第七章 天球の国にて2
目を開く。体の感覚はない。ただ意識だけが誰かの体に乗り移ったような曖昧な感覚は、夢を見ている時のそれに近い。
『若造よ、聞こえているか』
シャヴァラの声だ。反響したような、不自然な声に短く応じる。
『ならばよし。今のワシらは記憶を見ておる。いわば夢を共有している状態に近しい。記憶の選択はワシが行うゆえ、貴様はゆるりと見ておれば良い』
もう一度短く返事をした。場面が切り替わる。これは――。
暗い。真っ暗とは行かないまでも、薄く伸ばした黒の衣を頭から被されているように、視界が不自然に薄暗かった。
天にいただくのは豪華なシャンデリア。正面には青白い階段が高く伸び、踊り場を起点に二手に分かれている。しんと静まり返ったその場所に、コツコツと靴の音が降りて来る。
恰幅の良い男。豊富な白髭を蓄えた、厳かな雰囲気の男が暗がりの中降りてくる。その眼はどんより澱んでおり、階段下に、人形のごとく直立する群衆を見据えた。
人、なのだろうか。だが、それにしてはやけに黒く、実態らしきものが感じられない。まるで影のようにそれらは佇む。
「皆も聞いた通り、勇者が魔王を討ち果たした。これほど喜ばしいことはない」
感情の籠っていない声が響く。
「この世界は平和を取り戻すだろう。魔物たちは弱体化し、人を襲うような愚行をするものはいなくなる。良いことだ。実にめでたい」
だがな、男の声が低くなる。淀んだ瞳からは一切の光が消え、深淵のような黒が覗く。
「民の声は勇者を讃える声一色。これは宜しくない。民が崇めるべきは私だ。この国の王たる私でなくてはならない。そう思うだろう?」
「はっ。仰せの通りにございます」
黒い影の一人が恭しい態度で賛同する。王は満足げに頷いた。表情は依然として冷め切っている。
「だが、中には勇者こそがこの国を統べるべきだという戯言を宣うものもおる。冗談であれ、それはいかん。政と魔物対峙を一緒にしてもらっては敵わない。だが、民の瞳には魔王を倒したあやつらこそが真の統治者に相応しいと、虚言を吐くものがいる」
「所詮それらは世迷い事。しかしながら、それが大きくなればなるほど、人々はそれらが正しい姿だと思い込みましょう。一時の気の迷いだと放置しておくにはあまりにも危険にございます」
「私もそう考えておる。子も生まれるというのに、王族の権威が揺らぐなどあってはならない」
王は黒いそれをぐるりと見渡した。
「貴様らの力を借りたい。影の者どもよ。一年後の今日というめでたい日に、宴に混えて勇者たちに引導を渡してやれ。やつらの存在を、伝説に昇華してやろうではないか」
王の双眼がカッと開かれる。ぐるりと黒い闇が覗く。影の者たちが一斉に返事をして、白い光に包まれた。
(今のが、宴の一年前の出来事か)
そして聞く限りは、魔王討伐に成功した日。当日中に魔王討伐が成功したという情報を手に入れることができたのは、おそらくあの影の者と呼ばれていた何かの力だろう。
『若造、聞こえておるか』
真っ白い空間で、シャヴァラの声だけが反響する。姿はどこにもない。
「今のが貴様がここに来た理由か」
『悲劇の舞台は知っておる。しかし裏側は知らなんだ。あやつらの死の裏側を、ワシは知らなくてはいけない。それが、あの旅の一つのケジメじゃ』
エノクは繋げる言葉もなく、静かに瞼を閉ざす。知らないと言いながらも、的確にこの部分を切り取り覗いているということは、やはり答えは出ていたのだろう。
(命を賭して守った者に、裏切られたか)
何も不思議なことではない。ただ、虚しさだけが突きつけられた。
景色が変わる。また薄暗い場所である。見るに寝室だろう。窓辺には王の背中が見える。グラス片手に物憂げに外を見下ろしていた。
影の者が一人、音もなく現れる。
「先の宴はよくやってくれた」
「いいえ。女を一人始末しておりませぬ」
「あれはよい。どうせ一人では何もできまいよ」
窓から差し込む月の光が、王の横顔に影を作る。
「それよりも、だ。次の仕事を頼みたい」
「と申しますと?」
「ウラノスだ。あそこのエルフ共は厄介な力がある。あの天球がある限り、いずれ私の行為は露見する。その前に叩く必要があろう」
「……それはつまり」王が低い声で後を次ぐ。
「エルフたちを殺せ。可能であれば天球も破壊しろ。なに、魔王を失い魔物たちが各地で混乱しているというではないか。それに乗じてやればよい」
王の右手には赤いワインが入ったグラス。緩やかに手首を回せば中の液体は、されるがままに揺れ動く
一気に液体を喉の奥へと流し込む。はあと吐いた息は熱を持っていた。
「ウラノスは、魔物たちによって滅ぼされたのだ」
(……)
エノクは薄く唇を噛んだ。
その醜悪さは、紛れもなく人のそれである。
白い光に包まれて、瞼を開けば天球の間に戻っていた。ぐらりと頭が揺れる。
「え、エノク……!」
片手で頭を抑えると、心配そうにノアが駆け寄ってきた。
「無理もない。本来ならば覗く権限のない者が天球を覗けば脳に多大な負荷がかかる。とはいえ、その程度なら一分もせずにな――」
シャヴァラの声が不自然に途切れる。バッと顔を扉の方へと向けた。顔の相がみるみるうちに険しくなっていった。
「どうしましたか?」
アオノが気遣わしげに問う。
「……侵入者じゃ」
「え?」
「この街に、何者かが入り混んだようじゃな」
「そんことがわかるんですか?」
「ワシらエルフは、この街と、そして天球と一体を成す。侵入者が踏み入れれば見ずともわかるのじゃよ」
見えない敵を睨みつけるように、シャヴァラは扉を睨みつける。
「敵は精々十人ほど。馬には乗っておらぬな。置いてきたか。それともただの賊か」
「そうか」
エノクは呟くと、確かな足取りで扉へと向かう。
「迎え打つのかえ」
「まだ天球に来た用が済んでいない。二人は頼んだ」
「待ってください。ここには侵入者も入ることができないんですよね? それならここで息を潜ませている方が――」
「いや。奴らは常にここを見張ってきた。今回もそうするじゃろう。しかも、門の隣の草むらには縛られた奴らの仲間が転がっておる。誰かいると勘付かれるのも時間の問題じゃ。こちらに余分な備蓄はない。その状態で仲間を呼ばれて待ち伏せでもされようものなら、ワシらが死ぬか、扉を開けて逃げ仰たところで、天球がやられる」
「で、でもエノクさん一人でなんて」
チラリと視線をやれば、エノクは扉の手前で背中を向けたまま動こうとしない。扉を開ければすぐに飛び出すつもりなのだろう。
「……アオノよ。お主は聡い。ならばこそわかるであろう。あやつがそこらの雑魚に負けるわけがないと」
「それは――」言い淀む。彼女の婉曲な言い方は、ただ単純にエノクが強いということを言っているのではない。もっと、本質的なことを指していた。アオノは項垂れるようにして頷く。
「ノアもだ。そやつが負けるわけがないと信じてるだろ?」
「は、はい! もちろんです!」
ノアは声を張り上げた。
「だそうだ若造。こやつらの世話と、小僧の記憶はワシに任せろ」
シャヴァラが扉に細い指先を当てがった。
「親として、子とおばちゃまを守りなさい」
ニヤリと笑う。余裕の笑みが口元に浮かんでいる。
扉がガタガタと揺れて、口を開いた。だっと風を切り裂くような轟音と共に、エノクは駆け出した。




