第十六章 ヴィヴィアンにて2
「今から約百年ほど前の出来事です。
世界は魔物の王様に乗っ取られかけておりました。
田畑は魔物の食事処。街道に出れば魔物に食べられてしまいます。人々は自分たちの村や町からなるべく外に出ないように、ひっそりと生きておりました。
日毎に闇は深くなり、魔物の動きは活発になっていきます。
そのような世の中であっても、人々が耐えることができたのは、一重に、小さな希望の光を見上げていたからです。
『小さな村の片隅で、剪定の剣に選ばれた勇者が魔王を倒す旅に出る』
天眼の継承者による短い短い予言。この予言こそが、人々は生きる希望を与えました。
ある日、小さな小さな辺境の村で、とある少年が旅に出ました。彼の手には幼い頃から苦楽を共にした剣がありました。
最初は小さな旅の冒険隊でした。しかし、村と村を渡り歩き、町と町を行き来して、勇者は仲間を増やしました。
長い長い旅の末、約二年に渡った冒険の果てに勇者は魔王の城に辿り着きます。魔王の部下達と激しい抗戦を経て勝利を納めた勇者たちは、ついに魔王と対面します。
巨大な体躯に鋭い鉤爪を生やした手足に、黒檀の肌に影を縫い合わせたように靡く髪。冷徹な面の魔物の王は、勇者の仲間たちを一人、また一人と追い詰めます。そして、勇者もまた、膝をついたのです。
しかし、勇者は諦めませんでした。歯を食いしばって立ち上がります。
勇者の目の前が紅く輝くと、暖かな光に包まれて剪定の剣が姿を現しました。
剪定の剣は災禍を払う命の剣。生命を傷つけない奇跡の刃。
勇者が剪定の剣で魔王の心臓を貫くと、獣の咆哮のような絶叫が響きました。そして、巨大な躰は地面に倒れ伏したのです。
こうして魔王を討ち取った勇者たちは平和を取り戻しました。
三日三晩の宴の後、勇者たちは幕を引くように表舞台から姿を消したのです」
「あ、それ」
聞いたことがある。八の村にいた時に語り屋のお婆さんが子どもたちに聞かせていた、ノアにとって一番馴染みのある勇者の伝説。奴隷という身分だった彼女は他の子に混じって聞くことはなかったが、お仕置きとして納屋に閉じ込められている時なんか、おばあさんはひょっこり現れて、扉越しにその物語を聞かせてくれた。
「知っているのかい?」こくこくと頷いて見せる。
「勇者の伝説はね、たった百年前の出来事であるにも関わらず真実は謎に満ちているのさ。大筋は大体同じ。勇者が剪定の剣を携えて魔王を倒す。そして、物語は大体ハッピーエンドなんだ。勇者は自分の村に帰って祝福され幸せに暮らしました。だとか、仲間の一人と結ばれたなんていう説もある。だが、この伝説だけは違う。幕を引くように舞台から消えてしまう。幸せどころか少し気味が悪いだろう」
それは、勇者たちが宴席で次々と命を落としてしまったから。と言うのは辞めた。オーバルの端正な横顔は凛としていながらもどこか悲しそうだったからだ。おそらくは、角度の問題なのだろうけど。
「私はね、この時にねその女性に尋ねたのだよ。物語の結末の先、勇者たちはどこへ行ったのだと。そしたら彼女はね、こう答えたのさ」
――そう、この話には続きがあるのです
――勇者の命は終わっても、この物語は終われない。だから終わりはないのです
ならばどうすれば終わるのか。幼いオーバルは尋ねる。女性はにっこりと微笑んだ。大きなお腹をさする。
――この子が生まれたら、きっと最後の章が始まります。現在の真実を全て映す新たなる聖女。私の目が完全に見えなくなった時、この子は最も醜い世に生まれ出ます
なんて事のないように微笑む女性の言葉にギョッとしてオーバルは彼女の眼をまじまじと見つめた。
月のような淡い金色の瞳には亀裂のような眼状紋が刻まれている。本当の月のようなその双眼に釘付けになる。女性は唇を和らげた。
――ねえあなた、もしかして神様を信じていらっしゃる?
オーバルの首には十字架に目の形がついた銀色のネックレスがぶら下がっている。これは父が亡くなった檻に母に駄々を捏ねてもらったものだったが、そんな浅ましいことを口にできなくて、黙りこくって頷いた。
――ふふ。小さいのに珍しいわ。なら、一つお願いしても良いでしょうか
こくりとまた無言で頷く。女性相手なのになぜか酷く照れ臭い。
――もし私と同じ瞳の子に出会ったら、どうか伝えてほしいのです
オーバルが片膝をつけ、小さな少女の手を掬うように取る。
「『その瞳は全てを導く光。その瞳は全てを見届ける太陽。終われなかった舞台の幕を引くための最後の章を見届ける者』」
その姿、まるで舞台の幕を上げる語り部のよう。
――私は失ってしまったから。
「『どうかあなただけは、自分の真実を見失わないで』」
三日月のように目を細めるオーバルに、別の女性の面影が重なる。ノアはこの女性に会ったことはない。しかし、知っている。おそらくは自分が生まれたと同時に瞳の輝きを失ってしまった女性。たった一人の肉親。栗色の髪に白塗りの肌。印象的な金色の瞳は自分のそれと同じで、月のように輝く眼状紋。
「お母さん……?」
そう呟いたと同時に、体がふんわり宙に浮く。脇の下をがっしりと掴まれて、視野が一気に高くなった。宙ぶらりんになっている腕と胴の間に差し込まれた大きな浅黒い手。
「エノク……」
振り返れば、キッと目を怒らせてオーバルを睨みつける魔物の姿があった。




