第十八章 王城にて2
冷たい石の扉を前。エノクはノアを降ろし、剣を構える。右足を後ろに。重心は胴に。瞼を閉じ気を鎮める。僅かな息遣い。雨の音。力を入れるのは、一瞬。
カッと瞼を見開く。振り上げた剣は右上から左下へ。金属音よりも耳をつんざく音。剣が石に触れたところから黒々とした煙と火花が散る。稲妻が木の幹を破るが如く、その一線は刻まれた。
袈裟に切られた石の扉を蹴飛ばせば、境界より下がまるで押し倒されたかのように、部屋の向こうへと倒れていく。首を少し右に曲げ、倒れた扉を踏み締めた。
白い、どこまでも白い空間が、冷たい扉の先には広がっていた。
白亜の大理石の床が四角く広がり、それを囲うようにして白い壁が取り囲む。その壁には等間隔で規則正しい凹凸を縦に刻んだ柱が食い込み、天へと上るように伸び、それは放射状模様となって天井の一点へと収束していく。
正面にはアーチ型の格子窓が仄暗い雨空を映し出し、その手前の高座には、ポツンと一つの影が浮かぶ。
人である。人が、窓の外を眺めている。
「幻を見せる雨か。面白い精霊もいたものだ」
本来であればその場で留まり消えていくような声が、伽藍堂の空間に反響する。低く。
「また随分と個性的なのを揃えたものだな。賞賛に値するよ。私では、没個性的な影を数匹手懐けるのが精一杯であった」
エノクが振り返り、視線でノアをシャヴァラに託す。シャヴァラは不安げなノアを抱き抱え、数歩下がった。彼女たちを庇うようにしてアオノが前に出た。
「でも、中々面白かっただろう? あれは影だから、どんな姿にも変われる。しかし、影ゆえに本体の指示がないと動けない。真似はできるが、自分で考えない。結局やり方がワンパターンになる。それでも彼らの忠誠心は本物だった。本体をどこまでも崇拝し、思い通りに動いてくれた。例え体が変わっても、中身が変わらなければ尽くしてくれる。下手な貴族連中よりも余程いい」
「いつまで独言ている」
エノクの双眼は射抜くように男の背中を睨む。男は振り返らない。
「せっかくの再会なのだから、旧友の言葉に耳を傾けてくれてもいいだろうに。その石頭のせいで、どれだけ私が苦労したことか」
肩を竦めて首を左右に振る。まるで演技でもしているような緩慢な動作だ。
「だが、その石頭のおかげで私は本当の器を得た。一時の恐怖から愚行に走った我が祖父には感謝せねばなるまいよ。子も、財も、民も私に捧げた哀れな男。恐怖から未来視の力を奪い、過去を閉ざしたあの男の功績はまさに悪名高いと言わざるを得ない。まあ、爪の甘さもあったのだが」
「おい、待て」シャヴァラが低い声で言葉を潰す。
「今、未来視の力を奪ったと言ったか」
クク、と男の肩が笑う。
「興味があるのか、死に損ない。そうだな、悪運とはいえここまで生き残ったのだ。よくよく見せてやろうか」
ともすればそれは、ゆっくりともったいぶったような速度で振り返る。
その顔、天球で覗いた男のそれ。髭と髭の間の口は頬を裂いたような不気味な笑みを浮かべていた。その上には二つの瞳。右の眼は闇を煮詰めたような漆黒。そして、左の前髪にそっと掌が載せられる。髪をかき上げたて出てきたそれ。左の眼は――金色。
「貴様!!」
怒声が響く。地震のように怒りが波及していく。
その金色の瞳はこちらを向いていなかった。どこまでも虚に、そこにあるだけ。台座に宝石を飾るように、男の左瞼を翻して、そこに鎮座する。
男はクククと声を押し殺すようにして笑う。
「天眼というのはシャンデリアの下敷きになっても潰れないくらい丈夫なんだ。覚えておくが良い。視力は全く無くなってしまったが、未来だけははっきり見える。これのおかげで君たちがここに来ることもわかっていた。だから、邪魔者は退散させてここで待っていたのだよ」
シャヴァラの体がワナワナと怒りに震える。顔を真っ赤に燃やし、怒りに満ちた双眸が射殺さんばかりに男を睨みつける。すぐに飛び出して刺し殺したくなる衝動を唇を噛んで抑え込むのがやっと。尋常でない熱い吐息が獣のそれのように唇の隙間から吐き出される。
「私を恨むのはお門違いだ。君の仲間を死に追いやったのは祖父――先先代の国王なのだから。私はちょっとその遺品を拝借しただけ。見たのだろ? 自分の地位の可愛さに、人々の勇者を奪ったその姿を。まあその男が利用しようとした際に、むしろ積極的に言い寄ったのは私だが、影を手懐けここに私を連れてきたのは彼なのだから。うん。やはり彼が一番悪い。悪役だ――」
刹那、眼球の前を太い刃が光の如く駆けた。咄嗟に背筋を背けたものの、その距離まさに一ミリにも満たない。触れていないはずなのに、瞼がベロンと上へと捲れ、風圧が彼の黒い瞳に罅を入れた。まつ毛がはらりと散っていく。顔から表情が抜け落ちた。
「……急くな」
「生憎、悪者探しには興味がない」
「そうか。そちらの死に損ないのお嬢さんは真相とやらを知りたかったと思ったのだがね」
剥き出しになった闇がギョロリと怒りに戦慄くただ一人のエルフを一瞥する。
「いらん」
低く、静かにその声は白い空間に響く。もし声が目に見えたのならば、それはどんな獣の咆哮よりも空気を振動させ、雷よりも悍ましいものであっただろう。
「災禍に理由など無意味だ」
瑠璃の双眸に冷たい怒気が宿る。それを面白がるかのように、災禍の化身は唇を釣り上げた。
「よくわかっているじゃないか。やはり貴様は素質があった。だが――」
よもや人のものとは思えない相を浮かべた頭が、折れて皮一枚で繋がっている枝のように曲がる。
「|その脳は出来が良すぎる《貴様の自我は邪魔だった》」
瞬間、男の体の周りをぐるぐると渦が旋回する。空気が掻き乱され、その場にとどまろうと踏ん張ったとこで、体は外へ外へと押されていく。
「無駄話が嫌いな君に、もう一つだけ無駄話をしてやろう」
暴風が体を弾かんとする中で、ただ一人、男だけが薄寒い笑みを浮かべ、平然と立っていた。さながら台風の目になったとでもいうように。
「この空間、違和感を覚えなかったか。いくら白が光を吸収すると言っても、光源もないのになぜこうも明るいのか」
「それはね」コツンと足音が大理石の床に波紋を打った。円状に波及していく水面はゆるゆると白波をたて、それはやがて文字のような形を取る。Zや乙を左右反転させたような文字が蛇のように連なって、壁に、そして天井へと伸びていく。
「魔導器というものは私だって知ってはいたがね、まさか自分を守るために、こんな大きな魔導器を作るとは思わなかったよ」
「この紋様、古代の魔術文字か」
「ご明察だ。さすがは天眼の守護を直々に仰せつかったエルフというべきか。
私の祖父が自分の身を守るために作った絶対的な防御壁。裏を返せば守るために入ったもの全てを隔離する空間。ここがそれなりに明るいのは、窓から入った今までの光が蓄積されているからなんだ。私も今はか弱い人の体を使っているからな。君たちが来たところでどうやって向かい討つか悩んでいたんだが、この魔導器の部屋のことを思い出してほくそ笑んだものだよ。これならどうにでもなる」
またコツンと靴音が落ちる。文字を連ねてできた蛇が押し倒された扉の穴を埋めるように、格子状にその身で壁を貫いた。
「ここからは私たちだけの大舞台。災禍という名の理不尽で、幕を下ろしてやろう」
男は意味ありげに口元を歪めると、たんとステップを踏むように一歩足を前へと出すと、そのまま膝を曲げ高く跳躍した。ギシリ。骨が軋む。男を取り巻いていた風の渦が蜘蛛の子を散らすように細分化し、小さな竜巻が縦横無尽に床を這う。
エノクはそれをヒラリと躱すと、化身目掛けて跳び上がる。その足を捉えようと口を開いた竜巻をアオノが一刀両断すれば、それは結び目を失った紐のように解れ空気に溶けていく。
化身と同じ目線まで跳躍すると大剣を叩きつけるように振るう。化身は背を逸らしてそれを受け流すと、何を思ったか自身の腕に爪を突きつける。猫が障子を破るが如くベリベリと肌が剥がれ、赤い血潮が流れ出る。
「知っているか? 人は自身の中に流れる血を穢れだと思っているんだとよ」
口から流れる声は体の持ち主のそれであるが、口調は違うものにすり替わっていた。人差し指で流れた血を掬い、うっとりするように目を細める。
「こんな血の一滴すら、病魔という名の災禍になるんだ」
横から殴りつけるように腕が振るわれる。血が飛沫となってエノクへと飛んでいく。
「ぐっ――」
外套を掴む。大きく振りかぶって床へと脱ぎ捨てた。叩き落とされた血は黒い布に混じり、届かなかったものは足元へと直立に落下する。
白亜を汚した血痕はぷすぷすと煮えたぎるようにして蠢き出す。ぬるい瘴気を纏ったそれは合わさり捩れて伸びていき、這いつくばった人のような四肢を形成する。胴らしき部分はぷくりと膨れ頭はない。それがべたんべたんと地団駄を踏むたびに、ぬるい瘴気が漂った。
「まずいな。あやつ、自然災害だけでなく、人災すらも発生させられるのか」
エノクに取り憑いていた時にはそのような力は見せなかった。ともすればこの力はその体に残された魔力によるものか、あるいはその体を犠牲にすることで生み出している現象か。おそらくは後者であろう。
パチンと指が鳴る。魔導器はくの文字を刻み、血の怪物に炎を放出する。もがく様に地団駄を踏み鳴らしていたそれは、やがて融解して一つの痕跡も残さず蒸発した。
(焼けるし斬れる。しかし、このままでは)
空気が俄かに重くなっている。密閉された空間においては、空気もまた留まることを余儀なくされる。男の体から流れた血は瘴気を生む。瘴気を孕んで淀んだ空気は沈殿し、体を蝕む毒素となるだろう。
チッ、と短い舌打ちの後、エノクは大剣の腹で男の頭を殴りつけた。男は抵抗することなく床へと叩きつけられる。床には傷一つつかず、男の背中が大きく打ち付けられ、撓む。
(こいつに血を出させたら、こっちがやられる)
化身はゆっくり体を起こす。擦り切れた衣服の隙間から赤紫色に変色した背中が見え隠れした。




