第九章 幻にて1
細い絹糸のような雨が降る。
霞んでいく視界の中で、瞬きの瞬間に前方二人の姿が消えたのが、先ほどのこと。一体何が起こったのだと、怯えるノアを担ぎ上げ、エノクは前へ前へと歩を進める。
どこへ向かっているかなどわからなかった。一本道だったはずだが、今は右にも左にも斜めにも歩いていける。草を踏みつける感覚はなく、木にぶつかることも無い。
これがこの森の特徴であった。『帰らずの庭』と呼ばれる理由は何も人が帰って来ないことだけを指すのではない
ある程度奥までいくと、霧雨のベールが降りてきて、迷い込んだ者たちを引き離す。太陽すら覆い隠す黒雲に支配される地がここであった。
(しかし、あいつがいない今、幻惑の雨が降ることなどないと思っていたが――。私の知らぬ間に子でも作っていたのか)
暫しの逡巡の後、考えても仕方のないことだと放棄する。今は早く離れてしまった二人を見つけ出さなくては。
「ね、ねえエノク。さっきから何が起こっているんですか? お兄ちゃんもおばちゃまも、空気に溶けるみたいに消えちゃったし、さっきから周り様子も変です。ぐるぐる同じところを回っているみたい」
抱き抱えた小娘は、キョロキョロと不安げに視線を彷徨わせている。
「この霧雨に触れると、霧雨が降る範囲内のどこかを迷い歩くことになる。道が意味をなしていないんだ。北に行けば、いつの間にか南に出る。東なら西というように」
「どこに着くのかわからないってことですか?」
「少なくとも、雨が止むか、ここを出るかしない限りはな」
「迷路ってことですか?」
まだ忙しなく視線を彷徨わせている。
「ここら辺は魔力濃度が高い。故に魔力で空間が湾曲しているんだ。それにこの雨が人を惑わせる光景を見せることで迷路みたいに迷うことになる」
「はあ……」魔術に造詣が深いシャヴァラならまだしも、まったくの無知であるノアには理解するのが難しい話である。
「じゃあ、この光景は幻?」
「幻想でどこからが本物なのか、私にはわからん」
シャヴァラはエノクの仕業だと思っていたようだが、この雨はエノクの力とは無関係である。彼にそのような力は備わっていない。魔法やら魔術やらの類は専ら彼以外の者が扱っていた。
「雨、いつ止むんでしょうか」
ノアが天を仰ぎ見る。仕切りに降り注ぐ雨は、強まる気配はないが、だからといって止む気配も皆無だった。
(あれの力に関するものであるならば、寝るか疲れるかすれば止むと思うのだがな)
雨が降り続いている。道もわからず適当に歩を進め続ければ、やがて白いベールのその先に、廃れた小屋が姿を現した。
ボロい小屋である。丸太やら廃材を繋ぎ合わせたようなチグハグな小屋。四角い箱に、やや平面に近い屋根が上に被さっているから小屋だろうとわかる程度の作りである。木材は黒く腐敗し、どこからともなく伸びている蔦が、小屋を飲み込もうとするかのように這っている。
木も草も道も幻のように白く霞んでおり、歩くたびにその景色を変えていた。にもかかわらず、この小屋だけははっきりと、そこに存在していた。この異質な空間において、ある意味最も異質なものと言えるだろう。
壁もドアも触れることができた。ギザギザと空いた穴の隙間から中を覗き込めば、特にものもない空き家である。
ドアを押してみた。鈍い音と共に木屑と埃が降る。屈んで中に入れば、やや雨漏れしている箇所もあるが、雨宿りできないほど廃れているわけでもなさそうだった。
ドアが一つある以外は全て壁。形は真四角にほど近い。床は腐った木材が敷き詰められており、雨漏れしている部分からは茶色い土が覗き込んでいる。
どこか、既視感を覚える。何かが引っ掛かる。視線を動かしながら記憶を辿っていると、不意にノアが震え出した。
「うう」
雨に打たれて体が冷えたのだろう。エノクはノアを降ろして自身のロングコートとベストを脱ぐ。ロングコートは水を吸っていたが、ベストは濡れていない。それをノアに寄越した。
「貴様も濡れている衣類は脱げ。体力を持っていかれる」
ノアは困惑したように眉を顰める。くるりと周囲を見回して、訝しがりながらこくんと頷いた。脱いだロングコートをエノクに預ける。乾かせるような突起もないので、部屋の恥の方で絞る。
「暫く様子を見る。だから寝ていろ」
「エノク……」彼女は所在なさげにキョロキョロしている。口が何か言いたげに開閉して、肩が落とされた。静かにこくりと頷いて、ノアは横になる。ダンゴムシのように身を丸めて少ししたらすぐに寝息が聞こえてきた。
エノクは小屋の中心で胡座を掻いた。そしてまた部屋をぐるっと見回す。やはり何かが引っ掛かる。立ち上がって歩いてみる。これほど腐敗が進んでいるというのに、不思議なことに家鳴り一つしない。やはり、これも幻の一つなのだろうか。それとも、傷みすぎて木材が柔らかくなっているせいでまともな音も出せないのか。
頭の中で思考を巡らせる。壁伝いに小屋の中を一周した時、不意に視線が下を向いた。ノアが猫のように体を丸めて寝ている少し上に、何やら深い傷跡のようなものが刻まれていた。しゃがんで傷跡をしげしげと見つめる。
一、二、三――全部で五本の線が引かれていた。一本だけがうんと低い一にあり、あとは数センチごとに刻まれているらしい。
(これは――、身長か?)
そうだ。身長を測った跡。間違いない。
「そうか。ここは……そういうことか」
瞼を伏せてひとりごちる。立ち上がってもう一度視線を走らせた。
小さい小屋だ。自分の頭スレスレの天井。ツギハギの壁。ところどころに抉られたような穴が空いているボロ屋。自分の記憶の中のそれとは随分と様変わりしているが、思い当たってしまえば、記憶のそれとも合致する点がないわけではない。
「皮肉なものだな」
これは雨が見せている幻惑かそれとも本当にまだ存在しているものなのか。今は判断することが不可能だった。
再び小屋の中心で胡座を掻く。瞼を閉じれば、瞳の裏側の薄らいだ記憶が像を結んでいった。




