第十章 荒野にて1
黒い雲が空を覆っている。雨は数刻前に止んだというのに、雲は依然としてそこに止まっている。風に流れる様子もなく、天に縫い付けられたかのように、じっと留まっていた。
そんな空を仰ぎ見ていたアオノの背中を、シャヴァラは黒い大岩に腰掛けながらじっと見ていた。彼らの周りは一本の草すら生えていない。転がっているのはゴツゴツとした厳つい岩や石と、原型がわからないほどに傷ついた骨の残骸。歪に窪んだ眼窩を持つ首がそれらの上に添えられている。そんな殺伐とした荒野であった。
「本当に、あの雨が幻を見せていたんですね」
「面白いよなぁ。ワシがもしそんな魔法を扱えたのならば、こんな荒野に篭らずに、あちこちの街で有効活用するのにのう」
冗談めかした口調でシャヴァラも空を仰ぎ見た。
「あの雲は消えないんですかね」
「やつの気分次第じゃからな」
「シャヴァラさんは、やっぱりさっきの獣をご存知なんですね」
それは、雨が止む前にこの場所で出会った獣のことであった。光沢感のある青い毛並みと鋭い緋色の双眼を携えた狼。それが、今、彼女が腰を下ろしている岩の上でお座りの姿勢をしていたのである。その腕にはところどころ錆びついた、銀色の腕輪をはめていた。
「何度か戯れたことがあったのよ。あの雨を見てよもやと思ったが、まだ健全なようで何よりじじゃ。……というべきなのじゃろうが、ともすればあやつはずっとここで待っていたのかのう」
どこか同情するように瞼を下す。
「あの獣は、どこに行ったんですかね?」
シャヴァラたちの姿を見るや否や、狼の魔物は咆哮を上げてどこかへ駆け出してしまった。彼の一声が引き金となって、漸く霧雨も引いて、エノクとノアを探しに行こうとした矢先、シャヴァラに足止めを喰らい、手持ち無沙汰に陥っている、というのが現状である。
「探しに行ったんじゃないか」
「探しにって、誰を?」
何気ない問いかけに、シャヴァラは一拍分、言葉を詰まらせた。
「……おそらくは、思い人を」
ややあって出した答えに、アオノは訝しげに眉を顰めた。
青い獣はエノクをじっと見つめていた。数メートル離れた先から、尻尾をゆるゆると揺らして凝視している。
「久しいな」
ピンと耳が反応する。尻尾の揺れる速度が速くなった。獣は一歩、一歩と四肢を前に出して近づいてくる。一メートルほど手前でお尻を地面に下ろし、顎を持ち上げた。エノクもまた獣の目線に合わせるように屈んだ。
「ガレアス」
ガレアスと呼ばれたその獣は、ブンブンと尾を振り回した。
「ガレアス……。それがあの獣の名前ですか」
「さよう。魔王であったエノクのペット兼庭の番犬じゃ。ワシらのような思考力はない、そこらの犬より少し頭がいい犬の精霊」
「精霊……」
空を仰ぎ見る。依然として黒い雲が伸びていた。
「精霊とは自然が姿形をとった生命体のことじゃ。今という時間でしか存在を感知することができず、その見てくれは動植物からそのへんの石ころまで様々じゃ。自然が生命体として固有の意思を持っている故、元になった力を自由に扱うことができる。例えば、水が精霊になったのであれば、その精霊は自由に水に関する力を扱えるってとこじゃな」
「それって魔物よりも危険なんじゃ」
「まあの。だが、ほとんどの精霊は自分に関連する力しか使えない。例えば、雨の精霊であれば、雨を降らせることしかできまいよ。その雨にどんな力が宿るかは、その精霊の魔力の質による」
つまり、ガレアスという精霊は幻惑の魔力を持った雨の精霊だと。
「やつの力は、エノクが愛犬可愛さに、妙な魔力や魔法を使えるように与えたものだというのが、ワシの見解じゃった。ただの比較的無害な雨虎の精霊だとな。じゃが、実際はエノクはあやつの力にはなんの関わりもせなんだ。己の力量を知らず、無邪気に強い力を使うなど、災厄もいいところじゃよ」
やれやれとでも言いたげに、肩や首をぐるぐる回す。
「ガレアスはどうして雨を降らせていたのでしょうか」
やることがないからか、先ほどからアオノの質問ばかりが飛んでくる。しかし、やることがないのはシャヴァラとて同じ。ふむと顎に指を添え、優雅な仕草で足を組んだ。
「犬じゃからな」
「は?」
「一度飼い慣らされた忠犬は、ご主人様の言いつけをちゃんと守るものであろう。やつはただ、言いつけを守って、ここで待っていたのじゃ。人々を惑わせる雨を降らせ、魔王の城を守れという言いつけをな」
「え、だとしたら」
アオノが絶句して続く言葉を失った。
彼女のいうことが真実であったのならば、ガレアスは百年近くの歳月をこの荒野で過ごしていたことになる。
「ありえぬよな」悩ましげにため息を吐く。
「百年近くここで主人の返りを待っていたなんぞ、美談どころか怪談じゃ。人好きなあやつのことじゃし、さぞ寂しかっただろうよ」
一匹で残されてしまった彼に、自分の心情が重なるのか、やるせない表情でため息をつく。「まあよい」思考を放棄するように、腕を斜め後ろに伸ばす。「少なくとも、会いたかった一人には会えたのじゃろうからな」




