第九章 幻にて2
少し時間は遡る。後ろを歩いていたはずの二人が忽然と消えてからというもの、アオノとシャヴァラの間には沈黙が降りていた。何かと口数が多いシャヴァラが一時間以上黙っているせいで、どこか不安を煽られる。
「シャヴァラさん。俺たちはどこを歩いているんですか」
重たい口を強引にこじ開けて尋ねる。
「ここの主に会いにいくのじゃ」
背中越しに応える。「主?」
「この雨を降らせているやつだよ。この雨は自然物ではない。魔力を含んだ幻惑の雨じゃ。であれば、魔法だか魔術だかの中心がいるはずだろ?」
「心当たりがあるんですか」
「まあ……」
彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。
「……過去の経験に何か関係でも?」
「お主は聡いな」顔は見えないが、口元が僅かに綻んだ気がした。
「さよう。ワシが勇者御一行として旅をしていた時にここを通ったことがあるのじゃよ。一度は偶然、二度目は必然。つまり今は三度目じゃ」
はぁ、と短く息を吐く。
「この雨の魔力の元はてっきり魔王のものだと思っていたのじゃがな」
「エノクさんのことですか?」
ノアがいない今、エノクが魔王であった事実を口にしても違和感を抱くものはいない。
「気づいておったのか?」
「あなたが怒り心頭で襲ってきた時に。確信は今持ちました」
「むう、図ったか」
少し不満げに唇を尖らせる。
「ならノアのことも」
「ノアちゃん? がどうかしたんですか」
「ああ、いや」渋い表情をする。「なんでもない」
「話を戻すが、あやつを討伐したことでこの雨も止むものだと思っとっただが、完全な誤解に終わってしまったのう」
アオノは言及するか少し悩んだ末。
「それで、俺たちはどこを歩いているんですか?」言及を避けた。
最初の質問に立ち返る。アオノの目には、草木が生い茂るところに歩を進めても、そこが忽ち霧のように消え去って、ふわふわとした道が開けていくように見えた。まるで、周りの風景が全てまやかしで、自分たちが足を踏み出したところだけが、本来の道となって現れるかのようである。
「どこって言うのは難しいな。道の上とでも言えばいいか? それとも座標で示した方が良いか」
先ほどのお返しとばかりのややおちゃらけた口調にアオノがムッと唇を引き結んだ。振り向いてもいないのに表情を見透かしたように、ケタケタと笑い声がした。
「冗談じゃよ。だが、やはりその質問は難しい。特徴で言えば何もない場所。荒野、とでも言おうか。『帰らずの庭』の入り口さ」
「荒野? 雨が降る前の場所の木々は本物だったんですよね?」
「ああ。だがこの雨は魔力の雨よ。魔力と言うのはある程度蓄積すると毒となるのさ。人にとっても、動物にとっても、植物にとってもな」
「つまり、枯れてしまったと言うことですか?」
「うむ。だから歩いても歩いても何かにぶつかった感覚がない。もしかしたらこの瞬間も弱りきった木を蹴り飛ばしているやもしれん」
だとすれば足先の感覚で分かりそうなものだが、実際に今まで足に何かぶつかるような感覚を覚えたことはなかった。
「見えているものは全てまやかし。お主の目に森の幻を見ているのは、先の光景の延長であると脳が思い込んでいる故よ。じゃから、幻に惑わされずに只管歩けばそのうち雨雲を通り抜けられよう」
アオノが左右に視線を向ける。確かにずっと同じような光景が続いている。これも森とはそう言うものだと言う自分の思い込みが見せていると言うのか。不気味なほどに緻密な光景に顔を顰める。
「なら、もしあの森の続きにある光景を別の光景と結びつけてしまったら、それが現れると言うことですか」
「そういうことじゃ。森を進んだ先には美しい花畑があると考えれば花畑が現れよう。大切な誰かがひっそり佇んでいるのではと考えれば立っているのだろうよ。森には魔物がつきもの、なんて考えてたらそういうのが見えるだろう」
「ああ、なるほど。だから魔物がうじゃうじゃ……。なんだか悪趣味ですね。」
「一概にそうとも言えなんだよ。とはいえ、今の状況はあまりよろしくないのは確かじゃ。さっさと抜けて雨虎に話をつけるぞ」
「そこに行けばエノクさんやノアちゃんとも再会できますかね?」
なんて事のない問いであった。軽い調子で頷かれるものだと思って聞いただけのものだった。しかし、予想に反してシャヴァラは低く唸る。
「どうだろうな」
その言葉に顔を顰める。彼女の表情を見ることはできないが、いつにも増して固い声に不安が過った。
「記憶というものは厄介だからのう」
しみじみとした言葉は、どこか哀愁を漂わせていた。
「あなたは人ではありません」
その一言がいけなかった。
「あなたが猫のように見えます」
そういうと、人の格好をしたそれはあっという間に猫になってしまった。
しかも、猫は猫でも魔物みたいな猫に。
それは事実を指摘しただけ。でも、それがいけなかった。
側から見れば、少女の言葉が彼女を猫に変えてしまったように見えたのだろう。
だから皆、少女を奴隷以下に扱った。化け物だと罵って、気に入らないと顔を殴った。
ぐちゅり
目玉が嫌な音を出した。ああ、きっと潰れてしまった。そう思ったが、どういうわけかそれは健全だった。
それがまた、いけなかった。
化け物の眼だと罵倒され、何度も何度も叩かれる。やがてそれは畏怖によるものから、快楽によるものに様変わりした。
誰かが少女をイモリの化け物だと言ったのもそういう理由からだった。
痛かった。痛かった。でも、違うものが見えてしまった自分が悪い。
多分、あの子も自分が人だと信じていた。だからその夢を壊した自分が悪い。
ここに来てからもずっと何かがおかしかった。
彼女に見えていたのは荒野だった。草も木もない。もちろん小屋などどこにもない。枯葉のような力のない木が墓標のように突き立てられ、灰のような黒い草が地面を満たしていた。
雨が降っていた。
糸のような霧雨。絹のように柔らかで、それでいて針のように鋭い痛みが走る雨。
最初はただの雨だった。だが、次第にそれは痛みを伴う細い針に変わっていった。
しかし、誰もそんなことは言わなかった。アオノとシャヴァラと分たれてしまった後、エノクに違和感を伝えようと口を開いたが、閉じてしまった。
何が見えているの? それを言ってしまったら、きっと気味悪がられてしまう。
でもエノクなら、わかってくれるんじゃない? だから、天球の間で少し試すようなことを言ったのでしょう?
期待の声が胸の奥から後押ししてくる。炎の中から自分を助けてくれた。足手纏いでありながら、側に置き続けてくれている。
しかし、彼のことはよくわからない。
今、この瞬間も、彼が見えている景色がノアには見えなかった。
ここに小屋などなく、ただ静かに雨が降っていた。
『あの子は何を見ているの?』
いつかの日々で言われた言葉。
『頭がおかしいんだ。せん妄なんだよ』
誰かが言った言葉。
『呪いだ。呪いの瞳だ』
哀れみの言葉。
『腹の中で、殺しておけばよかったんだ』
善意からの言葉。
金色の瞳は月を映し取ったように淡い光を湛えていた。
その双眼に映るものは、いつも他の人とは違かった。
もしそのことを打ち明けたら、あなたたちはどう思うのでしょうか。
霧雨の中の光景も、天球の間で見た光景も、あなたの姿すら、私には違って見えるのです。
そう言ったらまた――。
空を見上げる。月と目が合う。
薄く輝く眼状紋。
丸い月がこっちを見てる。




