第1章 辺境の村にて2
今から約百年ほど前の出来事です。
世界は魔物の王様に乗っ取られかけておりました。
田畑は魔物の食事処。街道に出れば魔物に食べられてしまいます。人々は自分たちの村や町からなるべく外に出ないように、ひっそりと生きておりました。
日毎に闇は深くなり、魔物の動きは活発になっていきます。
そのような世の中であっても、人々が耐えることができたのは、一重に、小さな希望の光を見上げていたからです。
『小さな村の片隅で、剪定の剣に選ばれた勇者が魔王を倒す旅に出る』
天眼の継承者による短い短い予言。この予言こそが、人々は生きる希望を与えました。
ある日、小さな小さな辺境の村で、とある少年が旅に出ました。
彼の傍には幼い頃から苦楽を共にした剣がありました。
最初は小さな旅の冒険隊でした。しかし、村と村を渡り歩き、町と町を行き来して、勇者は仲間を増やしました。
長い長い旅の末、勇者は魔王の城に辿り着き、ついに魔王と対面します。
巨大な体躯に鋭い鉤爪を生やした手足に、黒檀の肌に影を縫い合わせたように靡く髪。冷徹な面の魔物の王は、勇者の仲間たちを一人、また一人と追い詰めます。そして、勇者もまた、膝をついたのです。
しかし、勇者は諦めませんでした。歯を食いしばって立ち上がります。
勇者の眼前が蒼白の光に包まれると、暖かな光に包まれて剪定の剣が姿を現しました。
剪定の剣は災禍を払う命の剣。生命を傷つけない奇跡の刃。
勇者が剪定の剣で魔王の心臓を貫くと、獣の咆哮のような絶叫が響きました。そして、巨大な躰は地面に倒れ伏したのです。
こうして魔王を討ち取った勇者たちは平和を取り戻しました。
三日三晩の宴の後、勇者たちは幕を引くように表舞台から姿を消したのです。
めでたし。めでたし――。
――ねえ
誰かが問う。
――勇者たちはどこへ行ったの?
その疑問は最もだ。彼女はふっと目を細めた。
『そう、この話には続きがあるのです』
パチパチと、火が爆ぜる音がする。煙たい臭いに顔を顰めて目が覚めた。
世界が赤かった。暑かった。汗がダラダラと垂れる。臭い。目が、痛い。
窓の外を見て、目を見開いた。微睡の中で聞いていた老婆と子どもの会話は、断末魔に代わりに、叫び声が四方八方から飛び交う。
人が逃げている。あっちへ行って、こっちへ行って、炎の中を必死に、狂ったように、逃げている。
黒い煙が頭上に広がっていく。部屋の中を見たさんとする煙は、ドアの向こうから漂ってきていた。
チッ、短く舌を打ち、大剣を携えて壁ごと窓ガラスを粉砕した。
人が燃えていた。叫ぶこともできないまま、炎の中に消えていく。逸る気持ちで床を蹴って、外へと飛び出た。
『戦いが終わった後、力尽きた躰に鞭を打って、その場から魔王は逃げ出しました』
走っても、走っても、炎が先回りをしている。あるのはただ、赤く燃える炎と、崩れ落ちた何かの燃え滓のみ。
『追っ手が追いかけてきました。ここにはもう、彼の敵しかいません』
行きた人間はいないものか。必死に呼びかけても、返事は返ってこない。見覚えのある荷車が大きな火に飲み込まれた。
『体が軋み、口はうまく言葉を発せない。それでも彼は懸命に逃げたのです。仲間はとうにいませんでした。逃げたのか、死んでしまったのか、彼にはわかりません。見覚えのある残骸を見つけるたび、彼の胸は深い後悔の念に締め付けられました』
火の粉が飛び交う炎の中、小さいな声が聞こえた。それは、囁くよりも小さく、か細い声だった。彼は声のする方へと走り出す。
『長い時間彷徨って、漸く彼は知ったのです。自分がどれほど弱く、愚かであったか。魔物の王ともてはやされたのは、結局、他の魔物より少し賢く、少し力が強いだけの、ただの魔物だったのです』
崩れた瓦礫の下から小さな手がぴくりと動く。まだ間に合う。瓦礫を力まかせに退かした。
『遠く遠くへと流離の果て、魔王は木々に囲まれた、薄暗い森の中で倒れました。そしてそのまま深い、深い眠りについたのです』
黒く汚れた巨大な板を退かした下に、彼女は力無く倒れていた。うっすら開かれた瞳と目が合う。声も出なくなった唇が僅かに動く。少女の体を抱え込み、炎へと向かう。
『例え釘に打たれても、その体は動きます。例え濁流に飲まれても、最後には岸辺に上がるでしょう。例え炎に焼かれても、灰になることも叶わない。魔王の眠りは、かの生命に与えられた僅かな安らぎの時間でした』
少女さえ燃えなければいい。自分はいくら燃えようが死ぬことすら能わない存在だ。まっすぐ炎の中を突き進み、彼はやがて燃え滓の地面に足を下ろす。
『それが魔王と言う存在。数多の命を食らった怪物。奪った命の数だけ、多くの死の痛みを知りなさい。失った命の数だけ、多くの生を救いなさい。それが死してなお生きるものの歩み。そして』
――それが災禍の化身へと至った愚者への救いなのでした。
静寂な丘の上から、エノクは静かに沈静化していく火を見下ろしていた。
「う……。うぅ」
腕の中の少女が身じろぎ、薄く震えるまつ毛を揺らした。月を映し取ったような、淡い金色の瞳。無数の瞳を連ねたような特徴的な虹彩のそれがエノクを見つめる。
「あな、た。は、いったい……」
小さな少女の小さな手が、煤で汚れた頬に触れる。
「私は……エノクノア」
その名、かつて魔王として君臨した魔物のもの。
「災禍の化身の骸だ」




