面に渡る症状があり、関連性や合併症まで考えていくと仮説は逆に天文学的数字になるので、特定をして目の前の患者さんを救うとなると時間が足りな過ぎるのだ。
今回は症状が違うために矢沢先生はひとまず医学書を次のページへと進めたが、この病気に苦しんでいる人たちもファーレスと同じ様な心境に陥ったに違いないと思うとやるせない悔しさに蝕まれた。
(患者の痛みに触れられずに何が医療だ――)
寝る間を惜しんで書物はどんどんめくられていく・・
――勿論その作業に勤しんでいるのは矢沢先生だけでは無い。
「・・これも違うか」
自宅通いの瑠唯は自室で先程の病状に対してリウマチやアトピーとは何なのかという原点まで帰り、頭を抱えている。
「僕だって・・」
瑠唯の父親はエレオスブルグ大学からエスカレーター式に大学病院に勤務し、そのまま独立開業を成功させたが、瑠唯は大学入試の時点で父親より少々偏差値の劣る中央大学の医学部へと進んだ。勿論医学部に進んで無事卒業に至った経緯を見れば瑠唯も十分な努力と知識量を持っているが、それでも父親に対するコンプレックスという感情は彼の心の中の尊厳を削る。
響きだけで言えば中央大学の方が上にも聞こえるものの、エレオスブルグ大学の方が建国直後に王家の管轄する地域に建てられ、歴史も教養も国のトップとなる知学の最高峰施設。ちなみに中央大学は後に隣の地区の貿易が盛んになり、人が集まるようになってから創られた施設である。
順位でいうと二つ程落としてしまうのだが、それでも国でトップ3の大学の医学部に入るのだから周りから見たら贅沢な悩みで、逆に瑠唯は心の中の苦しみを理解してもらえずに爽やかな青年という表面上のイメージに対して、深層部分は孤独な学生時代を過ごす事になった。
いつしかそれが当たり前の日々になってしまい、どちらの瑠唯が本物なのか本人にも分からくなる。
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「はぁ・・睡眠不足はお肌の大敵です!でも、取り敢えずカカオ神よ、我に一服の恵を――」
要はココアが飲みたいだけ。
杏里もアパートのベランダでいつものココアを飲みながらファーレスの事を考えている。
(今日も色々あったなぁ・・でも、何かまだ引っ掛かるんだよね)
コップに一回だけ口をつけると、また頭の整理をする作業に入った・・。
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『――肺炎が悪化した事で気道が塞がれて、低酸素脳症を引き起こして集中治療室に運ばれて・・。あの時は生きた心地がしなかったわ』
”低酸素脳症とは呼吸不全などにより体内に十分な酸素供給が出来なくなり、脳に障害をきたした病態を意味する”
――六ヶ月の期間を経ても回復しかけた手はまた動かなくなったらしい――
”二階の廊下でドアに背を付けて体育座りをしたまま、ファーレスの泣き声を無言で受け止める”
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「――まさか・・!!?」
「『まさか』じゃねーよ熱っ!!」
興奮する度にお約束の様にココアが零れ、下に居た管理人に掛かってしまっていた。
「あぁっ、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げると更にコップが傾く。
『ドバァアアア――』
「あわわわわ・・ごめんなさい!」
誰にも平等に流れる時間、夜が何回、何百回、何万回来ようと軸を照らし続けて朝を待つ。
――深夜になっても医学書を閉じずに、むしろ白衣を腕まくりしてヒートアップするオヤジ
――パソコンのテレビ電話機能を使って仲間たちに情報を求め続ける新米
――床に散乱したココアを一心不乱に拭き続ける超絶的にダサい女
全く価値観の違う三人を繋ぎ止める軸は核を巡る真実を照らすベクトル。
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『プルルルル・・』
「はい瑠唯です」
「あ、瑠唯君?杏里です。遅くにごめんね?」
丁度テレビ電話の作業が一区切りついて一服をしていた瑠唯を見張っていたのではないか?というタイミングに再び背筋が垂直に伸びる。
「ど、どうしたんですか!?」
「あのね?瑠唯君に相談したい事が在るの。瑠唯君って理学療法士の基礎を少しかじってたって事は今まで患者さんのリハビリも何回か見て来たんだよね」
「えぇ・・実習の期間に少しですが・・それがどうかしましたか?」
「私思ったんですけど・・今、ファーレスさんの手が動かないのは、本当に二次性細菌性肺炎の悪化による低酸素脳症の後遺症が原因なのかな?」
「・・・・え?」
「何か大切な事を見落としている気がするんですよ」
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治癒の女神の延長線上にココアの神が舞い降りて来た瞬間だった――




