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第4章 道中にて1

 自分の体くらい大きなリュックを背負った、恰幅が良い旅商人がゼエゼエと喘いでいた。後ろを振り返れば、熊のような魔物が目を怒らせて追いかけてきている。黒光した毛並みは鴉よりも真っ黒。

 (ああ神様! お助けを!!)

 もはや天に祈ることしかできない。魔物は着実に距離を詰めてくる。どすどすと地鳴りが大きくなる。足がもつれて前にツンのめる。大きなお腹がボヨンと地面の上でバウンドした。

 魔獣が前足を上げる。鋭く大きな爪は、商人の手と同じかそれ以上の大きさに見えた。あんなものが背中に突き立てられたら、確実に脊髄が小枝のように割られてしまう。それを想像するだけで、男の全身の汗腺が開き、滝のような汗が流れる。脳からつま先まで、全ての神経が恐怖に震えた。

 (ああ! 神様!!)

 信仰とやらに意味があるのであれば、どうかどうか。体を丸めて祈る。

 「グガァアッ……!?」

 雄叫びが不自然にぷつりと途絶える。丸まった背の向こう側で、何かがゴロリと地面に転がる音がして、反射的に顔を上げる。

 魔物が転がっていた。自身を襲おうと前足を掲げたポーズのまま、眼をかっピラいたまま、横向きに倒れていた。その頭部、耳の下あたりは巨人のものかと見紛うくらい、規格外の大剣が左から右に貫通している。青い血が、ドロドロと溢れて奇妙な水たまりができていく。

 狼狽しながら男は剣が飛んできたと思しき方向へと首を回す。そこには浅黒い肌の巨大な男と、彼の後ろに隠れるようにして、二人の子どもが立っていた。


 「いやー。本当に助かっちゃったよ。ささ、どうぞどうぞ。好きなだけ食べてよね」

 上機嫌な自称旅商人は、自分の体と同じくらい大きなリュックの中から次から次へと食べ物を出しては三人に勧めた。パンパンに腫れたリュックの中に入れてあったというのに、食材はどれも形も鮮度も保たれている。

 「僕ね、もうダメだと思ったのよ。家内に会えないまま食い殺されちゃうって。でも、あなたたちが来てくれて本当に助かった。いやー、信仰心って役に立つもんなんだねえ」

 神様万歳! 高らかに声を響かせて、オレンジジュースの瓶を傾ける。

 「今日は無礼講! 命の恩人さんたち、どうぞどうぞ。遠慮しないで食べちゃって」

 「この方、酔っ払ってるのでしょうか?」ノアがヒソヒソ声で尋ねれば「そんなことないと思うんだけどね」とアオノ。「雰囲気で酔う人なのかも」

 「商人、一つ尋ねたいことがあるのだが、構わないだろうか」

 雰囲気に酔ってへべれけ状態の旅商人に、通常通りのエノクが投げかける。間延びした声で頷いた。

 「私たちはウラノスに用があるのだが、知っていたらでいい、ウラノスの現状を教えていただけないだろうか」

 へべれけ顔がぴくりと固まる。オレンジジュースの瓶がゆっくりと下ろされて、眉を八の字に歪めた。どこか探るような表情で顔を上げた。

 「旦那さん。悪いことは言わないよ。あそこは行かない方がいい」

 「何故だ」

 「あそこは呪われた土地だからよ。聞いたことはない? あそこにいたエルフたちが一人残らず魔物に食い殺されてって話」

 険しさを増した表情に旅商人は無知だけを見たのだろう。力無く数回頷く。

 「知らなくても無理はないのよ。ウラノスはただでさえ閉鎖的な土地だった。僕たちみたいな人間はエルフに憧憬でも抱いていない限りはあそこに踏み入れようとは思わないし、あの要塞みたいな高い壁をよじ登ろうとするやつもいない。だから、この情報を知っているのはごく一部。それこそ王区にいるお貴族様たちぐらいなのよ」と言って不意に「ああ、僕は仕事柄、色々伝手があるんだ。だから知っているのよ」と付け加える。

 「知っていることだけでいい。話してくれ」

 「恩人様のお願いならもちろんだよ。でも、本当にためにはならないと思うのよ。どうしてあなたたちがそこを目指しているかは知らないけれど、この話を聞いたら行っても無駄だって意気消沈しちゃう」

 肩を落として見せる。旅商人よりも噺家の方が向いていそうだな、などとアオノなんかは思った。

 瓶の中身が空っぽになって漸く、商人はつらつらと話し始める。

 「エルフたちが死んじゃったのは、今から九十年くらい前。例の勇者の伝説よりは後だったはずだよ」

 もう一本、今度は紫色の液体がたっぷり入った瓶をいそいそとリュックから取り出した。

 「最初に見つけたのは、国王陛下の使者だったらしい。使者がウラノスに入ると、そこはすでに魔物たちが蔓延る国と化していた」

 グレープの芳醇な香りを嗅ぐ。興味津々な金色の目と目が合って、彼女の空いたコップに注いでやる。ついでに謙遜しがちな兄の方にも瓶を傾けた「かなりの惨状だったらしいよ」

 「使者は生者がいないか必死に探し回った。でも、いなかったのよ。そりゃそうだよね、魔物が蔓延ってるってことは、魔物が占拠しちゃってるってことだもの」

 エノクのグラスにも入れようかと尋ねれば、彼は首を横に振る。膝下にはこっそりとラムの瓶が確保されていた。

 「ただ、運が良かったのは天球だ。天球がある部屋はしっかり閉じていて、魔物が入る余地がなかった。まあ、エルフが死んじゃって天球の部屋を開ける権限がある人もいないから、結局同じようなことかも。だからね、今のウラノスはいったところで意味がない。なにせエルフがいないんだ。天球を覗いて過去を見ることはもうできない」

 商人の話を聞きながら、エノクは逡巡していた。

 彼の話は色々とおかしい。知り合いから伝え聞いたことだから、多少の矛盾は仕方ないにせよ、もっと根本的に不可解な点が点在しているように感じる。

 「商人さん、少し質問してもいいですか?」

 無口を貫くエノクに代わって、アオノが口を開いた。

 「はいどうぞ?」

 「その使者ってどれくらい強いんですか? 騎士の中でも腕利の人とか?」

 「聞いた話じゃ陛下の近衛だよ。強いかはわからないなぁ」

 能天気な口調で答える。

 「一人だったんですか」

 「多分? 大勢でって話は……。待ってほしいよ。あなたの言いたいことがわかったのよ」

 商人は愛想の良さそうな顔を懸命に引き締めて、腕を組む。

 「大勢の魔物がいた場所に単身で入って、天球まで確認して帰ってくるなんて、よほどの手練れでも難しいよ」

 「うむむ」商人が唸る。暫し頭を悩ませて、お手上げとでも言うように肩を落とした。

 「並の人間ならば不可能だ」

 エノクが事実を指摘する。商人は少し落ち込んだ様子で視線を下げる。ノアが心配そうに目尻を下げ、自分が食べようと思って手に取ったリンゴと商人の丸い顔を見比べた。トテトテと近寄って、リンゴを掲げる。「ど、どうぞ」おずおずと声をかければ、商人は穏やかに笑いかけて受け取る。

 「うーん。となるとだ。僕の話はあなたたちの役には立たないね。いっそのこと、ここに預言者がいたら、もう少し役にたてたんだけどな」

 「預言者ですか?」

 「そうそう」何度か頷く。

 「どこからともなくふらっと現れては悩める人を導いてくれるという謎の旅人だよ。未来を見通す力、つまりは天眼の持ち主って噂だ。だから預言者。ま、それもどこまでが本当かはわからないのよ」

 (天眼――。あの小娘の子孫か?)

 天眼という言葉には、エノクも覚えがある。特に未来視を可能とする天眼は、魔王としてのエノクを脅かすきっかけになったものである。

 とはいえ、天眼を持つものであれば、その希少性を知っているだろう。故にあまり目立つ行動をするとは考えにくい。

 やはりこの商人の話は今ひとつ信用ならない可能性が高いかもしれない。

 僕が知っていることはこれで全部。そう言って商人が話を切り上げても暫く、穏やかな食事の時間が続いた。

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