第十六章 ヴィヴィアンにて4
それはオーバルたちと話をつけた日から二日後の夜のことである。どういうわけか同じ宿に転がり込んできたバトンとシャヴァラの酒盛りに付き合った末、テーブルやら椅子の上やらでいびきをかき出した彼らを放置して、宿の外に出る。まばらな人の間をすり抜けてやってきた夜風が髪を靡かせる。
「やっぱり、君はそういうことか」
振り返ることはしなかった。宿の壁にもたれ掛かっていた人物は最初から気づいていたからだ。
「何しにきた」低い声で尋ねる。
「少し君と話でもと思ってね。ダダーン」セルフ効果音を聞いてようやく首を動かす。
「幻のうちの村の葡萄酒、飲むかい?」
一升瓶。指で挟んだ二つのグラスがカランと音を立てた。
無言でグラスを傾けて、二杯目のワインレッドの液体を注ぐ。オーバルは静かに話し始めた。
「君はあの少女とはどういう関係なのだ」
「保護者代わりだ」
そっけない返事。
「彼女の母はどこへ」
「知らん。私が彼女に会った時には彼女はすでに一人だった。母親にも会ったことはないと」
その会ったことがないという言葉が文字通り会うことなく死んでしまった、なのか物心ついたことにはすでにいなかった、のかはわからない。当人に聞いたところで首を捻られてしまうだけだろう。
「そうか」少し声のトーンが落ちた。
「君は彼女をどこまで知っているのかな」「どこまでとは」「そのままの意味さ」
ぐいっとグラスの中を一息に呑み干す。ぶはーと吐き出された息が甘ったるい。
どこまで、と聞かれればほとんど何も知らないと答えるしかあるまい。というより、彼女はエノクに会うまでは奴隷として扱われ、その記憶はおそらく彼女に対する話題としてはタブーだ。であればわざわざ過去に踏み込むなど残酷なことは、彼にはできない。
(私も同じ腹だしな)
過去の在り方は全く異なるが、探られたくない過去を持っているのはエノクとて同じだ。ノアが恐怖と尊厳破壊の被害者であるならば、エノクはその類の加害者である。唯一共通点を見出すとすれば、それは自分の意思に関係ない他者によって在り方が形成されてしまったという点か。
ノアは彼の独り言から魔王として存在していたエノクを垣間見ているのだろうが、だからと言って自分もノアの過去を知りたいかと言われれば否である。
黙考によって出した結論はそんなわかりきったもので、その間の無言にオーバルはため息を吐く。
「なんだ。結局何を言ったって、彼女は一人じゃないか」
「は?」
同情するような声音に頭がチラと熱くなる。
「もし私が舞台の登場人物だったなら、きっと彼女を孤独にさせなかっただろう。しかし、私はあくまで舞台の幕を再び開けるための道化に過ぎない」
そういうと、徐にベストの胸ポケットからシルバーの十字架を取り出した。たらりと垂れるチェーン。十字架の中央の楕円の眼と目が合った。それは、などとは聞かなかった。しかし、視線で察したのだろう。
「昔の教会の紋章だよ。今は盾の形になってしまったが、昔はこの不気味なやつだったんだ」
昔、とは何十年、何百年前のものだろうか。教会を破壊した記憶もなくはないのだが、昔過ぎて細かなことまでは覚えていない。
しれっと記憶を探っているエノクの横で、歌うように道化は口ずさむ。
世界という名の神の眼、三つ。
全てを見通す神の眼、三つ。
過去を見つめる神の眼、一つ。
知識の民に守られて、過去を俯瞰する神の眼、一つ。
現在を見つめる神の眼、一つ。
信者の器に引き継がれ、世を導かん神の眼、一つ。
未来を見つめる神の眼、一つ。
心を潰した魔物の中に、枝を数える神の眼、一つ。
世界という名の神の眼、三つ。
全てを見通す神の眼、三つ。
神が与えた生命へのギフト。
「ずっと昔」先ほどの口調とは打って変わって落ち着いたトーン。「信仰という概念が抑圧されだしてからは、この詩を知る者もごく少数になってしまったらしい」
「それを何故貴様が引き継いでいる」
なんの意図もない疑問に、しかし赤い唇はニッと端を釣り上げた。
「私は信心深いのだよ。国が弾圧しようが、後ろ指刺されようが関係ない。と言っても、私の信仰心とやらは神には向いていないのだがね」
くらりとグラスの中の紫の液体を回す。
「もう一度聞く、君は彼女のことをどこまで知っているのかな」
細い顎が持ち上げられ、まっすぐな瞳が問うてくる。そこで漸くこの人物が欲しがっている答えを知った。
重たく閉じた唇が、数分の空白の末に開く。
「私は彼女の保護者だ。彼女が見ている世界がどんなものであろうと私は彼女を守る」
それが保護者という者の努め。そして、自分という魔物の王に生きるきっかけを見出してしまった哀れな少女への誓い。
オーバルはその言葉を聞き届けると、酒瓶の底に溜まる最後を瓶の口に唇を押し当てて煽る。話は終わったとでもいうように、すっと立ち上がった。
「ならば幕開けは任せておくれ。終わったはずの物語を終わらせるための最後の一幕。華々しく飾ってあげるよ」
振り返る事なく、ひらひらと手を振って、自称道化は去っていった。




