第十八章 王城にて3
「ぐる」
「お? どうしたんだガレアスの旦那」
テントの中から狂った街の様子を呆然と眺めていた店主の意識がはっきりする。ベールのような薄い雨の中、人々は喜怒哀楽をこれでもかと表現していた。まるで群衆劇の中に迷い込んだみたいに、あちこちが忙しない。その中で一人事情を知っている自分が正常なのもなんだか居心地が悪い。そして何より、こんな状況を引き起こしているワンコと留守番を命じられていることに我ながらどんな偶然だよと思ってしまう。
ガレアスは顎を持ち上げて、霞んだ空に浮かぶ城を見つめている。
「旦那方が心配なのかい? いやーすごいよな。なんだかよくわからないけど一国の王様に喧嘩売りにいくなんて」
言葉にしても実感が湧かない。完全なる叛逆。そのメンツに自分もなぜか加わっているのが一番意味がわからない。不満はそれこそ星の数だけあるが、だからと言って下剋上じみた行動を起こそうとはならないだろう。
オーバルにしたってそうだ。たった数時間の会話だけで、なぜこうなることに首を振れたのだろう。
「あんたのご主人様方は、何にそんなに駆り立てられているんだろうな」
ガレアスの視線が横の男へと注がれる。
「俺にはわかんねえよ。こんなことまでして、あの人たちは何をしたいんだ」
銀の腕輪がカツンと音を立てた。
その理由を問われても、獣に考えられるだけの脳はない。何をしたいともない。駆り立てられる衝動など、ない。
『なあ、ガレアス』
だのに、不意に誰かが呼びかけてきた。足が自然とテントの外へと向き、鼻先を耳を胴を尻尾を濡らす。
――俺たちは敵対してたかもしれないけどさ。
銀の腕輪がカツンと鳴る。
――もし魔王ってやつを倒したら、綺麗な腕輪をまた作ってさ。
銀の腕輪がカツンと鳴る。
――ちゃんと謝りに来るから。そしたらまた、
銀の腕輪がカツンと鳴る。
――俺と友だちになってくれる?
銀の腕輪がカツンと鳴って。ガレアスは瞼を見開いた。
幻惑の霧雨。それは雨に濡れた者の脳に働きかけて幻を見せる魔法の雨。精霊であるガレアスにとっては自分の一部を放出しているに過ぎないそれが、その本人に記憶が話しかけたのだ。
そうだ、そうだ、そうだった。小さな脳みそが叫びを上げる。
何をしたいともない。駆り立てられる衝動などない。ただ待っていた。じっとあそこで待っていた。
それは自分の主人を裏切ってしまったことへの後ろめたさで、自分の友の言葉を信じた故の行動。しかし、長い年月による摩耗がその記憶を混沌とさせ薄れさせた。
自分はただ待っていた。
叶うことなら二人とも、もう一度会いたいと思って待っていた。待てと言われたから待っていたのではない。待てば会えると信じていたから。
辛抱強く待ち続け、漸く一人には会えた。しかし、もう一人には、結局会うことはできなかった。
いや、もう随分前からもう会えないと知っていた。あのつまらない荒野に、彼のそれを見つけたのは何十年前のことだっただろうか。それを大切にかき集めて、根城の近くに置いていたのは、いつからだったか。
「がう」
ガレアスが立ち上がる。ゆらゆらと青い炎の尻尾が揺れる。
「え? ちょっと、旦那!?」
何をしたいと言われたら、自分は大切な人に会いたい。
駆り立てられる衝動があるとすれば、己が胸に確かに残っていた思い出と、後悔。
後ろ足を軽く曲げる。それはバネのようにひょいと飛び上がって、屋根の上へと着地した。
「何やってるんだ! 旦那の仕事はここで雨を降らせることでしょうが!」
なんだか今日の雨はうるさいなぁ。そんなことを考えながらガレアスは駆け出した。屋根の上から上へと飛んでいき、霧雨の中に溶けていく。
ゼエゼエと息が乱れる。息苦しいのは化身が悪戯に体を傷つけては血を流しているからである。その度に瘴気が溢れ出す。普通の人の体を持つノアにとって、それはすでに呼吸器官を押しつぶすような苦しみを与える毒となっていた。
「くそっ」
桃色の瞳に影が差す。顔を上げた先には剣を構えたまま刃を向けることができないエノク。そして、あれ狂う竜巻を断ち切り続けているアオノの姿。
いっそのことあの体ごと燃やしてしまえば瘴気を発生させる前に消し炭にできるが、あの飄々とした動きに今の魔導器を正確に向けることは難しい。
(せめて的が大きければ……)
その時、俯いていたノアがゆっくりと顔を上げる。金色の瞳がじっと奥を見据えた。
「どうしたどうした。もっと斬ればいいじゃないか? 腕でも脚でも首でもどうぞ? 魔物なんだからこのくらいの瘴気じゃ屁でもないだろ?」
愉悦に頭をぐらぐら揺らす化身が腕を振る。その度にエノクは交わすか剣の腹で打ち払う。血の一滴が落ちるだけで、瘴気が放たれる。すぐにシャヴァラの魔導器が燃やしてくれるとしても、ある程度の大きさにならないと、遠くにいる標的を定めるのは難しい。
魔導器の一つが旋回して視界の外へと消えていく。
「――?」
「なんだよそ見はいけないねぇ」
男の体はすでに全身が傷だらけだった。痛みのせいで燃えるように熱くなった体が纏っていた服はすでに原型を止めていないほど刻まれて真っ赤に染まっている。指はあるが爪はいくつか剥がれている。唯一傷ついていないのは首と頭だが、そこを斬り捨てたところで死ぬのは男の体であった化身ではない。そして、そんなことをすれば少なくともノアの体も機能を停止するだろう。
ならば、とエノクは防御の姿勢を一転、右腕を跳ね上げてその頭を狙う。ヒュンとそれは金色の瞳に触れることなく宙を斬る。また避けられた。
「君さ、さっきからずっと私の目ばかり狙ってないか。目潰しなんて下衆のすることだよ」
「貴様のではないだろ」苛立たしげに吐き捨てる。
「その眼で見ているのだろ。でなければそんなにギリギリで避けまい」
「そりゃそうだけど、あるものは使うのが礼儀でしょ。君だってそうだったじゃないか。お友だちもペットも消耗して、今だって小さな女の子をこんなところに連れてきて、半殺しにしている。あの子の眼を利用するためでしょ?」
ビュン、と耳元で音がした。鈍色が化身の耳を掠める。無言で投擲された大剣が遠方でバシャリと甲高い音を響かせる。エノクの表情は見えなかった。前髪が、図ったように目元を覆い、唇は固く結ばれている。
「はっ、ははははははは!!! これはいい!! 怒りで我を忘れて大事な武器を手放すとは!! どうせ斬りつけられないならいらないとでも思った? でも残念ながら僕以外にも竜巻たちがわんさかいるよ。いや、魔物の王様の腕力を持ってすれば殴って消せちゃうのかな!? ああ本当に面白い!!」
ゲハゲハと笑い転げる化身。エノクはぴくりとも動かない。剣を投げた格好のまま、彫刻のように身動がない。あまりにも朴念仁な態度に化身は笑いを引っ込める。不服そうに僅かに残った瞼を下す。
「つまんないんだけど。睨みの一つでもしてみろよ。歯軋りでもいい。ああそれとも? 自分の愚行にショック受けて固まってる?? なら面白いかもっ」
そうして化身はまた笑い出す。エノクの唇が僅かに痙攣し、持ち上がる。
「愚行はどちらだろうな」
「……は?」
ガシャリと甲高い音が響く。はっとして化身は振り返った。
アーチ型の格子窓が冷え冷えとした白い霧に覆われ、その周辺には魔導器がくるくると旋回していた。その窓ガラスの中央。縦と横の格子が重なる一点に、エノクの剣が突き刺さっている。それを中心に窓ガラスにはジグザグな同心円状にうっすらと皹が走っていた。
ガシャリ
音がする。霧雨とガラスの罅のせいでよく見えないが、何かがそこにいた。
ガシャリ
化身は漸く理解した。窓ガラスの側の魔導器と白い霧の意味。
ガシャリ
急激に熱せられ、あるいは冷やされたそれは脆いこと。
ガシャリ
その空気に気づけないほど、自身の体は傷による熱を持っていること。
そして――。
バシャン
ガラスが雹のようにバラバラに砕けた。呆気に取られた化身の黒い目玉がギョロリと動く。大剣がぐるりと宙を舞う。エノクは飛び退きながらそれをキャッチし、ズザザと滑るようにして着地した。
霧雨が吹き込む。沈殿していた瘴気が我先にと循環の中へと戻っていく。
飛び込んできたのは青い狼。未来を見る眼状紋の瞳には映らない、その場にしか存在しない自然の生命体。
首がブチブチと剥がれていく。視界が大きく回転する。口が鉄臭い。
ガレアスの鼻先に金色の瞳が滑り降りる。細い雫がシンと滴った。
「未来を見る天眼は絶対的なものではありません。数多の可能性の一つを垣間見る程度のこと。膨大な情報の中で、限りなく可能性が高いものはあるんです。でも反対に言えば、可能性が低い事象が発生することもある」
誰もいない孤独な城から、星空を眺める女性がいる。眼鏡の奥には左目には翡翠の瞳。そして右目に金色の瞳。
「精霊とは揺蕩う自然が起こした奇跡。それは過去にも未来にも存在しない、今でしか観測できない神秘そのもの」
女性は眼鏡を外した。
「してやったりです馬鹿野郎」
悲しみごと歪ませていた景色がようやく鮮明に見える。静かな山の中で、姉と一緒に見上げた星空が広がっている。
「ねえ、姉さま」
誰もいない空に声をかける。
「わたし漸く、泣けそうです」
首から上の頭がゴロリと転がった。眼窩は虚に窪み、色素を失った唇からは赤い血が広がっていた。一人の人間の体が死んだのだ。
「倒したんですか……」
アオノが呟きはしかし、突然のたうち回るように床をころげ回るそれにより否定される。エノクは構え、ガレアスは姿勢を低くし唸る。
「あーあー。せっかく体を得たのに。こんなにボロボロされちゃったら使い物にならないじゃないか」
ごふごふと血を吐きながらそれは話す。
「あーあーあー。でもそうかでもそうか、そういえば壊れてない体があるじゃないかあるじゃないか。ケケ、ケ。あの勇者たちが無能で助かった。本当に助かっただって」
――生きた体が残ってる
動く生首に体を強張らせていたノアは目を見開いた。
生首の口から透明な何かがぬるりと這い出て、掌を広げるようにしてエノクに覆い被さった。
「あ……あ……え、」
言葉にならない声が、口から漏れた。細い腕を押し除けて飛び出す。
「エノク!!」




