第1章 辺境の村にて4
村から伸びる里道の上に、馬の足跡が伸びていた。それも一頭ではない。蹄の後を百八十度回転させたものが複数。くっきりとしたそれを見るに、貧弱な村のそれではなさそうだ。
蹄の形も立派なもので、丁寧に手入れされていることが足跡からもわかる。
王都の騎士は王区の外側、つまり外区にまで来ない。ならばこの足跡の持ち主たちはどこから来た。どうして少女のいた村へ続く道を往復した形跡がある。思案した所で仮説がいくつか出てくるだけ。事実はどうしたってわからない。
エノクにはあの村になんの思い入れもない。抱えられたまま眠りこけている少女に関しては決していい思い出がある場所でもないだろう。
しかし、自分に声をかけてくれたあの荷運びたちのことを思うと、なんとも形容し難いやるせなさを覚える。
今まで怯えたように見上げるものや、何とも思っていない空虚な目を向けるものは数えきれないくらいいた。だが、彼の目はそのどれにも当てはまらない。好奇心の混じったものであっても、紛れもない好意が見て取れた。
(何故あの村は焼かれたのだ)
村の中に碌でもない奴がいたのは確かだろう。だが、だからと言って一人を残して全員が遺骨すら満足に残されないほど、燃やし尽くされる必要があったのだろうか。自分が夢現だった数時間の間に何が起こった。
数々の疑問が、彼の足をある方向へと向けて動かす。目覚めてこのかた、外区の端の森を根城にし、たまに辺境の零細な村々で金を稼ぐだけだった自分。もう二度と人々の生活を脅かすまいとしていた自分が、今また人の領土に足を踏み入れようと歩いている。
「うーん……?」少女がみじろぎ、寝ぼけ眼を擦る。キョロキョロと顔ごと周囲を見回した。「ここどこ?」
「里道だ」村々をつなぐだけのそれは、細く頼りない。雑草で道らしき線がかき消えているところも多い。
「どこにいくんですか?」
「ウラノスだ」
「うらのす?」
首をこてんと傾げる。
「エルフの国……と言ってもわからないか。白くて耳が長い、人型の魔物の一族の国だ」
「エノクノさんの家族?」
目が僅かに細まる。
「エノクノさんではない。エノクだ。さんもいらない。そして家族でもない」
「え? でも……」少女が訝しげに顔を顰めて、「エノクの家族じゃないの? エノクも……ほら、耳が長いよ」
指摘されて気づく。そういえば、起きてすぐ炎の中を走り抜けたものだから、髪を括るのを忘れていたのだ。魔物だとバレると面倒だから、緩く髪を結んで、上手く耳の形を誤魔化していたというのに。
このまま人に遭遇しては厄介だ。あとで結わなければ。
「でも、エノク白くありませんね。焦げちゃったんですか?」
「焦げていない。元からこういう色なんだ」
少女が魔物と人の違いがわからなくて助かった。魔物だとバレればおそらくまた泣き喚かれてしまうだろう。
曖昧な返事をして、少女はエノクの耳の尖った先端をピンピンと指でいじっている。何かがお気に召したようで、ふふ、小さな笑い声が漏れ出た。子どもの感覚は理解できない。
「そのエルフさんの国で何するの?」
「天球を覗く。私が覗かせてもらえるとは思っていないが、言ってみるだけタダだろう」
「てんきゅー……?」
「過去に起こったことを知ることができる世界の眼……すごく細かいところまでわかる装置、歴史書みたいなものだ」
「歴史に興味があるのですか?」
当たらずも遠からず。
「だがその前に、適当な場所で貴様の身なりを整えなくてはな」
少女の来ている服はあまりにもお粗末なものだった。一枚のボロ布に頭と腕を通す穴を開けただけのもの。いくら貧しい家の子どもだって、ポケットの一つはついているものだろうに。このままでは人攫いを疑われかねない。
少し道は外れるが、北の方角を行けばここら辺の流通の拠点となっている、少し大きめの村がある。そこに行けば、子どもの服も売っていることだろう。
目的の村までは距離がある。そのため、夜は野宿を余儀なくされた。
エノク単体であれば何も心配はいらないが、小さな子どもが一緒となれば話が変わってくる。か弱い餌を狙って魔物が襲ってこないとも限らない。小賢しい猿共なんかは、器用に小さな肉だけ攫ってしまう可能性だってある。
であれば、火の番をしながらうつらうつらと浅い睡眠を繰り返すのがちょうど良い。人間とは違い、エノクは魔物。数日寝なかったからといって戦いに支障が出るようなこともない。強いていえば、単純に眠気との激しい戦いに勝たなくては行けないというだけだ。
胡座の中では猫のように丸まった少女がスヤスヤ寝ている。最初はロングコートを毛布代わりに寝かせようとしたのだが、どういうわけか何度引き離してもここに戻ってきてしまう。今ではすっかり諦めて、寝たいように寝かせてやっていた。
今日も今日とて、穏やかな風に眠気を誘われ、首をこくこくさせていると、不意に指が握られた。寝ぼけているのか。朧気なピントを合わせれば、少女がじっとこちらを見つめていた。
「寝ないんですか?」
「貴様が寝たら寝る」
「本当に?」
どうでもいいことに勘づき始めたらしい。「本当だ」
少女は暫くエノクをじっと観察し、何を思ったのか体を起こした。「どうした」
「わたしも起きています」
「寝てろ」
「起きます」
そういうと胡座の上で膝を抱え込んだ。こうなると少女は意固地になる。寝落ちしない限りは自発的に寝てくれないだろう。
「寝てていいですよ。わたし、夜遅くまで起きているの得意なんです」
「……寝られるか」
やや反応に困ることを言われ、思わず唇を結んだ。一拍遅れて吐き出した言葉は困惑しているようにも聞こえる。
「寝ている間にどっかに行かれて魔物に食べられでもしたら目覚めが悪い」
「じゃあお話ししてもいいですか?」
顎を突き出すようにして顔を覗き込んでくる。ため息をついて渋々了承すれば、パッと花が綻ぶように笑顔になった。
「前から気になってたことがあったんです!」無邪気に笑う。「エノクって、わたしのこと貴様って呼ぶけど、あれってわたしの名前だったりしますか?」
「は?」と声に出さないまでも口を半開きにする。貴様が名前だと。本気で言っているのか。
「貴様は特定の相手に限った呼び方ではない。あなたやお前と相手を呼ぶことがあるだろう。それと同じだ」
「なんだー」しょぼんと肩を落とす。「それならやっぱり、わたしの名前はないってことですよね?」
エノクの眉間に皺が寄る。これは困った時のエノクの癖だ。あまりの険しさに怯える者もいるのだが、少女はなんら気にしないで続ける。
「そ、それなら、あの、お願いがある、あるんです」
なぜか急に口の滑りが悪くなる。
「願い?」
「はい! お願いです!」
ぴょんと元気に跳ねながら立ち上がる。くるり振り向いてキラキラとした瞳を向け、両手をお椀のようにして突き出してくる。
「わたしにあなたの名前を半分ください」
彼女の表情は至極真剣。対するエノクの眉間の皺は更に深く刻まれていく。
「名前を、半分……?」
「はい!」と大仰に頷く。
「エノクって本当は『え・の・く・の・あ』って言うんですよね?」
「覚えていたのか」
「えへへ。うん! でも言いにくいからゆっくりじゃないと言えないんですけど……。で、今のえ・の・く・の・あ、さんは、え・の・くだけ使って、の・あの部分は使ってないでしょ?」
使っていないというよりは、長いから省いているだけである。
「だから、その使ってないノアの部分をわたしにください! 大切にしますから!」
お願いします、と頭を下げる。
名前をくれと来たか。子どもの発想のなんと柔軟で突拍子もないいことか、と脱帽してしまう。
だがしかし、エノクは逡巡する。
名前がないとこの先不便なのは確かである。二人だけなら構わないが他の人がいる場面で、名前がないからと二人称でしか呼んでいないと言うのは体裁が良くない。奴隷の密輸だのなんだの、あらぬ疑いをかけられて面倒だ。
黙りと考え込む。目の前には期待した眼を向けてくる少女。根負けするのに時間はかからなかった。
「わかった。私の名の一部を貴様にやる」
「本当!? わーい!!」
ばんざーいと両腕をあげてぴょんぴょん跳ね回る。そんなに嬉しいものだろうか。
(……いや、確かに嬉しいものなのかもしれないな)
細められた目はどこかの懐かしい光景を見ているかのように、微かに優しい色を帯びる。
「エノク!」呼びかけられれば、いつもの無表情に戻る。顔をあげた先では、夜空をバックに三日月の瞳と視線が交わる。
「わたしの名前を呼んでください!」
嬉々とした、弾んだ声。喜びというものに久しく会っていなかったため、その表現の仕方すら遠い彼方の産物になっていた。
しかし、なるほど。こうして人の子は――生き物は、喜びを物語るものであっただろうか。
可愛い服やぬいぐるみのような女の子が喜びそうなものでもない。金や宝石のように誰もが喜びそうなものでもない。
お下がりの名前のその一部で、こんなに喜べる者もいるのか。
「……ノア、来い」
「――っ!! はい!」
何故、無駄な言葉を付け加えたのか。勢いよく胸の中に飛び込んできたノアに抱きつかれながら当の本人は首を傾げる。
これが庇護欲? それとも別の何かだろうか。頭の中で唸っていると、まもなく小さな寝息が聞こえてきた。全く忙しない娘だと、ひっそりと息を吐き出した。




