第十一章 庭にて
ノアを背中に担いでいるエノクがガレアスの先導によって、アオノたちと合流したのは半日程あとのことであった。呑気に眠りこけていた二人は、青い炎の尻尾にきゅっと瞼を固く閉ざした後に、体を起こした。
「遅かったではないか」
いつもより幾分かふわふわした声で、目元をゴシゴシこすりながら彼女は立ち上がった。
「すまない」
「ノアちゃんは寝てるんですね」
アオノも立ち上がると、エノクの背でぐうぐう眠っている少女の顔を覗き込む。熱はすっかり下がっており、寝顔は穏やかであった。
「さて、犬コロ。このままワシらを庭まで案内してくれぬか? 備蓄が心許ないのでな。川辺か木の実があるところを通れば尚良し」
「がふっ」
返事をするように一鳴きし、尻尾を緩く揺らしながら歩き始める。青い尻尾を灯火代わりに、三人分の足音がそれに続いた。
「あの、エノクさん」道すがら、アオノが声を潜ませて尋ねる。視線は前方を意気揚々と歩いている青い獣の様子をチラチラと伺っていた。
「ガレアスって、霧雨の精霊、なんですよね? あの幻惑も彼の力なんですか?」
「おう、それはワシも興味がある話じゃ。どうなのじゃ若造。あれほど広範囲に、しかも長年雨を降らせ続けたなど、並の精霊じゃないのじゃろ?」
「知らん」毅然と言い切った。
「知らんとはなんじゃ知らんとは」
「私は……魔力関連のことはわからない。魔力はないし、探知することもできない。だから知らん」
まるで拗ねた子どものように一方的に言い捨てると、それ以上は話したくないとでも言うように歩を早めてしまう。
残された二人は互いに顔を見合わせて、にやける口元を抑える。
つま先の向く方へと顔を上げると、岩と骨しかない荒野の地平線上に、艶やかな森林が、陽の光を浴びて蜃気楼のように浮かび上がっていた。
『帰らずの庭』は不思議な青緑色の葉を頭に被った木々にぐるりと囲まれた野原であった。薄く敷かれた草花のカーペットの上に、大小様々な花が体を寄せ集まって、酔いしれるような香りを放つ。ピンクや青の派手な羽を広げた蝶が舞い、小さな魔物が顔を上げては、サーっと走り去っていく。
パチリと目を覚ましたノアはその光景に感嘆の声を洩らした。まるでお伽話の一場面を再現したかのような幻想的な光景に無邪気に瞳を輝かせた。
「なんか、不気味な名前のイメージとはかけ離れてますね」
魔物が跋扈し、猛毒の植物が牙を向くような光景を想像していたアオノも忙しなく辺りをキョロキョロしていた。荒野に浮かぶオアシスとか、秘密の花園とか、そういう幻想的な名前の方がしっくりくるような気がした。
「なんじゃ? 寧ろピッタリじゃろう」
シャヴァラはやれやれとでも言うように肩をすくめる。
「幻惑の雨で幻を見せて、覚めたものに待ち構えているのは本当の幻想郷。疲れ切った迷い人が感動して帰る気力を失っている間に、魔物たちの餌食になる。ほれ、木の陰を見てみろ」
細い顎の先にはギラギラとした双眼を光らせる熊のような魔物が一、二、三――とこちらの様子を伺っている。アオノはぞっとして呑気に花の匂いを楽しんでいるノアを引き寄せた。
「安心しろ。やつらは私たちを襲わない」
「魔物は生存本能だけで言えば人間の比じゃないほど優れておる。明らかに上位の存在に手出しはせぬわい」
「そ、そうですか」
とはいえ、獲物を狙う視線は逸らされることはないため、袋の鼠になったようで、胸がざわついていた。
「にしても、ガレアスはどんどん先に行くのう。よもやこのまま魔王城にまで行くつもりか」
「あの城はほとんど残っていない」
淡々としたエノクの言葉に、シャヴァラが怪訝な顔をした。
「はて? いつの間に壊されたのじゃ?」
「明確にいつと断言することはできないが、私があそこから逃亡した折に大部分は破壊されているはずだ」
「逃亡……。そう言えば、お主がどうやって生き残ったのか、訊くのをすっかり忘れておったな」
「あ、あの」平然と言葉を交わす二人の間におずおずとアオノが割り込む。彼の両手はノアの耳を塞いでいた。
「俺はその……。察しているんで別にいいんですけど、ノアちゃんの前でそう言う話はどうなのかなと」
「問題ない。彼女も私が魔王であることは知っている」
「え」「おや」温度差のある声が重なった。脱力したアオノの手が彼の二分の一ほどの大きさしかないノアの手により引き離される。
「ワシらと離れている間に伝えたのか」
「同じようなものだ」
「なら、いいのかな……?」
「なんの話ですか?」
耳を塞がれたことがやや不快だったのか、ノアがぷくりと頬を膨らませて自分より高い位置にある三人の顔を順番に見上げた。
「ならタイミングとしてもちょうど良い。ワシらとの戦いの後、お主に何があったのか」
真剣な眼差しでシャヴァラが促したとほぼ同時に、先頭を歩いていたガレアスが咆哮を上げた。
眼前には、いつの間にか厳かな鉄と石でできた扉が立ち塞がっていた。その両側に伸びる石壁は、所々蔦が絡まり、苔がじわじわと覆い隠さんばかりに繁茂している。
頭を持ち上げて上を見上げれば、城と思しき建物は、巨人の手に握り潰されたかのように途中で崩れており、壁の一部がゴツゴツと凹凸な尖りを見せている。完全に崩れた壁の一面からは通路らしき内装が覗いており、人よりも大きいであろう瓦礫が積み重なっている。
ガレアスの呼び声に反応するように、扉がゆっくりと開かれる。
「話は後にしよう」
迎え入れられるままに扉を潜れば、背後で扉から差し込む光が徐々に細くなっていき、ばたりと視界が真っ暗になった。青い炎の尻尾だけが、能天気に足元を照らす。
程なくして、暗闇にぼっと小さな火が灯る。蝋燭程度の光である。それを皮切りに、ぐるりと輪を描くようにして橙の明かりが灯る。一見幻想的な光景ではあるが、ゆるゆるとそれを眺めているわけにもいかない。エノクとアオノは柄を握り、シャヴァラはノアを抱き寄せながらいつでも魔導器を発動できるように視線を走らせる。
『汝、名ヲナント申スカ』
やけにおどろおどろしい女の声が反響する。
「ワオーン。グフっ」
「え? お客さん?」
ガレアスが答えるように吠えると今度は若い女の声が反響する。先ほどの声を高くしたような声。おそらく同一人物のものだろう。
ぼっ、と頭上に幾つもの小さな火が灯る。その心許ない炎はパンと両手を合わせる音を皮切りに、眩い光となって、室内を照らした。
冷たい石畳の床。ボロボロの藍色のカーペットは背にした扉から真っ直ぐに正面の階段へと伸びている。階段の左右は鎖を上から下へと垂らしたようなデザインの手すりが沿っていていて、一番手前の部分には爪が伸びた鬼の手の彫刻が天井を威嚇するように指を曲げていた。
階段の横はそれぞれ少し奥まっており、左右に一つずつ扉が鎮座していた。
「うわーお。本当にお客さん? しかも人間ですか!?」
階段上の扉が勢いよく開け放たれ、先ほどの声が隠しきれない興奮を伝える。
そこに立っていたのは一人の女性である。踝まで伸びた白いワンピースの上から、飴色の分厚いローブを羽織っている。左右に分かれた緩い翡翠色の三つ編みは胸まで垂れ、大きな丸メガネが光を反射させている。
「もしかして迷子ですか? だとしたら運が良かったですね。ガレアスくん以外の魔物に見つかっていたら真っ先に臓腑を持っていかれていましたよ」
一方的に話しながら、女性が降りてくる。む、とシャヴァラの眉間に皺が寄った。
「どうしましたか?」アオノが耳元で尋ねる。「いや、なんかすごく知っている顔のような気がしてのう」
戸惑いというよりは、面倒臭い何かがこれから起こることを察してしまったかのように彼女の視線が横へとスライドした。
「それにしても人間なんて久しぶりですねぇ。ここに来るのはガレアスくだけだったし、ガレアスくんも人の言葉は話せないから、こうやって人語を話すのはもう何十年ぶりでしょう。ああ、私の言葉、おかしくないですか? おかしかったら指摘してくださいね」
矢継ぎ早に話した女性が徐々に近づいてくる度に、彼女のメガネに遮られていた素顔がチラチラと見えるようになる。エノクも人知れず顔を顰めた。
「し・か・も、待ってください! 小さい子もいますね。ん? なんかデカブツもいない? あれ? ちょっと待ってちょっと持って。あなたたち――」
おしゃべりが止んだと思ったら、今度はもうスピードで階段を降りてきた。同じ高さの床を踏み締めて一直線に駆け寄ってくる。メガネ越しに左右で別の色を持つ瞳が順番に訪問者の顔を凝視し、大げさに一歩飛び退いた。
「うわーー!! なんだよこのパーチー!!」




