第十八章 王城にて1
城の中は閑散としていた。
壁に掲げられたランタンがポツリポツリと古めかしい光を灯す。顔を出したのはどこかの物置のような場所である。木箱が積み上げられて、埃っぽい。湿気った臭いが籠っていることからも、長らく使われていないのは明白だ。
扉に軽く手をかける。軋みすらあげずにそれはあっさりと開いてしまう。
廊下に出てみる。乳白色に黒点を散りばめた大理石の床には、赤い絨毯が敷かれている。灯りはやはり壁に掲げられたランタンで、物寂しく光をゆらめかせていた。窓の外は暗い。空を塗りつぶように覆われた分厚い雨雲が、針のような雨を降らしていた。騎士がフラフラと揺蕩っている。それは突然糸が切れた人形のように膝を折り、頭を揺さぶった。
再び中へと目を向ける。右にも左にも人影はない。まるで伽藍堂である。足音一つ、虫の羽音一つしない。
「妙だな」
シャヴァラは視線をぐるりと走らせる。
「まるで人の気配がしない」
「まさか騙されたんでしょうか」
「違う」
エノクが断言する。もし仮にテオが騙すつもりだったのならばあの屋敷で引っ捕えるべきだった。あるいは、物置の扉を押した時点で全員で襲いかかるはず。追っ手も来なければ奇襲もない。これは、テオが内通者でないことの何よりの証。
「ははっ、存外ワシらは歓迎されているのやもしれん」
シャヴァラの言葉には相槌せず、エノクはノアを抱き抱える。腕にちょこんと乗った彼女はいつも以上に不安そうに周囲に視線を飛ばしていた。
「ガレアスと一緒にオーバルたちのところにいさせた方がよかったのではないか?」
ガレアスはとある役目を遂行するために別行動中である。エノクはその問いかけには答えない。
「行くぞ」
「罠かもしれないのに?」
エノクは狼狽えるアオノを無視して進む。彼だって、どっちに行けば何があるかなんてわからない。ただ、なんとなくこう言う時は上に行けばいいのだろうと言う直感だけで足を動かし始めた。
「敵をばっさばっさ薙ぎ払うのも力を使うし良いではないか。行くぞ、アオノ」
そう言ってシャヴァラもエノクの後に続いてしまった。アオノは自身の足先を見下ろして。
「――待ってください!」
敵地であることも忘れて追いかけた。
ゆらゆら蠢く黒い影。
形なきもの。あるいはあるがあやふやなもの。煙とさして変わらない存在。しかし、やはり彼らはあった。
目のない影がジロリと睨む。
雑音がなければ、狙うべき獲物を取り違えることはない。影の真価とは|不自然なほど静かな場所《そう言う場所》で発揮されるものである。
我らは今は影である。騎士でもなければ魔物でもない。彼らの存在が確定していなくても、奴らを殺せば関係ない。例え世界の眼がこちらを向いたとして、誰がそれを覗くことができようか。
音なく忍び寄る。まさしく影。人の姿を模したのならば黒いローブを纏った暗殺者。それが彼ら。
手を伸ばす。黒い刃が牙を剥く。まずは、そう、か弱そうな少女の首を。
「――?」
刃が折れた。いや、歯だけではない。腕がぽきりと折れている。まるで強引に捻じ曲げたように、皮一枚残して折れている。
「ガ、ガガ、ガガ、ガ」
黒い影は青いヘドロを流しながら、萎んだ風船のように落下する。冷ややかな双眸はその様をはっきりと捉えていた。
木を削るような雄叫びをあげ、黒い人影は霧散する。それを皮切りにニョキニョキと黒い影が床から、壁から姿を現す。人形のそれはあの天球で覗いた暗殺者。国王の配下のそれである。
「やれやれ、やっぱり出てきおったか」
シャヴァラがパチンと指を鳴らせば、魔導器がクルクルと回りながら宙を舞う。アオノも剣を構えた。
「ああ! あれは魔王さま! 魔王さまのお体だ!」
囂々と吹き荒ぶ嵐のような定まらない声が反響する。ぐるりとエノクたちを囲ったそれは、大きくなったり小さくなったりを繰り返し、クルクル回る。
「やはり、魔物の類か」
ちっと苛立たしげに舌打ちする。
「人の姿を模した魔物――影法師の一種かえ」
「さよう。我ら魔物。魔物と呼ばれる影のもの。魔王さまのお体だ。しかし、我らが仕えるは災禍の位の魔王さま。体には用がありません」
「呆れた。やはり微妙に理性がある魔物はダメじゃな」
「うるさいうるさいエルフの生き残り!」
黒い影が牙を剥く。まるで巨大な猫のように口がバカリと開いてシャヴァラ目掛けてすっ飛んでくる。
「シャヴァラさん!」
アオノが叫んでシャヴァラの前へと踏み込む。細身の剣が猫の口を左から右へと切り裂いた。口が上下に真っ二つに裂けて、やはり青い液体をだらりと流しながら、動かなくなる。
「すまんの」「いえ」
二人の双眼がスッと細められる。横に飛び退いた瞬間、ガンと巨人の拳のようなものが床にクレーターを作った。
シャヴァラの魔導器が白く輝く。瞬間、肌を凍らせるような氷の閃光が拳に放たれた。カチコチに固められたそれは、指が鳴らされたと同時に粉々に粉砕する。
「アオノ、シャヴァラ」
エノクは声を荒げた。
「突っ切るぞ」
エノクが廊下を蹴り上げる。跳ぶように駆けていきながら、右手に握った大剣を振り払う。
ガガ、ガガ
虎視眈々と獲物の首を狙っていた二本の黒い手が青い彼岸花のような血を吹き出しながら落ちていく。
眼前では巨大な口が飲み込まんばかりに大口を開けて食事を待ち構えている。エノクは体ごと剣をぐるりと縦に回転させ、その口を左右に切り分ける。
左右に別れた口からニョキと虫眼鏡のような目玉が覗く。次の獲物を捉えようと首を伸ばしたそれは、蛇のように牙を剥いた。
左側、一閃。アオノは上に飛び退くと同時に、体を捻って蛇の頭を切り落とす。ドバドバ、血が吹き出して紫色に染まったカーペットに着地すると間髪入れずに駆けていく。
右側、小さなシャヴァラの頭を丸呑みにせんと大口を開けたそれは己の口の中に飛び込んできた異物に気づくことなく、目前まで迫り。
パチン
合図と共に体がぶくぶくと膨れていく。炎の玉が体を突き抜け、灰塵を撒いた。
影を切り伏せながら長い螺旋階段に足を踏み入れたところでシャヴァラが声を荒げた。
「おい! こやつら減る様子がないぞ。どうなっておる!」
「影法師は影故に本体を潰さない限り無限に存在する。どこかにその本体がいるはずなのだが」
「そんなのどうやって見分ければ」
己を影と称しているだけあってやつらの姿形は縦横無尽で複製的。オリジナルだけにある特徴などなく、見極めるのは困難である。
「影……」
ノアが呟いてキョロキョロと視線を走らせる。
螺旋階段は円柱の壁にぐるりと重厚な大理石を敷き詰めるようにして上へと伸びている。壁には例のランタンの灯りが揺らいでいる。
そう、揺らいでいるのである。ずっと、密閉されて風も受けないそれは、ずっと揺らいでいる。
じっと目を凝らす。細めた金色の瞳がランタンの中にひっそりと佇む影を見る。影は揺らいでいた。まるで光源である火に影があるように。こちらを観察するような、影の瞳が覗いていた。
「エノク! ランタン! あそこにいるのが本体です!」
肩を破壊しようとした影の手を袈裟に切り、エノクはぎろりとランタンを睨む。段差を蹴って一、二と壁に踏み込む。下ろされた大剣は、ランタンごと形なき瞳を割った。ガシャりとガラスが崩れ去る。
三で再び足と地を水平にし、それをひと睨みすれば、確かに黒い影は青い涙を流した。やがてそれも止まってスリッパで潰された蜘蛛のように動かなくなる。
その瞬間、襲いかかってきていた影のいくつかが霧散した。しかし、依然として敵は蠢いている。
「足止めは任せた。ノア、頼む」
「はい!」
こくりと強く頷いて、ノアが視線を走らせる。火が揺らぐ。火が揺らぐ。それこそ影という生き物が潜んでいる何よりの証拠。僅かな息遣いさえ、火を揺らすには事足りる。それが僅かな揺れでも、彼女だったら見逃さない。
ノアが示すランタンが大剣によって切り伏せられる。ガラスが破片となり散っていく度に影の魔物は霧散する。
そうして最後のランタンを撃ち落とした時、全てが計算通りとでもいうように扉がいく先を塞いでいた。




