【完結】悪役令嬢は、二人がいい
そして、一年に一度の王立大舞踏会の夜がやってきた。
王城の大広間は、一年で最も華やかに装われている。天井から吊るされた三連のシャンデリアが何千もの蝋燭の光を放ち、大理石の床が鏡のようにその輝きを映し返す。壁際には楽団が陣取り、優雅なワルツの旋律が広間を心地よく満たしていた。
集ったのは数百の貴族たち。色とりどりのドレスと夜会服、宝石の煌めき、ふわりと漂う香水の香り。社交界の一年が、この一夜に凝縮されている。
だが今夜の注目は、ワルツでも宝石でもなかった。
「まだかしら……」
「まだ来ないわね?」
「入場は最後にするつもりよ、きっと」
「演出を心得ていらっしゃるわ!」
令嬢たちの視線は、繰り返し大広間の入口に向けられていた。
王太子アルベルトは、広間奥の玉座の傍らに立っていた。王族の正装である白い軍服を身に纏い、堂々とした立ち姿を見せていたが、本人の表情はやや所在なさげだ。
「ブルクハルト。僕はこれから、開会の挨拶をしなければならない」
「左様でございます」
「その後は国賓への応対と、各家門への挨拶回りだ」
「その通りです」
「悪役令嬢の出番を気にしている暇はない」
「まったくもって」
「……気にしていないぞ」
「はい。気にしていらっしゃいませんね」
アルベルトの視線は、三度ほど入口に向けられた。ブルクハルトは正確に数えていたが、黙っていた。
リゼットは、友人の令嬢たちと広間の中程にいた。淡い黄色のドレスは侍女のニナが選んでくれた一着で、リゼットの琥珀色の瞳と亜麻色の髪によく映えている。
「リゼット様、緊張されていますか」
「ちょっとだけ。……ねえ、ニナ。あのお二人、いつ来るかしら」
「さあ。でも来なかったら来なかったで……」
「来るわよ! 絶対に来る!!」
リゼットの声には確信があった。あの二人が、この舞台を逃すはずがない。
やがて、楽団のワルツが一曲終わった。
次の曲が始まる——はずだった。
しかし、始まらない。
楽団が演奏を止めていた。
指揮者の手が、下ろされたまま動かない。楽団員たちの目が、一斉に大広間の入口を向いている。ざわめきが、波のように広がった。
入口の大扉が——ゆっくりと、開く。
最初に見えたのは、黒だった。
闇を纏ったような漆黒が、大扉の向こうから溢れ出す。フリードリヒの最高傑作が、シャンデリアの光を受けて初めてその全容を現したのだ。光を飲み込み、また放つ黒薔薇の刺繍。銀の鎖がウエストを締め、たっぷりとした裾が大理石の床を這う。
その隣には、赤。
すべてを削ぎ落とした深紅が、黒と並んだ瞬間に完成した。装飾のない赤は、単独では素朴に映るかもしれない。だが漆黒の隣に立つと——火が灯る。黒という闇があるからこそ、赤という炎が鮮烈に映える。二つは対ではなく、一つの作品の右半分と左半分だった。
ローザリンデとクラリッサは、並んで歩き始めた。
大広間が静まり返る。
楽団は演奏を再開しない。指揮者が棒を構えることすら忘れている。数百の貴族が息を呑み、身じろぎもせず、二人の歩みを見つめていた。
靴音だけが響く。
二つの靴音が、完璧な同期で大理石を叩く。打ち合わせたのか、それとも自然にそうなったのか。この二人は、互いの歩幅を測るまでもなく合わせてしまう。
広間の中央まで来て——二人は立ち止まった。
向かい合わず、並んだまま。
同じ方向を、向いたまま。
ローザリンデが口を開いた。
「皆様。本日は悪役令嬢から、一つご報告がございます」
声は決して大きくなかった。だが、静まり返った広間の隅々まで透き通るように届いた。辺境で鍛え上げた声の通り方だ。
クラリッサが引き継ぐ。
「半月ほど前、この社交界で一つの問いが立てられました。……真の悪役令嬢は誰か、と」
令嬢たちがざわめく。あの対決のことだ。高笑い対決。ドレス対決。嫌味対決。悪役令嬢エピソード自慢大会。三度の引き分けと、一つの未決着。
「本日をもちまして、その問いに決着がつきましたことをご報告いたします」
広間が、息を飲んだ。
「結論」
ローザリンデがクラリッサを見た。
クラリッサがローザリンデを見た。
二人は、笑った。
「「悪役令嬢は……二人でいい!!」」
一拍の沈黙。
それから——楽団のチェリストが、弦を一つ鳴らした。
誰も指示していない。ただ、この瞬間に音が必要だと感じて、弓を動かしたのだ。低い音が広間に響き、他の楽団員もつられるように楽器を構え、即興の和音が自然と生まれた。
拍手が起きた。
一人から始まり、二人、五人、十人……やがて大広間全体が拍手に包まれた。
恐怖からではない。
義務でもない。
それは——純粋な敬意だった。
壁際で、フリードリヒが泣いていた。隣の仕立屋が肩を叩いたが、今回は「座れ」とは言わなかった。自分も目が潤んでいたからだ。
ヘルミーネは柱の影で静かに頷いていた。表情は変わらない。変わらないが、白髪交じりの髪を押さえる手がわずかに震えていた。
リゼットは目を輝かせて拍手していた。隣のニナが「リゼット様、拍手の音が一番大きいですよ」と注意したが、聞こえていなかった。
マリエッタは広間の隅で、ハンカチを握りしめていた。泣いてはいない。泣いてはいないが、目が赤い。もし誰かに「泣いているの?」と訊かれたら、「花粉です」と答えるつもりだった。秋に花粉は飛ばないが、その程度の嘘は許されるだろう。
アルベルトは、苦笑していた。
苦笑しながら、ゆっくりと。しかし確かに拍手していた。
「……ブルクハルト」
「はい」
「見事なものだな」
「はい。見事でございます」
「僕の出番は……やはり、なかったな」
「殿下の出番は、この後の挨拶でございます」
「……そういう意味ではないのだが」
「存じております。ですが殿下、あの方々が安心して舞台に立てるのは、この国が安定しているからです。国を安定させているのは、殿下です」
「…………」
「舞台の上で拍手を浴びる者だけが主役ではございません。舞台そのものを支えている者もまた、立派な役割でございます」
アルベルトは黙って、ブルクハルトを見た。
それから——笑った。今度は苦笑ではなかった。
「お前は本当に……ずっと、そうだったのだな」
「何がでしょう」
「僕の舞台を、支えてくれていた」
ブルクハルトは四十年のキャリアで初めて、返す言葉に詰まった。
詰まって、誤魔化すように咳払いをして、「恐れ入ります」とだけ言った。声が少しかすれていたが、広間の喧騒に紛れて誰にも気づかれなかった。
拍手が収まった後、ローザリンデとクラリッサは大広間の中央で向かい合った。
「さて、せっかくの舞踏会ですもの。一つ、やり残したことがあるわ」
「何かしら」
「高笑い。……二人で」
クラリッサの目が、輝いた。
冷たい湖ではなかった。氷の下から陽光が差し込んでいる、あの目だった。
「受けて立ちますわ」
二人は息を合わせた。
目を見て、頷いて、同時に息を吸った。
「「おーーーーっほっほっほっほっほ!!!」」
大広間が震えた。
ローザリンデの雷鳴と、クラリッサの冷気が、ぶつかり合うのではなく——溶け合った。
火と氷が交わるとき、生まれるのは蒸気だ。高笑いの蒸気が大広間を満たし、シャンデリアのクリスタルが共鳴し、窓ガラスが細かく振動し、天井のフレスコ画からぱらぱらと金粉が舞い落ちた。
だが、不思議なことが起きていた。
誰も怖がっていない。
令嬢たちが笑っている。騎士たちが笑っている。楽団員が楽器を抱えて笑っている。フリードリヒが泣き笑いしている。ヘルミーネの口角がはっきりと上がっている。リゼットが両手を頬に当てて、目をきらきらさせている。
つられるように、大広間のあちこちで笑い声が上がった。高笑いが、笑いを呼んでいる。恐怖ではなく、歓喜を。
これが——二人の悪役令嬢の、到達点だった。
一人では威圧にしかならなかった高笑いが、二人では祝福になる。
高笑いが止んだ。
余韻が広間を漂い、やがて優しく消えた。
静寂の中で楽団の指揮者が、ゆっくりと棒を上げた。
ワルツが始まった。今夜一番の、柔らかい旋律。
ローザリンデはクラリッサに手を差し出した。
「踊る?」
「悪役令嬢同士で踊るなんて、前例がありませんわよ」
「今日この場で作ればいいでしょう。前例なんて」
「……本当に、あなたって人は」
クラリッサは手を取った。
漆黒と深紅が、大広間の中央で踊り始める。
ワルツのステップ。どちらがリードするかで一瞬もめたが、結局交互にリードを入れ替えるという、これまた前例のない踊り方に落ち着いた。
ぎこちなくて、たまに足を踏んで、全然優雅じゃなくて。
でも二人とも、笑っていた。
それを見て広間の人々も笑った。
「ローザリンデ。一つだけ、訂正してもいいかしら」
「どうぞ」
「さっき大広間で『悪役令嬢は、二人でいい』と言ったでしょう」
「ええ」
「あれは『二人でいい』ではなくて」
クラリッサはシャンデリアから目を下ろして、ローザリンデを見た。
「……『二人がいい』、ですわ」
漆黒のドレスと深紅のドレスの裾が、同じ方向に揺れる。
ローザリンデは、ひどく赤面した。
◆
後日談を、少しだけ。
ルナフォール侯爵家の当主交代は、秋の終わりに正式に執り行われた。
クラリッサ・デ・ルナフォールは、ルナフォール侯爵家三百年の歴史上、初の女性当主となった。就任の挨拶で高笑いをしたのは前代未聞だったが、領民たちは「うちの当主は頼もしい」と笑っていた。怖いけど頼もしい。それが新当主の評判だった。
ランドルフは領民との橋渡し役として精力的に働いた。
決断はクラリッサがする。ランドルフはその決断を、領民に分かりやすく説明する。「厳しい決定だが、皆のためだ」と。ランドルフが言うと、領民は信じた。この人は嘘をつかないと、全員が知っていたからだ。
兄妹の連携は予想以上にうまく回り、ルナフォール侯爵領は翌年の交易収入が二割増えた。クラリッサの政治手腕か、ランドルフの人望か、あるいはその両方か。答えは誰にもわからなかったし、わかる必要もなかった。
ローザリンデ・フォン・シュヴァルツェンベルクは、辺境の領地と王都を行き来する生活を続けている。
爵位は戻っていない。戻す手続きは可能だとアルベルトが言ったが、ローザリンデは断った。「爵位がなくても領民は慕ってくれるし、薬草は育つし、嫌味は言えるわ。必要なものは全部あるもの」と。
薬草園は今も彼女の宝物だ。カモミール、ラベンダー、セージ、エキナセア——そして、クラリッサが贈ってくれたラベンダーの新品種。名前はまだつけていないが、他の品種より少し色が濃くて、少し香りが強い。クラリッサに似ているとローザリンデは思ったが、本人には絶対に言わない。
新作のハーブティーをクラリッサに送っては「今回のは前回より少しましですわね」と言われ、「少しとは何よ、傑作よ」と返し、翌週にはまた新作が届くという不毛なやりとりが、手紙の往復として定着した。
配達の郵便屋が「またですか」と呆れるほどの頻度だったが、ローザリンデは一度も送るのを忘れなかったし、クラリッサは一度も飲まずに捨てたことはなかった。
ヒロインのリゼット・フォン・ハイリゲンベルクは、学園を無事に卒業した。
在学中に悪役令嬢の後輩として鍛えられた結果、気迫が三段階ほど上がり、以前は三メートルで怯んでいた令嬢たちの圧力を平然と受け流すようになった。ニナは「教育効果としては素晴らしいですが、ヒロインとしての方向性が間違っている気がします」と述べた。
リゼットは二人の悪役令嬢にときどきお茶に呼ばれるようになった。
最初は三メートルの壁に阻まれていた少女は、今では二人の間に座って笑っている。時にはローザリンデの嫌味に巻き込まれ、時にはクラリッサの冷たい微笑みに震え上がり……それでも「お二人といると楽しいです」と言う。二人は「物好きね」「変わった子ですわね」と口を揃えるが、リゼットの席には必ず一番いい茶葉が用意されている。
「私。やっぱりヒロインじゃなくて、悪役令嬢の後輩枠なんでしょうか?」というリゼットの疑問に、いまだに誰も答えていない。
王太子アルベルトは、翌春の議会で財政改革法案を可決させた。大きな成果だったが、社交界での話題は「悪役令嬢コンビの新作ドレス」に負けた。
アルベルトは「僕の法案より、ドレスの方がニュースになるのか……」と遠い目をしたが、ブルクハルトが「財政改革は国民の生活を支えますが、ドレスは社交界の夢を支えます。どちらも大切なお仕事です」と言ったので、もうそれでいいかという気持ちになった。
ブルクハルトとの関係は、今なお変わらない。正論を言い、ため息をつかれ、それでも隣に立ち続ける。アルベルトは時々思う。自分にとってのブルクハルトは、ローザリンデにとってのマリエッタのような存在なのだろうと。……本人に言ったら「恐れ入ります」と言われるだけだろうが。
仕立屋ギルドのフリードリヒ・マイスナーは、舞踏会のドレスの功績により王室から正式に表彰された。
授賞式で泣いた。スピーチの途中で三度泣いた。
「私は……この日のために……五十年、針を……」と言いかけて声が詰まり、隣の仕立屋が「もういい、座れ」と肩を叩いた。会場は拍手に包まれた。
フリードリヒはその後、弟子入り志願者に対して「針を持つ前に、まずドレスの気持ちになれ」と謎の指導をするようになったが、不思議と弟子たちの腕前は上がった。
メイドのヘルミーネは、高笑い鑑定士の資格制度を全国に拡大した。
受験者は年間一千人を超え、「高笑い鑑定士一級」は社交界における最高の権威の一つとなっている。試験は実技と筆記の二部構成で、実技では「模擬高笑いを聞いて発声者の意図と感情を読み取る」という高度な課題が出題される。合格率は一割を切る。
ヘルミーネ自身は特級を保持している。特級は彼女しか持っていない。「特級の試験内容は?」と訊かれると、「秘密です」とだけ答える。表情は一ミリも動かない。——ただし、ローザリンデとクラリッサの高笑いを聞いたときだけ、口角がわずかに上がることを、弟子たちは知っている。
マリエッタは相変わらず、ローザリンデの傍にいる。
アパルトマンは狭いままだ。壁の地図はいくつか剥がされたが、代わりに薬草の乾燥棚が増えた。差し引きゼロ。部屋は永遠に狭いままだろう。
でも最近は、来客が増えた。
クラリッサが夜遅くに訪ねてくる。リゼットが焼き菓子を持ってくる。フリードリヒがドレスの試作を持ち込む。ランドルフが妹への差し入れを届けに来る。
そういえばブルクハルトが一度だけ、アルベルトの伝言を持って来た。内容は「元気でやっているなら何よりだ。困ったことがあったら、言ってくれ」だった。ローザリンデは「あの人なりに気にしているのね」と呟いた。
狭い部屋に、人が集まる。
ハーブティーの香りが漂う。嫌味が飛び交う。笑い声が響く。時々、高笑いが響いて近所迷惑になる。
マリエッタは思う。
半年前、ローザリンデ様は一人で辺境に旅立った。
両親に見捨てられ、馬車一台に荷物を詰めて、啜り泣く使用人や侍女たちを残して。
あのとき、この人はもう笑わないのかもしれないと思った。悪役令嬢の仮面を脱いだ先に、一体何が残るというのか。
そこに残ったのは——花を愛する普通の人だった。領民の子供のために薬を作る人だった。出会って二週間の女のために夜を徹する人だった。
悪役を演じて手が震える、どこまでも不器用で、どこまでも優しい人。
その人が今、こうして笑っている。
隣に、同じくらい不器用な女がいる。その周りに、一人、また一人と人が集まってくる。
誰も得をしない戦いのはずだった。でも、気がつけばみんな笑っている。
マリエッタはカモミールティーを淹れた。
最近は、五杯分淹れることが多い。
◇
これは、悪役令嬢は二人いても別にいいんじゃない? という。
いや。
悪役令嬢が二人いた方がいい、という——ただ、それだけの物語である。
〈完〉




