第十九章4
体が動かなかった。化身は焦る。
幻惑のせいで大理石に深く大剣を突き刺してしまったからではない。仁王立ちの脚は木の幹よりもがんとせず、腕は彫刻のように固まっている。何が起きたと目を動かそうにも、錠でも掛けられたかのように瞼が上がらない。
金縛り? それともこれもまた幻なのだろうか。宙ぶらりんの脳で逡巡する。
「エノク!」
近くから、少女の声がした。瞼が自然と持ち上がる。金色の瞳の下に蒼白の剣。
(ああ、こいつは)
宙ぶらりんの唇がニタリと嗤う。かつて災禍の化身を払おうとした剣。物言わぬ精霊。それがまるで自分への捧げ物とでも言うかのように、近くにある。
――手に取ろう
手を伸ばす。その剣はこの巨体に対しては小振りだ。しかし、神々しいまでの青い燐光は見るだけで目を潰されそうなほど清い。
(折ってしまうか? いや、この剣でこの女を切り捨ててしまうか)
頭の中で舌なめずりをする。剣を大きく天へと掲げる。
振り下ろされたそれは、己が左肩を貫いた。
ぷつり、糸が、切れる。
右の太腿。脇腹の中央。左手に持ち替えて、右手首。
ぷつり。ぷつり。ぷつり。
その動作はまるでついてしまった埃を振り払うように単調としたものであった。しかし、血の代わりに溢れる激痛は、神経焼き切るような熱を帯びる。
化身はないはずの自身の体を抱きしめる。
千切れていく。自分を唯一繋ぎ止めることができるはずの器との繋がりが絶たれていく。
男の体の支配権はすでに化身にはなかった。不気味なほどに凪いだ、瑠璃の瞳が覗いている。
そして、清浄な蒼白の切先が、男の頭へと向けられる。
――やめろ。
口はすでに使えない。
消える恐怖に身震いして、化身は漸く気づく。
あの男は弱かったから碌な抵抗をしなかったのではない。油断させるために無駄な抵抗をしなかったのだ。
まるで、こうなることを見越していたかのように。天眼では観測できない真実をあの男は知っていたのである。
――やめてくれ。
脳みそを取られたら、いよいよ自分は大した思考力ができなくなる。災禍という名の破壊を繰り返すだけの人形になってしまう。そこに感情などはない。その行動が愉しいと感じることができるのは、考える場所があるからだ。
それこそ、そこにある剣と同じになってしまう。
実体のない体が、凛と前を見据える双眸の灯火を消そうと手を伸ばす。
しかしその前に。
脳漿を沸騰させるほどの熱。皺という皺が蒸発し、ただの湾曲した球体になりそうなほどの頭が煮えたぎる。
針に刺され、鎌で刈り取られ、鈍器で殴られ、銃で撃ち抜かれ、ナイフで切られ、ノコギリで引かれ、剣で貫かれる。痛みという痛みが脳の中でせめぎ合い、反響する。
ぷつり。
最後の糸が切れた。
繋がりが立たれた化身は煙のように透明な体を左右に揺らしながら、その体から這い出た。ないはずの目が男の姿を捉える。
浅黒い肌に黒い髪を靡かせ、鋭く尖った双眸には酷く凪いだ瑠璃の双眼。
両手に抱くは蒼白の剣。青白い燐光を湛えたそれは男の体にはあまりにも不釣り合い。
ギラリと輝くその剣身に、映らないはずの己が体が映り込む。蜃気楼のようにぼやけた輪郭だけが、その化身の全てであった。
天から地へと青白い弧が彗星のように化身を斬った。傾く視界が朧げになっていく中でそれはなんとなく思う。
まるで薄れゆく下弦の月のようである。
音もなく、誰にも看取られることもないまま、災禍と名乗った化身は崩れていく。
そして、役目を終えた蒼白の剣もまた、月明かりのように霞んで消えていく。
しんと冷えた針が一筋、弔いのように落ちていく。




