第十章 荒野にて2
エノクは地面に腰を下ろしていた。焚き火を作るための枝などどこにもないが、ガレアスの炎のように淡く青い光を宿した尻尾はほんのりと暖かかった。その尻尾を暖代わりに、浅い呼吸を繰り返すノアを膝の中で寝かせ、体を暖める。
「ガレアス、貴様はずっとここにいたのか」
「ガフ」
ゆらゆら揺れる尻尾を呆然と見つめながら尋ねれば、肯定するような鳴き声が返ってくる。
「百年間もか」
「わふ?」
言っている意味がわかりませんとでもいうように首を傾げる。ガレアスは少し物分かりがいい程度で、頭の作りは犬のそれに限りなく近い。
「待っていてくれたのか」
「わんわん!!」
今度はどうやら意味がわかったらしい。尻尾がブンブンと勢いよく振り回して、口を左右ににっと上げて、嬉々とした表情を浮かべる。
「私なんかを……」
エノクが瞼を閉ざした。痛ましげなものでも見たかのように、悲痛な面持ちが能面のような顔に現れた。
「すまなかった。ガレアス」
ガレアスの緋色の瞳がじっとエノクを見上げていた。
「私の言葉が貴様をここに縛り付けてしまったのだな」
またもや何を言っているかわからないとガレアスは首を捻る。浅黒い大きな手が伸びてきて、ペタンと寝かせた耳と耳の間を優しく撫でる。
「魔王であった時も、撃ち倒された後も、私は皆に迷惑をかけた。いや、迷惑なんていう言葉で済ましていいものではないな。私はずっと取り返しのつかない事を重ねている。今も、まだ――」
視線を下せば、ノアが苦しそうに呼吸を繰り返していた。額に手を当てれば、冷えた指先に熱が移っていく。
「やはり里親を探してやる方が賢明だったのだ。彼女を自分と重ねて同情し、彼女を守る事で少しでも罪を償った気になっていたのが、そもそもの間違いだった」
いつにも増して饒舌なエノクの言葉を、ガレアスは黙って聞いていた。この賢い魔物は、言葉の意味こそわからないなりにも、主人の感情を目敏く感知しているのである。
「幼子一人満足に守れない男が、貴様たちを守るなど、夢のまた夢」
熱を持った手が、膝の上で拳を作る。鋭い爪が肌に食い込み、青い血が一滴、とろりと垂れた。
「何故、私はいつもこうなのだ」
怒り、悲しみ、諦め、いろんな感情がエノクの中で渦を巻いていた。
結局、自分一人では何もできないのだ。飼い犬の見せた幻すらも見破れず、守ると豪語した少女を危険に晒している。
「こんな男が魔物の王だと? 笑い草にもならん」
ガレアスの耳が垂れる。上目遣いで、主人の顔を見つめる。
「わかっていた。私には向いていなかった。だから、あの時、私は――」
悔しさから唇を噛めば、紫色の下唇に青い口紅が浮かんだ。ツーッと顎まで伝っていき、不意にそれが拭われた。驚いて目を見開くと、膝の上の少女の、淡い金色の瞳と目があった。まだ、額には脂汗を滲ませている。重たい瞼を無理やりこじ開けているような、気だるげな眼はしかし、しっかりとエノクを覗き込んでいた。
「泣かないで」
泣いてなどいなかった。青い血が、唇から顎に伝っただけである。それが涙に見えたというのであれば、やはり眼下の少女はまだ熱に浮かされている。
「泣かないでください」
切に願うような響きが、小さな口から繰り返される。
「泣いてなどいない」
二度目にして否定した。しかし、ノアはゆるゆると首を横に振る。
「泣いています」断言する。
「涙が流れていなくても、あなたの顔が泣いています。あなたの声が泣いています。涙が出なくても、心はとっても、泣いています」
もう片方の手がエノクの頬に触れる。ぴくりと震えて、すぐにその温もりを甘受する。
子どもにしてはほっそりとした、しかし暖かい手が涙を拭うように頬を撫でた。
「どうか悲しまないください、優しい魔物の王様」
魔物の王と、そう自分を読んだこの娘はいつから起きていたのだろう。もしかしたらガレアスに胸の内をこぼし始めた時から、すでに起きていたのかもしれない。しかし、確認するには口が酷く重かった。下を向いた口角は、縫い付けられたように動かない。
「あなたが何をしたのかを、わたしは知らないですけれど、あなたはわたしを拾ってくれた。足手纏いにしかならないお荷物を、側に置いてくれました。それが、どんなに嬉しかったか、あなたにはわからないでしょう。あなたの名前を半分こできたことが、どれほどわたしにとって意味があったのか、あなたにはわからないでしょう。
……それでもいい。わからなくてもいいです。でもどうか、あの時の選択を後悔しないでください。だって、今のわたしは、あなたと出会って始まったのです」
ふんわりと、彼女は微笑んだ。
年端のいかない幼子が、慈しむように魔物の男を見上げて、純粋な微笑みを湛えた。
優しく月の光が細められた瞼の間から覗き込む。心の中を見透かすような三日月が浮かんでいた。
ぐっと喉が詰まる。心臓が震えていた。指先が震えていた。開いた口から声にならない声が洩れた。側に青いぬくもりが体を寄せる。
魔物の王の見開かれた眼から、うっすらとした雫が音もなく頬を伝う。小さな指がそれを拭って、脱力したように自身の薄い腹の上にポトリと落ちた。健やかな寝顔が規則正しい寝息を立てていた。




