第十五章 奇縁にて2
次の日の昼前ごろ。眠りから覚めた人々が思い思いの靴の音を響かせ始める時間帯。エノクは足早に人波をかき分けていた。いつも無表情なその顔に、珍しく汗が流れている。
事の次第は十分ほど前に遡る。シャヴァラに午前中だけでもノアを遊びに連れて行ってやってはどうかと押し切られ、ノアとガレアスを連れてタイル張りの街を歩いていた。
まだ昼間。働く者は働いているであろう時間でも街の中は観光客らしき人でごった替えしていた。そんな中、ノアは炉端に芸人がいれば立ち止まり目をキラキラと輝かせてはまた次へ。良い匂いがする屋台を爪先立ちで覗き込んだかと思ったら、声をかける前にその場を離れてしまうを繰り返していた。さながら花と花の間を飛び回る蝶のようにフラフラと周遊している彼女の後ろをエノクはついて歩いていた。
だが、今、その彼女と側で尻尾を振っていたはずの獣がいない。端的に言ってしまえば逸れたのである。
何も買わないのもどうかと思い、女の子が好きそうな小さな丸い焼き菓子を買ってやろうと店主と会話をしていた隙に、一人と一匹の姿が忽然と消えていた。暫く何が起こったの理解できず呆然と立ち尽くしていたが、はっと我に返って十分ほど、ひたすら走り回っていた。自分の上背であればある程度見渡すことができるが、いかんせん人が多い。特にここは街の中心的な場所で、屋台も多ければパフォーマンスをする芸人に群がる客も多い。
(一度アオノたちと合流すべきか)
彼とシャヴァラはあの大きなテントのオーバル旅芸団の情報を集めるとか何とか言って、エノクたちよりも先に出てしまっていた。情報を集めると言っても、内部の情報が主であろう。であれば出店や客よりも宿等の建物の使用者に話を聞くだろうか。
「おーい! ひょっと待ってくれよぅ、旦那!!」
頭の中でこれからの行動を整理していると、酔っ払いめいた声が聞こえてきた。こんな真っ昼間から飲酒とは、やはりこの街は少し変わっているのかもしれない。
「あ、ちょっと! しょこのお兄さん? 浅黒い肌の! 黒髪の!」
「……?」
浅黒い肌で黒髪。それはエノクの特徴だ。沈んでいた視線を上げて目だけで声の持ち主を探す。
「ここ、ここっすよ! 俺そこまで背低くないでしょ?」
視線を少し下げる。そこにいたのは赤ら顔に黄土色のギザギザした短髪の――。
「貴様、いつぞやの店主か」
ハブの村で色々機転を効かせてくれた店主である。顔こそ真っ赤だが、それ以外はあの時と何ら変わらない。やや目の下のクマが目立つ程度に成長しているぐらいだ。
自分のことを思い出してもらえて嬉しいのか、店主はうんうんと頷くと胸を拳で叩く。
「そうっすよ。あ、もしかして名前覚えてません? バトンっす」
危うい呂律と共に屈託ない笑顔が返ってくる。
「お久しぶりっすねぇ旦那」
ガレアスが突然走り出し、どこかの路地裏らしきところで止まるまで、ノアはその背中にしがみ付くことしかできなかった。エノクが屋台の主人に何言かを伝えている間、瞳を爛々とさせたガレアスは突然地面を蹴って疾走し出した。それに気づいて引き留めようとしたはいいものの、うっかりガレアスが魔物であるという事実が頭から抜け落ちていたものだから、その強烈な力になす術なく引っ張られ、今しがた停止した。
「も、もう。ガレアスどうしたの?」
明らかになれていない口調で叱って見るが、狼の相貌はノアのことは見向きもせず、熱心に何へと注がれている。よく見れば、口の周りの毛は濡れて、鼻はしきりにスンスン鳴らしているようだ。
「まったく」今度は本当に少し立腹して、腰に両手を当てる。彼の視線を追いかければ、ノアより頭一つ分程度小さい赤い鳥に、金色の立髪を揺らす獅子のような獣に、灰色の二対の狼が視線を集中させてじっと佇んでいた。
「あれって、魔物?」
「かふっ」
エノクやアオノがバッサリ切り捨てる魔物の中に、似たような獣型がいたような気もする。どれもあの赤い鳥と金色の獅子は普通の動物ではないだろう。
「はいはい一人ずつ順番だ。えらいぞー。好物を前にして我慢できるだなんて人間以上の知性の持ち主だ」
女性とも男性とも取れる中性的なハスキーボイス。にゅっと視界の影から伸びてきた腕の先では肉の塊が指で摘まれていた。だらりと垂れた肉の塊を赤い鳥の嘴が受け取る。
「もしかして、あれが食べたいの?」
「わふん」尻尾がブンブン振られる。「ガウガウ!」
「ちょっと!?」
我慢できないとでも言うようにガレアスが飛び出してしまう。ノアの制止の声は虚しく宙を殻ぶった。ともなれば、自分も同じように飛び出す他ない。
「おや?」
ヘッヘと舌を出しながら飛び出した青い狼。次いで茶色のおさげの少女がその狼の首を両腕で抱きしめるように拘束した。餌をやっていた、女性あるいは男性は目を丸くする。
「す、すみません。この子、お肉の匂いにつられてしまったみたいで」
すぐに連れて行きますからと言う少女は、力一杯狼を引っ張るが、狼にしては大きな体はびくともしない。爛々と輝く双眸からは期待の光線が放たれているかのようだ。
にっこりと赤い唇が持ち上がる。
「案ずるな可愛らしいお嬢さん。この肉が欲しいのならくれてあげよう。どうせこの子たちのために腐るほど用意したんだ。一切れや二切れ無くなったところで些事というものさ!」
そう言って気前よくガレアスの口元に肉を運ぶ。ガレアスはよだれでべとべとになった口でそれを受け取った。数回咀嚼してぺろりと喉の奥へと収納する。
「良い食べっぷりではないか! 君の団体に所属していなければ、是非ともうちにスカウトしたのに」
「すかうと?」
「ああ! こんなに毛艶がよく、眉目秀麗、しかも人懐っこい魔物はそうそうお目にかかれない。一体どこの団の所属なんだい? 今度暇な時にでも足を運ばせておくれ」
「だ、団って?」
団体といえば団体だが、〇〇団のような呼称はない。返答に困った末。
「私たちは、旅の団体です」と当たり障りのないことを答えた。しかし、その返答が目の前の人物にとっては意外だったように、大きく瞼を瞬かせる。
「旅の団体? それは旅芸人の団体ということかい?
顎に指を添え、顔を顰めた。
「違います。普通に旅をしているんです」
「普通に、旅……あっ」
必死に伝えようと顎を上げていたノアと目が合う。その瞬間、びりっと電流でも走ったかのように端正な顔が硬直する。束の間の空白の後、ずいと顔が目と鼻の先まで近づいた。猫のような赤い眼がしげしげと金色の瞳を覗き込む。
(この虹彩は――)
「な、何ですか!?」
最近は常にエノクか誰かがそばにいてくれたが、今は肉につられているガレアスしか側にいない。そのような状況で大人(性別不明)に顔を覗き込まれるというのは、衝撃的な出来事である。気丈に目を逸らさないようにしているが、その瞳には涙が溜まりつつある。
「ああ! すまないすまない! 私は怪しいものではないのだよ」
顔を引いて、自分は無実だとでも主張するように両手を挙げる。
「そうだ! 私の名を伝えていなかった。私は」灰色のベストの胸ポケットから赤いハンカチを引き抜く。くるりと円を描いたそれはノアの前で一輪の赤いバラに姿を変えた。
「オーバル。ガリナス曲芸団の座長を務めさせていただいているよ」
気障ったらしく片目のまつ毛をばさりと揺らし、オーバルは形の良い唇で微笑んだ。




