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第3章 ある村にて・後編1

 意識がゆっくりと浮上する。腹のあたりに重みを感じて視線を寄越せば、ノアが腹を枕がわりにして眠っていた。

 今は何時だ。時計を探して視線を彷徨わせれば、目的のものの前に、別のものに目が止まる。彼はゆっくりと振り返った。

 「おはようございます」

 空を映し取ったかのような瞳は、夢の中で敵意を向けてきた紅い瞳とは対照的だ。しかし、それ以外の見てくれは旧敵のそれと瓜二つである。

 「昨夜は助けてくれてありがとうございます。枷も壊してくれたし、それに服まで」

 少年は部屋の隅の鉄屑を一瞥する。「構わない」ノアの眠りを妨げないように慎重に頭を腹の上から太ももに移動させながら上体を起こす。「あの格好のままだと目覚めが悪かっただけだ」

 「お優しいんですね。寝床まで譲っていただいてしまったし」

 「以前より私はベッドでは寝ない」

 自身の巨体に合うベッドは特注のものかでもない限り存在しないし、下手に寝転がって壊してしまっても面倒だ。

 確かに、と少年はボソリと呟く。

 「それで、ですね。あの俺、あの状況から察せる通り、お金とかないんです。奴隷としてここに連れてこられたので」

 気まずそうに視線を床に落とす。胸元をキュッと掴んで、絞り出すように声を吐き出した。

 「だから、あの、俺、恩返しするにもできることなくって。学もないし、特技があるかもわからなくて。運動神経だって、昨日の夜に初めて息が切れるほど走ったくらいで、今まではほとんど棒立ちか座ってるかしかなかったんです」

 それが本当ならば、久しぶりに足を動かした結果のあの速さは天性の才能ということになるのだが、競走もしたことない少年がそれを自覚できるわけもなく、また常人離れしているエノクがそうだと確証を持てるわけもない。

 「なので!」突然声を荒げたと同時に、少年の膝が床の上で行儀よく畳まれる。

 「荷物持ちとか、雑用とかで少しずつでも恩返しさせてください! 服屋のお兄さんから聞きました。あなたたちは旅をしているんですよね? 俺、大したことできないけど、魔物避けとか、水汲みとかなら多分できます。だから――」

 前髪をすり潰さん勢いで、少年は額を床に擦り付ける。異様な気配を感じたのか、ノアが身じろぎ始めた。

 「俺を、どうかおそばに……」

 声が震えていた。必要ないと突き放されることにだろうか。それとも誰かについていくこと自体が恐ろしいのかもしれない。

 諦観に至ることもできぬまま、ここまでの自我を保ちながら、奴隷として収容されていたのだ。従うことに対して恐怖を抱いていても不思議ではない。

 そんな少年の決死の覚悟を前に、エノクは難しい表情をしていた。とはいえ、実際に無表情なのだが。やや口角が下がっている程度の差でしかないのだが。兎に角、この少年の申し出はかなりの難問だった。

 「少し質問しても良いか」

 はい、と少年は顔を上げる。

 「貴様は百年ほど前の、勇者に纏わる伝説を知っているか」

 「百年ほど前ですか?」考え込むように、目線を下げ、またパッと上げた。

 「あれですね。剪定の剣に選ばれた勇者が災禍の化身を倒したっていう……。それがどうしたんでしょうか?」

 「貴様、親や親族はいたのか」

 話が飛ぶ。特に動じることなく首を横に振った。

 「いえ、少なくとも覚えてはいません。俺、どっかで記憶がすっかり抜けちゃったみたいで。丸裸どこともわからない平野で倒れていたところを運悪く奴隷商人に拾われたんです。それ以前の記憶はありません。話せはするし、ある程度の常識とかはあるんで、それなりに普通の暮らしはしていたと思うんですけど……。盗賊にでも襲われたんでしょうかね。……あ、だから俺、仮にいたとしても覚えてないんです。すみません」

 (面妖な)

 人を襲う賊が出るのは珍しいことではなかった。しかし、記憶喪失になるほどの衝撃を与えたまま放置するとは。そこまでするのであれば、いっそのこと殺すか、簀巻きにして川に流すかした方が余程安全だと思うのだが。そこまで頭が回らない賊だったのだろうか。

 憶測はさてより、少年が奴隷になった経緯は判明してきた。しかし、彼自身に記憶がないのであれば、彼の容姿が血によるものなのか、単なる偶然の産物なのかの判断はできない。

 (それに、彼に帰る宛がないとも限らない)

 もしかしたら、今この瞬間にも、彼の帰りを待っている誰かがいるのかもしれない。そうだとすれば、突然失踪した知人の身を案じて、気が気じゃないはずだ。

 暫し黙考してから、「もう一つだけいいか」と言葉を足す。

 「もし貴様が何者か知ることができる可能性があるとすれば、どうする」

 「それはもちろん!」

 語調が強まった。こほん、と咳払いをしてから「その可能性に賭けます」努めて冷静な声音を装った。ふむとエノクは瞼を閉じる。

 数秒の静寂の後、「わかった」と、淡々とした声が告げる。

 「ならばついて来い。恩返しとやらは、貴様の正体がはっきりしてから相応のものを要求しよう」

 「それって、俺の記憶を戻す方法に心当たりがあるってことですか?」

 食い気味の少年にそっけなく肯定すれば、青い瞳がきらんと輝いた。

 「よかった。俺、頑張ります! 荷運びでも水汲みでも、火の番でもなんでもやります!」

 その場で胸を撫で下ろしたかと思うと、興奮したような大声を出すものだから、ただでさえ眉間に皺を寄せながら眠っていたノアの瞼が完全に持ち上がる。パチパチと数回瞬きをしてから体を起こした。

 「お兄ちゃん、どうしたんですか?」

 「ノアちゃん。俺も君たちと一緒に行けることになったんだ」

 寝ぼけたばかりの脳みそはすぐに言葉の意味を理解できなかったようで、その反応は数秒後にぶわりと溢れ出す。

 「本当? じゃあ、暫くは一緒にいられるんですね」

 穏やかな彼女の様子を見るに、自分が眠りこけている間に随分とノアも懐いたらしい。旅をするからには、最初のように警戒されていては守りにくいというもの。エノクとしては望ましいことだった。

 「じゃあ、エノクがわたしの保護者だから、エノクに保護されたお兄ちゃんは、わたしのお兄ちゃんってことですね」

 それは違う気もするのだが、わざわざ口出しする必要もないのだろう。現に少年の方も笑顔で頷いていて――。

 「貴様、名は覚えているか」

 ふと思い立って尋ねる。ノアの両手に右手をがっしりホールドされていた彼は困ったように眉を顰め、寂しげに肩をすくませた。

 盗賊に襲われたらしい以前の記憶がないのだからそういう反応が返ってくるのは想定の範囲内だ。

 「お兄ちゃんも名前ないんですか?」

 「う、うん。少なくとも今は」

 邪気のない質問にぎこちなく答える。小さな少女の脳みそがくるくると回って、何を思ったかエノクの方を振り返る。

 「どうしましょう。エノクの名前。もう分けてあげられる場所がないです」

 悲しそうに項垂れる。一つの名前を二人で分け合っているのもおかしな話なのだが、おそらくノアに言っても首を傾げられてしまうだけだろう。

 こうなってしまうと、この少年にも記憶を取り戻すまでの仮の名前をつけてやらなくてはならないということになる。それも、今度は一からと来た。

 「……ノア。何か良い名はあるか」

 エノクは名付けをパスした。

 仮ではあるものの人の子の名を魔物である自分が名づけるのはいかがなものか。それに、どうにも勇者にそっくりな彼に名前を付けるというのも、どこかモヤモヤするものがある。

 本人ではないとわかっているのだが、自分を下した人間にそっくりな外見の少年を前に、複雑な心境が全くないのかと問われれば、否定せざるを得なかった。

 「ええ、名前? え、えっと……。エノクでも、ノアでもない名前……」

 年端もいかない少女はうんうんと頭を悩ませる。視線が少年の表面をなぞるように何度も行き来する。

 ちなみに、ノアも何かに名前をつけた経験はない。自分のぬいぐるみを持っていたこともなければ、村の野良犬に名付ける機会もなかった。彼らには他の子どもたちが名付けた名前が定着していた体。

 茶色の髪に、比較的温和そうな顔立ちをしている。肌の色は健康的な肌色であり、白くも黒くもない。むむっと、悩んで顔のあたりを行き来している。

 瞳の色は青い。澄んだ空を連想させるような、しかし奥には湖の水のように淡い水色が覗く。よくよく見ればかなり特徴的な虹彩である。ターコイズやサファイアを混ぜて一つの宝石として結晶化させたような、幻想的な色合い出逢った。

 「青色……っぽい。あお、あお――アオ、ノ?」

 「アオノ?」

 「お兄ちゃん、青いですから。ノはわたしたちとお揃い。エノク、ノア、アオノ。全員ノがついてるんです!」

 えっへんと小さな胸を張る。どうやら彼女からするとかなりしっくり来る名前らしかった。

 「アオノ……うん」

 自分の体に馴染ませるように口の中で唱えたあと、大仰に頷いた。

 「アオノ……。ええ、良いです。なんだかしっくりきます」

 少年、もといアオノが微笑した。

 「よかったです。ということは、呼ぶときはアオノお兄ちゃん?」

 ノアが首を傾げながらアオノを見上げる。名を呼ばれた本人は、少し屈んでから「なんだい?」と優しく微笑んだ。えへへ、と照れたような声が聞こえてくる。

 「ありがとう、ノアちゃん。俺、この名前大切にするよ」

 そう言って、茶色い髪を撫でる。その背後では、やり取りを黙って聞いていたエノクは顎に指を添えて、視線を床へと落としていた。

 (やはり、勇者とは無関係か。目の色もそうだが、性格が違い過ぎる」

 ありし日の勇者は自身に尊敬の眼差しを向けている少年への扱いは雑だったし、一人を除き、女性たちからも度々反感を食らっているような人物である。幼い娘の背丈に合わせて屈み、微笑むだなんて芸当できるとは到底思えない。

 「エノクさん」

 「ん」

 身だしなみを整えながら、彼は立ち上がる。

 「本当にありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」

 「……ああ」

 やはり別人だ。間違いない。

 確固たる確証を得たところで、時刻はすでに夕方近くに迫っていた。二人のことを考えれば、明日の朝にこの村を出る方が得策だろう。幸い、この宿は余裕があるようだし、急遽連泊になっても問題はなさそうだ。

 「明日に向けて英気を養っておけ。私は少し出かけてくる」

 「わ、わたしも行きます」

 「すぐに帰ってくる。留守番していろ」

 ぷくーと頬に小さな風船が膨らんだ。

 「俺が見ときます」と言ってノアの両腕に捉えられたのを確認して、エノクは部屋を後にした。

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