第八章 霧雨にて
アオノはゆっくりと瞼を開けた。全身から汗が噴き出ている。嫌な夢でも見ていたようだが、生憎、どんな夢であったか欠片も覚えていない。
少し体を起こそうとして、肩に寄りかかるぬくもりに気づく。ノアが口を半開きにして寝入っていた。手持ち無沙汰で眠ってしまったのか。能天気な寝顔にクスリと笑い、その目元が赤く腫れていることに気づいた。泣き跡のようだ。今の幸せそうな寝顔とは不釣り合いなそれに首を傾げる。
少し離れたところでは、自分たちを背にしてエノクが剣の手入れをしている。時々あの大きな剣の切先を上に向け、右へ左へ傾けている。
もう一度ノアへと目をやる。自分よりも五歳は優に下であろう小さな女の子。自分と同じようにエノクに拾われて旅をする少女。どういった経緯かを詳しく知ろうとはしなかった。踏み込むべきではないと考えたからだ。
たとえ過去がどうであれ、兄のように慕ってくれているのであれば、自分はそれに応えてあげたい。義務や責務ではなく、感情がそうしたいと望んでいた。
エノクは否定するだろうが、まるで本当の家族ができたみたいだと思うことがあった。そのくらいには、居場所を感じていたのだ。
(でも、そう考えるのも俺が……)
思考を否定するように頭を振る。ノアの口から涎が垂れてきたので、袖で拭ってやると、ノアの瞼がピクピクと痙攣した。少しして、いきなりカッと目を開いた。
「!?」
どちらともなくドキリとして、背筋を伸ばす。
「……寝てました?」
ノアが尋ねる。
「うん。おはよう」
ちょっと間抜けな反応に口元を緩めれば、ノアは頬を真っ赤に染めた。
シャヴァラが過去から帰ってきたのは、それから暫くしてのことだった。その頃にはエノクも剣の手入れを済ませたようで、立ち上がり、壁にもたれかかっていた。
「戻ったぞ。待たせて悪かったな」
さてと、と三人の顔を一瞥し、その視線はエノクで止まった。
「この後はどうするかえ?」
「王都に行く」
「ほお」目を細める。
「騎士どもを逃したんだろ? 危険じゃ」
「構わん。元より目の敵にされている」
「こやつらはどうするのじゃ」
シャヴァラが顎で指す。十秒にも満たない沈黙の後。
「貴様に頼む」
「待ってください!」
遮ったのはアオノである。
「俺も行きます! 王都に。行かせてください!」
エノクは怪訝な顔を向けた。
「記憶を取り戻した今、目的は果たしたと思うが」
「それは――」
グッと言葉に詰まり、視線が落ちた。シャヴァラがこれみよがしに大きくため息を吐き出す。
「その上で、お主について行きたいのだそうだ」
「危険だ」「わかっておろうよ」「しかし」「エノク」諌めるような口調。
「人にはな、譲れぬ時というのがある。こやつにとって今がその譲れぬ時よ。お主なら、わかるな?」
見透かされているような言い方だった。口を噤む。
アオノの過去を覗いていない自分がこれ以上彼の意思を拒むのは、恐らく違うのであろう。暫し逡巡する。
「わかった」ため息混じりに許諾する。
「だが、王都に入った後は、必ずしも貴様を守り切れるかはわからない。それだけは、肝に免じておけ」
「は、はい!」
緊張感と安堵がない混ぜになった表情が浮かぶ。
「うむ。ではこのまま四人旅続行じゃな」
浅黒い肌の眉間に皺がよる。鋭い目つきで睨まれた女は、ヒューヒューと口笛を吹いた。
「ワシも行くからの。となるとノアも一人にはできまい」
「どういうことだ」
シャヴァラの表情が引き締まる。
「言っただろう。ワシはケジメをつけにここに来たと。過去の辛くも楽しい冒険譚にケジメをつけたのならば、次は向こうにケジメをつけさせる」
鋭利に細められた眼光はギラギラと獲物を狙う鷹のように獰猛な色を映す。
「うさ晴らしだよ。あの国王はもう死んだだろうがな、やつの孫はご存命。この治世がやつの手にあるのであれば、同罪じゃろう」
それを人は復讐と呼ぶのではないだろうか。
「だが、ノアは」
「エノク」
ノアが呼びかける。にっこりと微笑んで見せる。
「わたしも行きます! 足手纏いになっちゃうかもしれないけれど、逃げることくらいは――えっと、頑張ります!」
「だそうだぞ」
頭痛がするようだった。
「父親がそのような顔をするでないぞ」
「父ではない……」
が、確かにこの娘を守ると言って、側に置いたのは自分だ。
ならば、最期までその責任を果たさねばなるまい。などと考えるあたり、エノクは生真面目である。
「仕方あるまい」
「決まったな」シャヴァラがニヤリと笑う。結局、全てが彼女の思う壺になったのであるから、上機嫌になるのも頷ける。
「ならばこそ、早速動くとするか。騎士どもが戻ってきたら叶わんし」
「それなら街道を使うのは辞めた方がいいんじゃないですか? 鉢合わせしないとも限らないので」
「ああ。王都への道であれば、ワシに考えがある。先導役は任せるがよい」
自信満々の笑みで、彼女は小さな胸を張った。
しんと静まる森の中。細く歪な獣道を辿るようにして、中へ中へと進んでいく。やや角度がある道の左右には茶色い幹が密集している。
先頭には魔導器で道を照らすシャヴァラ。続いてアオノ、ノアが歩いて、エノクが殿を務める。
夜だというのに森は不気味なほどに音がしない。獣の鳴き声も、魔物の奇声も聞こえて来ない。時折風が吹いた時の、サワサワと葉が揺れる音だけが、心地よく耳に届くのみ。
「旅人どもの、ウラノスは魔物が徘徊している、という噂はあながち出鱈目というわけでもないんじゃよ」
シャヴァラに会う前の商人が、確かにそのようなことを口にしていた。そのため、騎士たちが見張りをしているのだとか。
「魔物たちはウラノスの裏手の森から通ずる『帰らずの庭』に集まっておる。故にウラノスに魔物がうじゃうじゃ、というのは眉唾じゃ。見かけなくてもそりゃそうだろうよってな」
魔物についてはテオも言及していたが、やはりそういう事らしい。
「『帰らずの庭』ってなんですか?」
庭というからには誰かの敷地なのだろうが、それにしても不気味な名前だ。
「百年前、魔王の城の手前に広がっていた巨大な深林のことよ。変な雨が降り、魔物たちがうじゃうじゃ飼い慣らされている場所でな。そこに踏み入った人間は決して帰ることができなかった。だから、『帰らずの庭』」
「わ、わたしたち、今そこに向かっているんですか?」
ノアの体がぷるりと震えた。エノクの影に隠れるように、背後に移動する。
「昔の話だ」とエノク。「そうさな昔の話よ」
「昔は魔王の影響で凶暴化した魔物の巣窟だったが、今は鹿に蹴り飛ばされるような弱い魔物の避難場所じゃ」
「だから騎士たちはわざわざそこを通らないというわけですね」
「通る旨みがないからな。馬を走らせるには足場がないし、おまけに迷いやすいときた。土地勘がなければ目的の方向に出ることも叶わぬ」
「ということは、シャヴァラさんは土地勘があるんですか」
いんや、と間延びした声。
「来たことはあるが、土地勘と言えるほどのものではないの。しかも百年も前だ。流石にほとんど覚えとらんわ」
「大丈夫なんですよね?」
先導役に不安を覚えてアオノの眉間に皺が寄る。エノクの腕に掴まっているノアがうんうんと大仰に何度も頷いていた。
「雨が降らなきゃ平気じゃろ。それに最悪、親父殿に道案内を頼めば良い」
「エノクは来たことあるんですか?」
ノアの質問に、エノクは罰が悪そうに視線を逸らした。
「昔な」
「フヒッ」
意地の悪い笑声にアオノがひっそりとため息を吐いた。
その時、不意にアオノの鼻先に、細い針のようなものが真っ直ぐ落ちて音もなく弾けた。触ってみると、先端が濡れている。空を仰ぎみれば、鬱蒼な葉を茂らせる木々の隙間から、静々と細い雨が降りてくる。眺めているうちにその雨はさあさあ音を鳴らすほどになった。
「なんじゃ。魔王不在でも雨が降るのか。やっぱり地形の問題なのかのう」
「フードあります!」
「あ、俺もあります」
「多少の雨よけにはなるだろうが、このまま体を冷やすぞ」
「仕方ないのう。少し道を逸れるか。適当な木の下で雨宿りじゃ」
シャヴァラに続いて、獣道からボーボーと足の長い雑草が茂る叢へと逸れる。
細い雨は森全体を薄く覆うように、途切れなく降り注ぐ。視界が徐々に霧に覆われるように白んでいく。
「まずいな」シャヴァラが呟いた。その表情は強張っている。
「おい、エノク。もしやこの雨は百年前と同じか」
エノクは顎に指を沿わせる。視線が明後日の方へと向いた。
「私は魔力には疎くてな。貴様が何か感じたのであればそうなのだろう」
「なんじゃと。もっと早く言えよ若造が」
呆れるように吐き捨てた。
「皆、密集して歩け。いいか。決して離れるでないぞ」
アオノが頷いて、シャヴァラのフードを掴んだ。
「そうでないと、面倒なことになるからな。わかってるよな若造。まったくお主がいないのならこの雨もただの雨だと思っておったのに。よもや魔物の噂はこの雨に惑わされたやつらが発端じゃったのか? ……あ? ってことは待てよ、もしかしてあの時雨を降らせていたやつの正体ってあいつじゃったのか? あいつじゃったら生きててもおかしくないしのう。なあ、どうなんじゃ若造」
返事はなかった。何もエノクの無反応は今に始まったことではない。返事をしないだけでちゃんと聞いてはいるので問題はない。いつもであれば。
雨のせいで違いの距離感がわかりにくいこともあって、気配が察知しずらい。なんだか嫌な予感がして、アオノはくるりと後ろを振り返った。
「あれ」
「なんじゃ」
「あの、シャヴァラさん。後ろに誰もいません」
シャヴァラは推し黙る。背中越しに大きなため息を聞いた。
アオノの視線の先、そこに本来であればいるはずの影はなく、白い霧の雨だけがさあさあと降り注いでいた。




