第十九章 剪定にて2
実につまらない。化身は思う。
それは呆気なく捩じ伏せられたエノクに対してか、目の前で碌に剣を振いもしない偽物に対してかはわからない。ただ、つまらない。どうしてこいつらは死ぬ気で抵抗しない。滅びそうな我が身可愛さに嘆かない。
災禍というものはそういうものである。不幸や不運による破損。悪意や過失による破滅。災厄に怯えてこそ、それは災禍という事象になる。
なのに、なぜこいつらはそのような感情を持たない。感じられるのは焦燥感。希望というものに哀れに追い縋る姿はどこにもない。百年前の勇者たちが抱いていた、眩いばかりの想いはない。
雨が静々と降っている。
打ち付けど打ち付けど、偽物は飛び退くか軽く剣を交わして避けるかしかしない。何をしたいのかちっともわからない。
いや、寧ろ何もしたくないのかもしれない。自分さえ逃げていればエノクを殺すことも自分たちが死ぬこともない。だから、攻撃もしなければ尻尾を巻いて窓の外へ逃げるなんてこともしないのだ。そうだ。きっとそういうことだ。
だとすればそれはとても哀れなことだ。化身は自ずと唇を歪めた。諦めることができないということは希望を捨てられないということ。ならば、それを打ち砕けば、正しくそれは災禍となろう。
暴れん坊よろしく剣を振るのを止めると、向こうも体の動きを止めた。視線だけが伺うように自分を観察する。
足を踏み鳴らし間合いを詰める。銀色の剣が一撃に備えて構えた。
「バカだな」
そう呟いた時には、エノクの体は背後へと回り込んでいた。両手で高く剣を持ち上げ、その切先を一息に振り下ろす。
胸が、骨が貫かれる。その光景はさながらギロチン。無抵抗のものを囚人を殺す、重たい死神の鎌であった。
アオノはその光景を呆然と見上げていた。
体勢を崩し、もはやこれまでと瞼を瞑った。しかし何秒、何十秒と息を止めたところで痛みはおろか荒々しいまでの風圧すらない。恐る恐る瞼を押し上げれば、眼前には床に一直線に剣を振り下ろしているエノクの体があった。冷めたようにも悦に浸っているようにも見える表情で、ぐりぐりと大理石を削っていた。
「お兄ちゃん、早く!」
「ノアちゃん?」
ノアがアオノの腕を掴んで走り出す。
「あれ、一体どういうことなの」
「雨です」ノアは即答する。「エノクは雨、効きますから」
雨――。そういえば、いつの間にか室内の大部分にまで、風に運ばれた霧雨が侵入していた。
手を引かれるがまま、多少つんのめりながら走った先には割れた窓ガラス。下を覗き込めば色素を奪われたような青白い屋根が脈々と重なっていた。
「アオノ、ノア」
ガレアスに跨ったシャヴァラが手招きする。そうして漸く、彼女たちが何をしようとしているのか悟って、足を押し留めた。
「お兄ちゃん?」ノアが眉を顰めて振り返る。
「逃げるの?」
自分で思っていたよりも何倍も冷ややかな声に心の中で驚く。しかし、ノアは強い眼差しでそれを肯定した。
「逃げます。幻惑も長くは続きません。この隙に逃げないとエノクに私たちを殺させるか、あなたがエノクを殺すかしかなくなってしまいます」
顔が僅かに俯く。「私はそのどちらもさせたくないです」
「でも、そうしないとエノクさんは災禍の化身に体を取られてしまう」
「わかってます!」声を荒げる。「わかってますよ」
「それでも、私は大切な人たちが殺し合うのは見たくない。その結果、大切な人を見殺しにしたとしても」
戦う力も持っていない、お荷物の自分がそんなことを願い行動するだなんて、とても傲慢なことだと、彼女は自覚している。それでも、彼女が選べた選択はそれしかなかった。
――あの日、エノクにそう言うことがあったら真っ先に自分ごと災禍の化身を殺すように言われていたとしても。幼い少女がその選択をすんなりと受け入れるのは難しかった。
仲間を死に追いやったことがエノクの傷であることを知っていた。アオノが己の存在に悩んでいたことを知っていた。だから、そのどちらも傷つける道だけは、彼女は選べなかった。
「これは、蛇足の物語」
いつか、カリムが口にした言葉。
「自己満足の旅の果て。終われなかった舞台の幕を引くための最後の章」
ノアはアオノを見つめるように顔を上げた。
「逃げよう、お兄ちゃん。わたしたちの出番は、おしまいです」
小さな手が差し伸べられる。まっすぐな金色の瞳は月のように凛としていて、それでどこか悲しげであった。
シャヴァラとガレアスは何も言わず、ただ成り行きを見守っている。
「ノアちゃん」アオノが口を開いた。この場に不釣り合いなほど優しい笑みを浮かべながら。
「俺は君のお兄ちゃんになれたかな」
「当たり前です。あなたはわたしのお兄ちゃんです」
大仰に頷く。
「そう……」
アオノは瞼を閉じる。そして、にっこりと微笑んで、ノアの手を両手で包み込んだ。
「なら、お兄ちゃんらしく覚悟を決めないと!」
ノアの瞳が見開かれる。何を、と音なく口が動いた。
「え……と、それは」
「その金色の瞳は、現在の真実の姿を映し出す。だから、かつての勇者を模った俺ではなく、本来の俺が見えていたんでしょ?」
彼女は怒られた子どものように口を噤む。
「君から見た俺は、きっとずっと剣だったんだよね。剣が人の言葉を話して、服着て、なんか食べて寝て――うん。我ながら怖いよ」
「ち、違います! 確かに、わたしの目ではお兄ちゃんは剣に、見えました。でも、うっすらと人の形もあるんです。輪郭が、朧げに……だから、そんなこと言わないで」
ノアの瞳に涙から溜まっていく。
「驚いたし、戸惑ったけど、怖いと思ったことはありませんでした。どんな形でも、あなたはわたしに兄のように接してくれた。初めて優しくしてくれた、男の子。剣ではないんです。人なんです。わたしと、同じ……」
ぼとりと涙が流れていく。自分さえ黙っていれば、きっと誰かが気づくことはない。そう思っていた彼女の気持ちを、あろうことかアオノ本人が覆した。自分の存在について悩んでいた彼が、人としての生を渇望した彼が、その道を自ら閉ざした。
「アオノ」
シャヴァラが静かな口調で口を挟んだ。
「本当に良いのか。そっちに行ったら、お主という自我は消える。それだけじゃない。例え天球を覗いても、貴様の存在だけは観測されん。それが選定の剣という名の、お主という精霊のあり方よ」
「わかっています。わかった上で、俺はそうあることを選びます」
「そうか」小さく息を吐いたあと、シャヴァラは悲しげな微笑みを浮かべる。
「年寄りの小言は長いからな。一つだけ、問おう。お主の答えは、見つかったか?」
「はい」まっすぐに穏やかな青色は頷く。
ずっと前、シャヴァラはアオノに問うた。勇者が最後まで戦ったのはなぜだと。
そうしなくてはいけなかったから。あの時の答えはそんなありきたりのものだった。しかし今は、自分の眼で世界を見た今ならば、少し違う答えを出せる。
「そうか」
彼女は答えを聞くことはしなかった。代わりに嬉しそうに、寂しそうに微笑む。
「クゥーン」ガレアスが悲しげに吠える。その頭を優しく撫でてやれば、素直な尻尾が弱々しく左右に振られた。
そして――。くるりと向き直る。
アオノの手のひらがノアの両頬を包み込む。じっと覗き込むように眼状紋の月を見つめる。
目が合っている。今、初めて、二人の視線は交わっている。
「ノアちゃん。俺をアオノでいさせてくれてありがとう」
嗚咽を漏らしながら彼女は被りを振る。腕で目元を擦ると精一杯の真摯な表情を作る。唇を噛み締め、震えを押し留めた。アオノも穏やかに微笑み、瞼を閉ざし、開く。
息を吸って、吐く。凛とした青い瞳が真っ直ぐ彼女を見つめる。
「天眼の聖女。君の瞳に俺はどう映る」
「あなたは」見据える。
「あなたは、災禍を払う命の剣。生命を傷つけない奇跡の刃――どうか、あの人の力になってあげてください、お兄ちゃん」
任されたとでもいうように、それは笑顔で頷いた。青い燐光がかの者の体から発せられる。まるで光の糸がほつれるように、それは形を変えてゆく。解け、絡まり、結いでいく。
自然と伸びた聖女の腕の中。
蒼白の光をその身に宿し、剪定の剣は姿を表す。




