第十四章 リベルタ領にて2
目視で測った距離よりもその樹木はやや遠い場所にあった。いや、樹木というよりは大樹である。太い幹から四方八方に伸びる枝は、先端に行くほど繊細に曲がりくねり、青緑色の冠がキノコの嵩のように大きく開いている。
その下に、人の影らしきものが立ち尽くしていた。腰には剣を侍らせて、取り憑かれたように大樹を見上げている。
太陽も沈んでしまった今となっては、正しい色彩の判別は難しいが、黒に周りの影と浮いている。青にしては沈んでいる。おそらくは、藍色の頭髪。
シンプルに白いシャツに水色らしいパンツを履いる。おそらくは、男。ボーイッシュな女でなければ。
声をかけようかと数秒悩んでやめる。こんな暗がりの、人気のないところで自分のような大男に声をかけて驚かれでもしたら困る。何より、街から離れているとはいえ依然として屋根やら街灯の光やらが見える距離である。あの警備たちとまではいかないが、心配する必要もないだろう。
それより枝だ。足元に落ちているのをかき集めれば足りそうか。
身を屈めてひょいひょいと指で摘むを繰り返す。
「旅の方ですか」
背中越しに声をかけられる。指がぴたりと止まった。
「ここでしたら、街はもうすぐそこですよ。宿ならいくつかありますし、泊まって行ってはいかがでしょうか」
物腰穏やかな話し方である。そしてやはり男の声であった。エノクは首を横に振る。
「そうですか。いいところだと思っているのですが」
声音は落ち着いている。呼吸も正常。忍び寄った足音もまた普通である。
だが、隠せていない。
キンと甲高い金属音。柄を握って僅かに剣身を出したそれが防いだのは、細身の白銀の一線。キリキリと力任せに押し込むそれを抜刀がてら振り払う。
男は大きく飛び退いた。その小綺麗な顔が僅かに歪む。
見覚えのある顔――ウラノスで深手を負わせた騎士、テオである。藍色の髪の持ち主は多いとのことだったが、言われてみれば彼も藍色の髪の持ち主か。厳つい甲冑やらマントやらは羽織っておらず、しっかり固めていた前髪が今は垂れているため、幾分あの時より幼い。
(いや、幼いのは外見だけではないか)
好戦的な眼差しだった。獲物の捉え方を覚えたばかりの子どもの狼か、それとも自分がなんでもできると錯覚している子猫だろうか。そんな眼差しをこちらに向けている。
「やっぱり、簡単に防いでしまうのですね」
「殺気を隠してから言え」
「……っ」生唾を飲み込む。伏せられたまつ毛がわなわなと震えていた。
(無意識だったのか?)
テオは地面に足をめり込ませ、だっと間合いを詰める。その動きもどこかぎこちない。少なくとも、あの時程のキレはない。
弧を描いた白銀の閃光を背中を逸らせて見送る。左下から突き上げるように刃が翻れば、首を傾けてそれを避ける。剣筋が以前にも増して見やすい。体の動きが明らかに遅い。
(右が完治していないか)
利き腕が治っていないのだろう。であれば素早く剣を振ることは不可能だ。力量が開いてしまったとしても頷ける。
とはいえ、そうなると疑問が湧き出る。
「貴様、何故私に剣を振るう」
確かに一度は叩きのめしたが、それだけでこれほど殺気を向けられる覚えはない。母親でも殺されたかのようなそれに、多少の困惑を覚えるのは必然である。
テオは答えない。ただ息を荒くして、ギラギラと双眼を鋭くするだけ。
異様だ。振る舞いは狂人のそれに近い。しかし、自我を失っているかと言えばそうではない。でなければ、一度負かされた相手を前にして冷や汗など流さないだろう。
(多少乱暴だが、仕方あるまい)
剣を構える。一線、縦に落ちていく。その剣身を後方に避け、剣身を打ち付けるように重ねた。
僅かな火花。刹那の剣戟。細い剣身が力と風圧に押されて撓む。刃が彼の頬に朱を引く。
テオが後ろに飛び抜けば、大剣は大きく振りかぶって、宙を二つに裂いた。風刃がテオをさらに後方へと押し込んで、無数の糸が傷を刻む。シャツにはハサミで切るよりも細い切り込み。解れはするすると綻びへと変わる。
来い、と眼で促せば、飛び跳ねるようにテオは駆ける。力量など明らかだ。なのに彼は立ち向かうのをやめない。
剣を構えた。右足を大きく引いて、ただ静かに獲物を待つ。構えを取ったのはせめてもの礼儀。本気で打ち込んでくる彼への――。
「――?」
大きく飛び上がった体。向けられる切先。いなすことは簡単だ。だが、いなす以前にそれは落ちていく。エノクの体にとても届かない距離で、ゆっくりと、体が落ちていく。
前傾する姿勢。振りかぶった剣から手が離れる。頭と足が水平になる。はあと吐き出した息のなんと重いこと。
顔が地面に伏せて、その横に剣ががらんと落ちた。
触れてなどいない。剣はおろか風を介してすら、触れていない。なのに、目の前の男は倒れたのだ。
細かな傷はどれもかすり傷で済む程度のもの。ならば以前の怪我がまだ完治していなかったのが原因か。
くっと口を結んで倒れた男に近づく。よもや死んではいないと思うが、多少気掛かりではある。気絶しているだけならば、そのまま街の近くにでも転がしておけばいい。そうして膝をついた。
「エノク! その人まだ――!!」
ノアの叫びに反射的に体を反らせる。眼球の先、鋭い白銀が走る。
ばたり、と腕が墜落した。握っていた剣は滑るように手から離れる。指先が相棒を求めて震えれたが、鋼の剣が柵のように突き刺さり、その道を拒んだ。飛んできたアオノのそれである。はは、と弱い嘲笑が薄い唇から漏れた。
「魔物の旅人よ。今の僕は、さぞ見苦しいでしょうね」
答えはない。
「一度は公務としてあなたに挑み戦った。そして此度は個人として、あなたの不意を突いたのに、僕は負けた。魔物であるあなたに負けた!」
がんと左の拳を地面に打ち付ける。
「魔物を憎んでいるのですか」
アオノが静かな声音で尋ねれば、顔を地面に擦るように首を横に振る。
「憎む理由が僕にはない。ですが、我々にとって魔物とは悪の象徴なのです。悪を下してこその騎士。……なのに、あなたが僕を見下ろしたあの眼が、問うのです。騎士の行なっていることが正義なのかと。魔物のあなたの眼が問うてくるのです」
テオが首を持ち上げる。血走った眼が上を向き、食いしばった歯が牙のように覗いている。
「教えてください、魔物の旅人よ。あなたの眼に僕たちはどう映っている。今の、この国は、どう映っているのですか!?」
悲痛に濡れる咆哮。子犬が狼に自分の領土を取られまいと吠えるような心の叫び、威嚇、あるいは懇願。
この子犬は利口だ。おそらくは、すでに自分の中で考えが出ている。しかし、答えにするには納得できていない。感情が、それを拒否している。
「あの時、私は言ったはずだ」
低い声が落ちてくる。
「堕ちた」
同じ言葉を、あの時よりもはっきりと、エノクは口にした。テオの目が見開かれ、悲しげにまつ毛が伏せられる。力尽きたように、額を土の中へと押し当てた。
エノクは知っている。本当の騎士というのがどれほど実直で愚かであったか。体裁を捨ててまで、己が信念を貫き通す存在であるか。かつてそういう男がいて、勇者たちと自分の邪魔をしてくれた。その男が騎士ならば、やはりこの青年は騎士ではない。騎士という称号を大事に大事に撫で回しているだけの愛好家である。
「枝は十分だな。戻るぞ」
適当な枝をかき集め、エノクは伏せたままの青年の横を素通りする。ノアは、振り返る様子のない背中と倒れた青年の間に視線を行き来させ、アオノは剣を納めそれに続く。
しんと夜は静まりかえる。パチパチと聞こえてくる焚き火の音は、やけに物悲しい夜を演出した。




