幕間9
それは魔王の旧城での出来事。
魔王城一階の奥まった部屋に、エノクは腰を落ち着けた。
「あ、あの、エノク」
横になろうとしたエノクの元へ、おずおずとノアが近づいてくる。伺うような上目遣いはどこか怯えている様にも見える。
「どうした」
「どうしたということもないんですけど、その、そばにいてもいいですか? 静かにしていますから」
彼女はことあるごとにエノクの近くにいたがる。コートの中や膝の上を好んでいるのだが、それが動物や魔物の子が親の近くにいると落ち着くのと同じなのであろうと彼は認識していた。親子であればさして珍しい行動ではないと。
「構わない」
「ありがとうございます」
どこかほっとしたように口元を綻ばせ、エノクの膝の上――ではなく背中にペタンと座り込む。
「……エノクは、おばちゃまについて行くんですか?」
「ああ」
すでに決意は固まっていた。
もとはこの国が腐敗の一途を辿っているのかという事実を確かめるための旅。その裏に災禍の化身がいるのであれば、それは自分がどうにかすべき事柄である。一度は災禍の化身に思考も体も取り込まれていた自分は、災禍の化身を処理する義務がある。
だから、そこに迷いが生じることはない。
「そうですか……」
ノアは気落ちしたように呟く。なんとも言えない沈黙に居心地の悪さを感じるように身じろぐ。
「わたしも行きます」
「……は?」思わず聞き返す。
「行きます。エノクと一緒に」
「遊びではないのだぞ」
「わかっています。それでもわたしは行きます。行かないといけないんです」
僅かに震える声音。しかし、強い断定の口調は、エノク以上の覚悟を持ったものであった。
「エノク。わたしのお話を少しだけ、聞いてくれますか」
何も言わなかった。その無言を肯定と捉えたらしい少女は訥々と言葉を溢す。
「わたしの見えている景色は、昔から人と少し違って見えました。ある日、考えなしにそれを口にして、一人の女の子を猫にしてしまったことがあります。いえ、わたしにはもとからその子は猫でした。服を来て人の言葉を話す猫。でも、ほかの人から見ればその子は女の子だったのです。それからです。わたしが奴隷以下の、化け物になってしまったのは。
毎日、毎日。みんなはわたしをいじめました。そして最後には必ずこの眼を叩きました。気持ち悪い。呪われた瞳だからと」
少女の手がそっと自分の瞼に触れる。薄い皮膚の先には丸い眼球がその存在を主張する。
月のような金色。いくつもの目を連ねたような特徴的な虹彩。
「ずっと、この眼が嫌いでした。自分で抜き取ろうとしたこともありました。でも、結局怖くてできなかった。
そうしているうちに、あの村は燃えてしまって、あなたに会いました。そしてとんとん拍子にお兄ちゃんやおばちゃまに会って、そして――」
顔を上げる。そこにはただ燻んだ石の壁があるだけ。しかし、ノアの目には別の光景が浮かんでいる。
床からは金色の瞳が覗いていた。無数の瞳を結びつけて構成された一つの大きな瞳。それは夜空を眺めるようにじっとそこに佇んでいた。
――これは、わたしの眼だ。
少女はそう思って、一人震えていた。
彼女が見たそれこそが、天球と呼ばれる記憶媒体の真の姿。天の球とはまさしく目玉のことであった。それを覗き込むことが、どれほど恐ろしいことか。
「わたしは知りました。この眼がどんなものなのか。そして、この眼で見たものを知覚するという行為がどんなものなのか」
それは本当の姿を他者に知らせる行為。この世界の正しい有り様を戻す儀式である。だから、人を模していた精霊は、本来の精霊の姿に戻った。
「わたしはたぶん、この眼で見た光景を伝える必要があります。あの人に……」
ぎゅっと拳を握った。小さな少女は誰に言われるでもなく、自分の使命を知ってしまった。人の温もりとやらに気づいた彼女にとってそれはあまりにも重圧なものである。
エノクは口を閉ざしたまま逡巡する。
考えてみれば、最初から不自然だったのかもしれない。偶然で片付けてしまうには、あまりにも出来すぎている。
「ノア」
だからと言って共にいることすら、そんな理由で片付けては、あまりにも虚しいではないか。
「はい」
「もし、この先、貴様が選択を迫られることがあったならば、その時は――」
その日、二人の間で静かに幕が上がった。




