第七章 天球の国にて1
ウラノスは巨大な城壁に囲まれた街である。高く聳え立った石壁は内側の建物の一切を隠しており、正面の門からしか入ることができない構造になっている。街の周辺の百メートルほどは木々はおろか、草すらまともに生えておらず、薄茶色の地面が剥き出しになっている。
そのさらに五十メートルほどの距離にある、比較的大きな木の上でエノクは目を凝らしていた。
「何かおるか」
シュタッと地面に着地する。
「門番が二人だけ見えた」
「やっぱり手薄じゃのう」細い顎を撫でる。横から「罠でしょうか」アオノが口を挟む。
「考えすぎじゃ。ウラノスに見張りがいるのは、万が一の可能性に備えているだけじゃからな。ただの魔物なら斬ればいい。仮に普通のエルフがいたら、騎士相手に砂塵のように簡単に吹き飛ばされてしまうだろうよ」
だが自分は違う。と案に行っているのだろう。見えない見張りを小馬鹿にするように口の端を上げた。
「正面突破か」
「ああ。下手に回り込んだところで無駄じゃし。戦闘はお主らに任せる。ワシはノアと一緒に離れたところで援護しておるよ」
「ごめんなさい。エノク、お兄ちゃん」
戦えないことに引け目を感じているらしく、しゅんとした表情で言う。
「私一人で十分なのだが」ぶっきらぼうな言葉が続いた。
「何を言っておるのじゃ。息子がせっかく修行の成果を見せられると意気込んでおるのでだ。興が冷めることを言うでないわ」
「……息子ではない」
エノクの視線が横へと移動した。
剣戟の音が鋭く響く。ものの一分もしない間に、二人の騎士はうつ伏せに倒れた。方やエノクに思いっきり頭の後ろを蹴飛ばされ、方やアオノに首の後ろを殴られたからである。アオノが剣を振るったのはほんの数秒の時間であった。
「よしよし。ちゃんと気絶しておるな。今のうちにぐるぐる巻きにして適当な場所に捨て置くぞ。ほら、手伝え若造」
指図されるままに見張りを簀巻きにする。門扉のすぐ横に放り投げた拍子に甲冑の音ががしゃりと鳴った。
ウラノスの中に足を踏み入れる。門扉から程近くの道は多少荒廃しているが、まだ綺麗なレンガ道が残っていた。しかし、徐々にそれらががたついていく。割れたレンガの隙間から雑草が生え、青黒いシミが点々と歪んだ模様を描いている。
「ノア、来い」
エノクが呼べばノアはててと駆けていく。そのまま持ち上げられて、腕にちょこんと乗せられた。
「甘いのう」
「子どもの目には毒だろう」
魔物の血の色は人の血の色とは違うのに。
「ならば、ワシはアオノの目を塞いでやろうか」
「大丈夫です。多分思われているほど子どもじゃないですし」
とは言うが、歩いていて決して気持ちの良くなるものではない。
惨劇があったことを如実に物語る街並みに、気分は自ずと落ち込んでいく。
「ないな」エノクが呟く。
「何がですか?」
ノアが尋ねれば、むっすりと口を閉ざした彼からの返事が返っては来ない。代わりに口を挟んだのはシャヴァラである。彼女は真っ直ぐ前を見据えているようで、その実、瞳は忙しなく周囲を窺っている。
「人じゃよ。エルフじゃ」
の死体と言わなかったのは、彼女なりの配慮だったのだろう。
「持ってかれてしまったか。そりゃそうか。魔物に食われたらしいからな」
馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らした。
ここまで来る途中に、噂になるほど魔物などいなかったのにな、と悪態づいた
家の壁には亀裂が走り、大きな青黒いペンキが走っていた。広場の中央にある噴水の水はとうに枯れ、土に帰ることも許されない水草が茶色くこびりついている。窓ガラスには皹が入り、ステンドグラスの破片はばら撒いたように散乱していた。
やがてレンガ道は灰色の石道に変わる。左右には石柱を真ん中あたりから曲げたようなデザインのオブジェが等間隔で地面から伸びている。その間を歩く。進めば進むほど、石道は本来あったであろう姿を取り戻していった。
さらに少し歩くと、不意にシャヴァラが足を止めた。奥に固く閉ざされた扉が見える。その手前には、墨をこぼしたかのような何かの跡が残っている。
三つの視線がシャヴァラへと集中する。誰も彼女を抜かして先に行こうとはしなかった。
ノアがエノクの肩をポンポンと叩いた。数秒視線が交わって、浅黒い腕が彼女を下ろした。
「おばちゃま」
ノアがシャヴァラの手を握る。細い手はギョッとするほど冷たかった。無言で見つめ合えば、
「……すまなんだな」と優しく微笑む。
そうして手を繋いだまま、その横を抜け、扉の前で立ち止まる。シャヴァラの手が石の扉に触れると、青白い紋様が浮かび上がる。歯車のような紋様は、最初はゆっくりと、徐々に速度を増し、煙が消えるように霧散する。
扉がガタガタと揺れ、左右に動く。その先にある光景に、アオノとノアは目を丸くした。
半透明の天球が浮かんでいた。周囲には幾重にも重なる円環が宙に浮かび、外側の円環にはジリジリと新たな円が刻まれているようだった。星のように煌めく青や白の粒子は触れようとしても触れることができず、ふんわりと気の向くままに漂っている。
「何これ……?」
ノアが唖然と呟いた。
「これが天球。全ての過去を記録する、この世界の記録装置じゃ」
石の扉を閉ざしながら振り返る。
「ここに記憶が? 触れることもできない」
アオノが天球に手を伸ばすが、蜃気楼のようにそれに触れることはできない。
「当たり前じゃ。記録の集合体なのだぞ」
「しゅう、ごうたい……」小さな声が反芻する。
シャヴァラは天球の表面を真っ直ぐ歩き、中央でぴたりと止まった。シャボン玉の中に彼女が立っているような、不思議な光景である。
「さて、ワシの知りたいことと、小僧の知りたいこと。先にどちらを見ようか」
「シャヴァラさんが先で構いません」
「そうか? では、先に覗かせてもらおう。ほれ、エノクよ。こっちへ来い」
手招きする。エノクは腕を組みながら怪訝な顔をした。
「ワシが覗く記憶はお主の知りたいことに直結するだろうよ。なれば、共に覗こうではないか。勇者の旅路の果てを」
エノクの足が中央へと向く。そこにすかさず割って入ったのはノアである。どこか怯えたように、天球をチラチラと見やる。
「あ、あの、本当に大丈夫なんですか? だってこれ、あまりにも存在が……」
あやふや過ぎる。見るものが見れば美しいと感じるだろうが、ノアはこれに得体の知れなさを感じているようであった。
エノクは少し考えると、ノアの目線に合わせて跪く。
「これは歴史書のようなものだ。私はそれを読みにいくだけ。心配する必要はない」
と頭を撫でる。ノアはやはり天球を気にしながらも、小さく頷いた。
「果報者だな、親父殿」
「親父ではない。……早くしろ」
「急かすでないわ」
シャヴァラの掌が天井へと向けられる。天球がくるりと回転した。二人の体を白い光の輪が取り囲む。
エノクの視界が反転する。ぐるぐると、目がまわるように世界が回る。脳が揺さぶられるように震えて、瞬間、光が視界いっぱいに弾けた。意識が浮遊する。
「ねえ、お兄ちゃん」
ノアが壁に寄りかかりながら口を開く。その視線はずっと天球へと向けられていた。
「どうしたの?」
「あれ、お兄ちゃんにはどう見えますか?」
そう言って指さしているのは、やはり目の前の天球だった。
「どうっていうと……えっと、なんか透けてる半球に輪っかや星みたいなのが浮いてるって感じかな。星空みたいにも見えるかも」
「そうなんですね」
考え込むように口を閉ざす。
「ノアちゃんには、どう見えてるの?」
「わたしには――」指がそっと目元を押さえた。
「わたしには、眼に見えます」
星空を眺めるように横たわった金色の、瞳のように。




