幕間3
エノクが天球の間の扉の前に立つと、まるで見越していたかのように扉がガタリと揺れて、彼を向かい入れた。開いた瞬間に、茶色のおさげを跳ねさせて、ノアが体当たりをするようにエノクの脚にしがみ付く。
何事かと彼女を見下ろせば、どういうわけか瞳に涙をいっぱい溜めていた。ピシリと顔がこわばる。
「すまんな。何やら怖い夢を見たとかで、すっかり怯えてしまってな。無事で何よりじゃ」
「そうか」
グイグイと顔を押し付けているノアを抱き抱え、そのまま中に入る。天球の間の壁ではシアンが背中を預け、瞼を閉ざしていた。
「アオノの記憶は」
シャヴァラが扉を閉める。
「……覗いたよ」静かな声だった。
「やはり脳に負荷がかかるようで、すぐに眠ってしまったわい」
「そうか」淡白である。
「気にならぬのか?」「人の過去を不必要に詮索すべきではないだろう」「お主は全く……」呆れたように目を細める。
「それよりも、ここにあまり長くとどまらない方がいい」
「なんだ。逃したか」
「ああ」短く返事をする。「甘いのう」やれやれとでも言いたげに彼女は天球の間の中央に戻る。
「まだ何か覗くものがあるのか」
「もう暫く戻れなんだ。思い出に浸るだけよ。アオノが起きたら叩き戻してくれ」
返事も待たずに、白い手が天を仰ぐ。彼女の長いまつ毛が伏せられた。恐らく彼女の意識だけはあの白い光に包まれて、どこかの過去を覗いているのであろう。
「エノク」
呼ばれたので顔を向ければ、小さな手が頬に伸びてくる。やけにもちもちした手に両頬を挟まれて、無表情のまま困惑する。金色の瞳がじっと目の奥を覗き込んでいる。まるでそこから自分の考えを読み取ろうとするように、真剣に。
「……」
眉が力なく垂れる。口元が何事かを口にしようとして、断念した。
「なんだ」
思わず尋ねる。
「えっとですね」
視線が狼狽える。「あっ!」と何か思いついたように声を上げた。
「さっき少し怖い夢を見てしまったんです。それで、大丈夫かなって思ったんです」
絶妙に脈絡がつかめない。怖い夢を見たから、自分が大丈夫か心配されるとは、どういうことだ。
「私が死ぬ夢でも見たか」
ううん、と小さな頭が被りを振るう。
「そういうのじゃないくて、もっとこう……。そう、真っ暗な空間があって、そこにあなたが一人、立ってたんです」
「それが、怖かったのか」
「ええっと。なんだろう。見た感じは不気味ではあったけど怖くはなかったんですが……。肩が――」
「肩?」
「そう!」声は上げた。
「左肩、右の太腿、脇腹の中央、右手首。と、頭」
両手で自分の頭を押さえる。
「糸が、見えたんです。すごく、嫌な糸。だから、その、気をつけてほしいんです。なんだかちょっとわからないんですけど」
要領の得ない説明に困惑しながらもとりあえず頷いておく。
シャヴァラの言葉通りなら、怖い夢を見たらしいし、嘘ではないのだろうが、何か気になる。
とはいえ考えたところで答えが出るものでもない。エノクはアオノの側でノアを下ろした。
彼の眉間に皺が寄っている。こちらも夢見が悪そうだ。
「お兄ちゃん、おばちゃまと一緒にぼうっとし出したと思ったら突然倒れちゃったの。おばちゃまは少し休めば大丈夫だって言ってたけど、わたしが起きてもまだ眠ったまま」
過去を覗くと脳に負荷がかかる。魔物で長い時を生きた自分に比べ、人の子どもであるシアンは負荷に耐えることが難しかったのかもしれない。
だが、それにしても尋常出ない汗の量である。どことなく苦しそうだ。
(脳への負荷だけが原因とは限らないか)
過去を見たことも、この状態の一因であるとすれば。
(……私が不躾に関わって良いことではないな)
思考を中断する。あれこれと憶測を立てることすら、彼への冒涜になりかねない。
「アオノの手でも握ってやれ」ノアに言う。
「はい!」
ノアはアオノの隣で足を広げると、その手をぎゅうぎゅう握りしめた。今度は別の皺が眉間に刻まれたようだ。
エノクは少し離れたところに腰を下ろすと、大剣を抜いた。振り払ってきたが、僅かに血が付着している。それを丁寧に拭っているうちに、小さな寝息が一つ増えた。
泥の中に立っているようだった。
少し動けば体が持っていかれる。足元の泥に、全てが飲み込まれる。だから迂闊に動けない。ただ、じっと立っていた。
いつから違えてしまったのだろうか。自問する。
お前は間違っていないと誰かが囁いた。うるさいと耳を塞ぐ。
始まりは確かに正しいものだったはずだ。弱気を助け、強気を挫く。そのために立ち上がったのだ。ツギハギだらけの掘立て小屋の中で、小さな影が寄り集まって、そうして志を確かめ合った。
眩しかった感情は徐々に形を変えていく。血を見るたびに心が痛んだ。亡骸を見るたびに弱さを知った。暴言を吐き捨てられるたびに悔しさに唇を噛み締めた。痛い思いをするたびに渇望した。
そうして少しずつ、視界が歪んでいった。走った先で泉を見つけた。心惹かれて入ってみれば、泥に足を突っ込んだ。
そうして今もそこにいる。
黒々とした泥の中から、深淵がこちらを見上げていた。
「――」




