第1章 辺境の村にて3
炎が鎮まり、灰の村と化した地にエノクは再び足を踏み入れた。
焼かれた木はかろうじて形を残しているものもあるが、それらは干からびた血管のように細く、萎びている。灰に埋もれたまだらの地面には、ところどころに薄汚れた人骨が石同然に埋もれている。
人の骨らしきものを摘んでは、唯一燃えずに残っていた建物の前に集める。石造と思しきそれは、家というにはあまりにも小さい。瓦解した建物の中には、何かを模っていたらしい、彫刻の残骸のような長方形の巨大な石が立てかけられるようにして、壁にもたれかかっていた。
灰色の地面に穴を掘り、骨を埋めた。その傍に例の石を置く。
「これ、何ですか?」その様子を見つめていた少女の声がおずおずと問う。「墓だ」
「お墓……。みんな、死んじゃったんですか?」
傍らの少女はエノクの袖をぎゅっと握り締めた。「ああ」と静かに頷く。
「そっか……」
まだ十歳にも届かぬほど、年端のいかぬ少女と見える。そんな幼子に事実を突きつけることが酷であることは百も承知。しかし、あの状況。そしてこの惨劇を前にして嘘をついたとして、どれくらいの意味があるだろうか。
「貴様、この村以外に親戚はいるか。友でもいい」
「ううん、いないです。わたし、ひとりぼっちだから」
「ひとりぼっち?」
無邪気な声音で発せられた言葉に、思わず少女を振り返る。少女は目があったのが嬉しかったのか、はい、と口の端を上げた。
「わたし、ここの奴隷ですから。お母さんは私を産んですぐに死んでしまって、お父さんは知りません。友だちも、いないんです」
言葉を失った。なんだって、この少女はそんなことを嬉々として話しているのだ。
――理由は単純、ただ話しかけてくれたことが嬉しかったからである。人が自分を気にかけてくれている。そんな当たり前のことが彼女にとって、喜びに直結している。
「貴様、名は」「奴隷」「違う。親からもらった名だ。あるだろ?」
少女は目をパチクリさせる。首をあっちに捻ってこっちに捻って、悲しそうにまつ毛を伏せる。
「ごめんなさい。わからないです。物心がついた時にはもういなかったから。で、でも、旦那様方には道化とかイモリって呼ばれていました。これは、名前ですか?」
(名前なわけがあるか)
それは蔑称に他ならない。そんなこともわからないとは。胸がちくりと痛む。
(この娘、この歳になるまで一度も名を与えられなかったのか)
逸れ魔物の自分にも名前はあった。
とは言っても、名付けてくれたのは親ではなく、同じ逸れ魔物であった友人たちなのだが。
魔物ですらそうなのだ。魔物よりも感情が発達しているはずの人間が、どうしてそこまで冷徹になれる。同じように言葉を交わすことができる存在に、なぜ同じ人として扱わずにいられる。
疑念を抱いても、その答えを理解することはできまい。いかんせん、彼は魔物。人間のような思考力を持っていても、感じる世界が違うのだ。
「ご、ごめんなさい。わたし、だめなことを言っちゃいましたか?」
自然と表情が強張っていたのだろう。しゅんと項垂れている少女の頭に手を置く。手のひらに収まってしまう小さなそれは、少し力を入れただけで握り潰してしまいそうなほど心許ない。
「貴様が謝るようなことはない」
謝るべき者はすでに灰燼となったか、あるいは今し方ここに埋めてしまった。痛ましい事実であるはずなのに、同時にこれでよかったのではないかという考えが過り、視線を逸らした。
長いロングコートを翻し、墓標に背を向けて歩き出すと、「どこにいくのですか?」と少女が袖を引っ張った。
「隣の村だ。そこになら、貴様を養ってくれる家があるかもしれない」
とは言っても、ここら辺の村などどこも厳しい状態であることには変わらない。しかし、子どもは未来の労働力。人口が少ない村や高齢化が進んでいる村なんかは、大喜びで引き取ってくれるはずだ。そういうとこならば、少なくとも今までの暮らしよりはマシだろう。
数歩歩いた所で不意に袖の重みが消えていることに気づいて、エノクは僅かに振り返った。少女は先ほどの場所で立ち止まっていた。呆然とした様子で、こちらを見つめている。
「どうした」
「……また」
少女が後ずさる。怯えた表情で首を必死に横に振り翳す。
「また、痛いことをするんですか?」
ただならぬ様子に思わず息を呑む。少女は目元を覆うように腕を重ねた。
「え、っと、えっと。そ、掃除もせ、んたくも、料理でも、なんで、も、やります。朝、早くから夜おそ、くまで、働けます。できます。だから、いた、いのは、痛いのは、やめ、やめて、ください」
懇願にも似た、明確な拒絶の意思。不自然に切れた言葉の節々がまるで機械仕掛けの人形のように歪な音を発する。唇は戦慄いて、体が小刻みに震え出す。
「え、え、っと。ごめんなさい。ごめん、なさい」
震えはもはや振動に近い。壊れたように呟かれる呪文。そのほとんどがごめんなさいと言ういく宛のない謝罪であった。
錯乱した彼女の様子を言葉なく見つめるエノク。脳裏には苦い過去の映像が浮かび上がる。
魔王と呼ばれる遥か昔、まだ友と呼べる存在すらおらず、幼い子どもの魔物の一体に過ぎなかった彼は、生きるために弱そうな村人を襲っては食べ物を掻っ攫っていた。そのたびにものが投げられた。ひどい時は刃物が腕に突き刺さった時もある。それでもまだ魔物の中でも知能があった彼は、どうにか生き延びた。しかし、傷つけられた日の後は、いつも体が震えていた。どうしてそうまでして生に執着していたのか不思議なほどに。
(同じ、か)
目の前の娘がどのような虐げを受けてきたのかは知らない。しかし、魔物よりも情緒が豊かな人間の、年端も行かない小娘が痛みという苦行を耐えるのに、いったいどれだけの心を潰す必要があるだろうか。恐怖という感情が残っているのであれば、今までの彼女はどれだけその感情に向き合ってきたのか。
一歩、足が後ろへと引き返す。二歩三歩と近づけばもう見下ろせる距離に少女が丸まっていた。いつの間にか、その細い脚は立つことすらできなくなっていたのだ。
小さな体を持ち上げる。背負っている剣よりもずっと軽く、薄い服越しに骨の感触までもが伝わってきた。あの時は対して気にも止めなかったが、子どもといえど、あまりにも貧相な身体。
持ち上げられた少女の腕の隙間からボトボトと涙を落ちていく。鼻からも水が垂れていた。
「う、売らないで、ぐだざい」
ここの奴隷は買われたものじゃない。
荷運びが言っていたあの言葉が本当ならば、なぜ彼女は人を売るという発想ができるのだろう。
なぜと問うまでもない。自分が奴隷である(売買されるもの)だと、刷り込まれているのである。
「わかった」エノクは真っ直ぐ少女の瞳を見つめる。
「私が貴様を引き取ろう。主人ではなく、保護者として」
「ほご、しゃ?」
「貴様を守る者だ。痛い思いからも、苦しい思いからも、貴様を守る」
それはなにも慈善からの発言ではない。どちらかというと同情や、もっと個人的な理由に由来するものであった。
涙がぴたりと止まる。まんまるに見開かれた瞳は戸惑いに揺れる。
「わたしを、守ってくれる、ですか? それってわたしのお父さんになってくれるってこと? それとも、お母さん?」
「……それは違う。貴様の父も母も一人だ。私ではない」
「違うのに、守ってくれるの?」
自分を守る存在は父や母しかいないとでも、この少女は思っているのだろうか。
「そうだ」
淡々とした口調で肯定すると、再び少女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。「何故泣く」眉間に皺が寄る。
「えへへ、なんででしょう。なんでかわからないけど、涙が、とまらっ、なっ、う、うぅ」
途端、堰を切ったかのように嗚咽を漏らす。
静寂な灰の村の中心で、少女の鳴き声だけがそれを破った。
どうしたものか。魔物に人のあやし方などわからない。もしかしたら母親の魔物であれば知っているのかもしれないが、血生臭い世界に身を置いていた男の魔物には皆目検討もつかなかった。
とりあえず泣きたいのであれば泣かせておくか、と左腕に少女をちょこんと乗せるように抱き抱えると、小さな両の手が胸元の服をきゅっと掴む。
額が肩口に押し付けられる。鼓膜がビリビリと震えるものだから、思わず顔を顰めた。
彼女が泣き疲れて眠った頃には、空にはぼんやりとした月が浮かんでいた。




