第七話 九幽
時はすでに日も暮れる中、山地であれば当然獣が出て何かを食しては音を出すだろう。
ゴリュ、ガク。
しかし、ただならぬ音が今山中に響いては、見るもの全てを驚かすだろうと。
死屍累々
屍山血河
言うならばそれだ。
大きな体の獣が一匹、腹を揺さぶりながら、血で髭を染めても構わずそれはただ貪欲に、ただ貪欲に食す。
例え苦しいのか、息を切らしてもなお捕食をする。
しかしその姿はただ食べているには見え得にくい。
時たまにえずくからだ。
まるで胃の調子が悪いのか、何のか。
妖と呼ぶに相応しいこれの。
音がする。
虎の妖の胃からか。
そう胃の中だ、胃だ。
その腹の奥底、胃袋の熱い粘液の海の中で、何かがいるのか、ゴロゴロとした音を内側で響かせているのが聞こえる。
ゴーン
寺院の大きな鐘を思わせる音ほどのもの、やはり大きすぎると言いたくなり、この山でなお生きているいる人を怖がらせては震えさせる。
無理もない、かの目玉、くるくるに丸まり、常日頃大きくある、それまるで見開き続けているようで、並々の虎の吊り目にあらず、しては幾ばく人の目に近しいようで。
かく言っては小さくあるわけじゃない、しては、人と言うならば、例えにしてこの大きさも銅鈴に近しい。
「...?おい先生、楽器...で目を例えるのか?俺は説話をいくつも聞いたが。」
「まま、言うとなれば、うほん、かの豪傑、知るぞ知る、籠城戦にて、勝をもたらす、して、官家に※1.“宇宙大将軍”と懇案し、かく官家より授かりし名と位を、平西郎、従六品、かの鄭傑が...ん楽器の例えは...鄭郎がでぇうぇい?と、でみたとかいいたが。」
「将軍乃有宇宙之号乎(将軍、乃ち宇宙の号有るか)」
「そうだ、そうだ」
「然り」
「うぃ」
ポン!
ここで※2.気拍をひと叩き。
「うむしらばくしてきたが、そうだ。」
虎の威は引くことを知らず、例えそれは苦しもうとも。
だが、その中に一人の存在がいれど、彼は怯え得てはいまい。
鄭傑であろうぞ。
虎に食されてなおその意は消えんと。
鄭傑の存在は完全に消滅していなかった。
捕食されていようとも。
皮膚の大部分はすでに溶け落ち、筋肉が白くふやけて崩れ、骨が露わになり、臓器の一部さえかの大きくある胃の中の袋を充ちるか、これの酸に侵され始めていた。
当然痛みは限界を超えているはずで、朦朧とした意識では痛みかどうかもしれず、考えを邪魔する熱に変わる。
ならば彼はただ終わるだけで、故に何も知らずして、怖がりもせずに此度の人としての生を散らすか。
だが奇妙にも鄭、この男、鄭傑は意志があった。
例え虚なる意志であろうとも。
彼は今、意識は薄れながらも奇妙に鮮明な断片を捉え続けていた。
その朦朧の中で、怪物——巨大な虎のような獣というべき存在
そのの記憶の断片が流れ込んできた。
生まれたばかりの頃の森の匂い、初めて獲物を仕留めた時の血の味、雷鳴のような咆哮で縄張りを主張する原始的な喜び。
だがそれらはすべて単純で、本能のみに支配されたものだった。飢え、恐怖、支配、休息。
人間のような複雑な葛藤や長期的な思考は欠片もない。
愛憎などない。
愛憎などない。
愛憎などない。
渦巻く、憎い。
こんなのに俺は食われたのか
それが憎い。
寄生するように、その記憶の海の中で蠢いていた。溶けかけた自分の神経が怪物の神経網に絡みつき、情報を盗み取り、有する。有していく。
朦朧とした意識の中に再び生へ渇望を持てた。
そうだ、欲しい。
欲しっている。
何をか。
わかりきっている、超越。
全てを上回ってやる存在へと。
それはわかっている。
けれどもどうすればいいか
わからない
いいや、正確にはわかっている。
可能性はまだある。
そう生きていれば出会うかもしれない。
包丁で武功を手に入れたように。
夢で見た何かのものも知れるかもしれん。
まだあの鍋を知れていない、かの鍋の奥を知りたい。
再生する。
感じる。何もかも。
怪物が一歩踏み出すたび、その振動がうちで広がる残骸を揺らし、さらに深く癒着していかせるようだった。
ここでまだ生きるとでも証明をするようだった。
特に背中の肉突起の付け根近く、捲れているような肉の層、より顕著に見えるからか、脊椎に沿った厚い筋肉層の中で変化は明白なはずだ。
そんな中だ。
中だ
なぜ気づくんだ
なんだか、筋肉の中で、徐々に自分がバラバラに溶けていく気がした。
溶けた細胞一つ一つが怪物の組織に取り込まれ、拡散していく感覚。
指の先から、腕から、胸から、すべてが分解され、怪物の一部へと混ざり合う気分。
だがそこで終わらなかったような気分。実際まだ意識がある。ならば終わっていないはずだった。
ならば、何が、そう溶けたはずの細胞が、逆に怪物 の筋肉繊維の中に散らばりながら集まり始めた。
バラバラになった存在が、再び一点に凝集するような、異様な再構築の感覚。
皮膚の下の筋肉が、独自の意志を持ち、波打つ。
どうやら人格の一部が、獣の本能を上回り始めていた。
この世界に来てからの異常な判断力の冴え、徹夜労働で壊された精神力と思えない様々な異変がすでにその身あった。
ならば怪物の原始的な意志よりわずかに勝っていてもおかしくはない。
きっと何か霊的な面で怪物に勝っている。
(か、あが)
怪物が一時的に休憩し、巨体を地面に横たえた瞬間、臨界点が訪れた。
皮膚の下の筋肉が激しく蠢動し、鄭傑の意識が朦朧から一気に引き戻された。
出てきそうになる直前——背中の皮膚が内側から薄く盛り上がり、裂け目が走る寸前——で、視界が鮮明になった。
(……ここは……俺は……まだ生きている……! 溶けていたのに……集まってきた……!)
意志が噴出した。溶け残った骨と、再構築されつつある筋肉が、怪物 の組織と癒着したまま強引に道を穿つ、背中の皮膚がパンパンに張りつめ、血管が浮き上がり、橙と黒の虎毛が逆立った。
そんな光景までも見たと彼は思う。
一体何が。
ズブ……グチャ……グチュ……。
肉を裂く生々しい音が連続し、怪物が突如として激しく苦しみ出し、巨体を捩った。
ゴッと
前足で地面を深く抉り、牙をむき出して空を噛む。
低いうめきが徐々に高くなり、森全体を震わせる咆哮へと変わった。
「グルルルル……ガアアアアアッ!!」
怪物が激痛に襲われたか、もがき狂う。
背中が波打ち、皮膚の下で巨大な異物が蠢いているのがはっきりと分かる。
ヌチャ
「ガッ!」
鄭傑は内側から裂け目を広げた。
手が奥で何か肉と繋がっているのが見える。
融合していた上半身を、怪物 の背中筋肉層に押し込みながら前進させる。
癒着した部分を無理やり剥がす感触は凄まじかった。自分の溶け残った皮膚と怪物の赤い筋繊維が、糸を引くように引きちぎれ、粘液と血が噴き出す。
「ガアアア!」
鄭はもがく、必死に。
生物的な抵抗——肉の弾力、温かい体温、脈打つ血管の収縮、神経が引き裂かれる鋭い痛み——すべてが生々しく伝わってくる。
これじゃまるで自分の体を半分切り裂きながら、怪物という母体から無理やり産み落とされるような、痛烈で淫靡ですらある分離の苦痛だった。
そんな中もちろんその母体のような存在もただでは済まない。
怪物は立ち上がり、狂ったように暴れ始めた。
太い尾が鞭のように木々をなぎ倒し、巨大な爪が地面を深く抉る。咆哮が森に木霊する。
その暴れる姿と合わせては暴風の如し咆哮だ。
「ガアアアアアッ! グルオオオオオッ!!」
背中の皮膚が遂に破れた。血と体液が噴水のように飛び散り、枯葉と土を赤黒く染める。まず、歪んだ頭部が姿を現した。
(なんか、あれ...顔が痛いのか...?手触り)
その顔は人間の骨格に虎のそれが混じり、顎が前方に突き出し、鋭い牙が唇を破って覗いている。
額と頰には橙色の虎毛のような短い産毛が生え、目は金色に輝き、瞳孔が縦長に細くなっていた。
頭髪は一部が溶け残った黒髪と、虎の鬣のような硬い毛が混在し、全体として歪で異様な容貌となっていた。
「は?なんだ!この感じ!?」
続いて肩と胸部が這い出る。
体は明らかに大柄になっていた。元々の鄭傑より頭一つ以上身長が伸び、筋肉が異常に隆起し、肩幅が広く、腕が太く長くなっている。
皮膚の大部分はまだ赤く生々しく、傷だらけで粘液にまみれていたが、背中や両腕、肩の一部には虎のような橙と黒の縞模様の毛皮が部分的に生えていた。指先には湾曲した爪が伸び、融合の名残か、この怪物に等しい虎のそれに近い形状となっている。
「ぷは、ああ...どうなっている....」
しばらく驚くもしたでまだ暴れる怪物に現実を引き戻されては、その勢いに乗ったままに鄭傑は怪物の背中から半身を乗り出させた状態で、残った下半身を引きずり出した。
戸惑っていた、だが行動は止まってはいないが、ただ自分の知る知識や常識がそれについていけないと思っていた。
毛虫が蛹から出ていくように思えている彼だったが、
最後の癒着部分——腰から腿にかけての筋肉が、怪物 の脊椎近くに深く絡みついていた——を、最初は両手で掴んで強引に引き剥がそうとした。
でもできずに結局自分が埋まっている怪物の背中を掻き分けようとする。
その時彼はさらに戸惑った、自分が消化されたはずだった、神経でも残って再生したのか?
そんな中音が彼を現実に戻す。
グチャリ、ジュルル……という湿った肉離れの音とともに、大量の肉片と血の糸が垂れ落ちる。
怪物の背中には拳大の穴が開き、血が止まらず流れ続け、筋肉が痙攣していた。
誰が見ても明らかに怪物の意思によって動かされているように見える。
普通の虎どころか、哺乳類が自分の背中を背中だけで掻き分けようとするなど無理だ。
そこまでにこの生物は常識外にある。
(くっ、きも)
「あっ」
いよいよかと完全に外へ出た瞬間、鄭傑は地面に転がり落ちた。
体はまだ不安定で、膝をついたまま荒い息を吐いた。新たな体の重さと力強さが、実感として迫ってくる。
体型に似合うものだから。
「おい、どうなってんだ、俺...」
怪物は背中に巨大な傷を負いながらも、死ぬどころか逆にピンピンとした活力を取り戻し始めた。
まるで傷でもないかと、鄭が落ちた途端には暴れるのが収まると、傷口を自ら舐め始め、血を止めようとする。
やがては牙をむき出して鄭傑を睨みつける。
自分の一部を食らい、背中から引き裂いて出てきた獲物に対する、純粋な激怒だった。
捕食も遊玩も終わりだ
「ガアアアアアアッ!!」
怪物が低く構え、再び咆哮を上げた。
背中の傷はまだ開いているが、再生が始まっているのか、血の流れが徐々に弱まっていた。巨体を震わせ、尾を激しく振りながら一歩踏み出す。
鄭傑はゆっくりと立ち上がろうとした。その瞬間、怪物 が突如として再び激しく苦しみ、もがき始めた。背中の傷口が開き、血が噴き出す。出てきた鄭傑との融合が完全に断ち切られた反動で、共有されていた神経が激しく暴走しているようだった。巨体が地面を転げ回り、前足で自分の背中を掻きむしる。
「グルオオオ……ガアアアアッ!!」
咆哮が苦痛と怒りに満ち、森の木々が震える。怪物は死なない。
むしろ傷の痛みが興奮を呼び、獲物、同類、いかんせんそれは元は自分自身だったもの、そこでそれには攻撃性を極限まで高めていた。
なんだって一山は二虎を許さず。
しかし、鄭は、鄭傑は反応を示さなかった。
大きな獣に興味でもないようで、鄭傑は自分の変化した体を見下ろした。
大柄で力強く、虎の特徴を一部帯びた異形の肉体。
(なんでオレンジの体毛...?)
....彼の驚く点はともかく、それは確かに異類。
故に虎を無視しただろうか。
しかし虎はその無視を、挑発行為にさらに激怒する。
「ガアアア!」
怪物は地面から跳ね起き、鄭傑に向かって突進してきた。
背中の傷をものともせず、牙をむき出し、巨大な前足を振り上げる。
敵、獲物、同類、本能的に自分の一部を奪われたことへの怒りが、獣をより凶暴にさせていた。
鄭傑は戸惑いながらも、体はすでに動いていて、そこで気づいたのは足が地面を蹴る感触が異常に強く、筋肉の盛り上がりを自分でも驚くほどだった。
「はやっ!」
虎のような毛皮の部分が風に震え、歪んだ顔で息を吐く。
(俺は……何になったんだ……? 怪物に食われて、溶かされて……でも、集まって、出てきた……)
「アオ!」
現実が一気に戻ってきた。
怪物の激しい咆哮と、迫り来る巨体が、彼を夢から引きずり下ろす。
ここで優に出たのはなんと鄭である。
反撃に出ていく、しかし攻め手のはず、先手を占めるのはずが、ただその両の手に新たに生えた爪でで攻撃をいなすのみ、跳躍や突進の勢いを乗せてそのままに相殺させては、体を捻り回避する。
後に相手の攻撃の行末でも知っているように身を捩る。
くるたびの連続の噛みた叩きを避ける、くるたびに転がるようにかわし、即座に起き上がりながら今度は肩骨のつなぎの厚い肉を叩いた。
にている
ドン! ドン!
二連打。
鄭はなんだか似ていると思った。
六膳書に。
━━━━「先を行っては必ずしも攻めにあらず、後をして先行する。時を経てそれ空に会え。」━━━━
思い出せばそうだ。
一言で言うと先手で相手の力が加わるところを止め得ていた。
発力の制限というべきか。
なのに尚更、後からさらに攻めに転じれるようにもした。
末に、空、と言う言葉、時を経て空に会え。
空だ、空間だ、時間が経っても有利な空間を掴んでいる。
そう思うのであった。
「うぉ!」
叩くたび、自分の内側から何か熱いものが手を通じて流れ込む感覚があった。
肉の繊維が、打撃の瞬間に乱される。
(息だ、息を吐くたびに少し筋肉が緩くなる、そういう事だな!)
それは、ただの暴力ではなく、何かの気を乱し、内に籠もった力を削ぐ、今は己が知る科学に分かろうとするも、何かをすでに感じていた。
その違いを。
「ウオ!」
左手を思いっきりと掌底で押し当てる
だが、効いているようで、効いていない。
五足大長虫の傷は、叩かれた直後に粘つく膿を噴きながらも、すぐに肉が盛り上がり再生を始める。
流石に、血肉を奪われたせいか、速度は遅くなったが、だがそれでも人間の回復力など比較にならない。
(……まだ、足りない……この程度じゃ、到底……!)
怪物が尾を鞭のように振るい、鄭傑を壁際へ追い詰める。
彼は体を振り回して空を切りつけながらも、背中の肉突起が迫るのを見て、回転を続ける。
もはやまともに回避できない
空中で体を捻り、突起の根本からいよいよ待っていたように、むちのような何かが飛んできた。
(やっぱくるか!)
ドゥンッ!
絶体絶命の危機。
息が詰まり、心臓が激しく鳴る。
このままでは、次の瞬間、叩き潰されるのか、掴まる?
巨顎に頭を噛み砕かれる?
なんが、一体。
その恐怖の中で、鄭傑の意識は異常に研ぎ澄まされた。
目の前の化け物が、ただの「敵」ではなく、「巨大で硬く、脂が乗りすぎた上物の塊肉」として浮かび上がってきた。
(……叩く。ただ斬るんじゃない。肉を、叩いて……繊維をほぐすように……!)
「ガゥ!」
鄭の苦痛な声。
触手が、その肉を捻り、先にある鄭を押し潰し始めた。
厨房で、何度も何度も肉叩きをして、硬くなった肩肉を柔らかくするあの作業。
そんなことなんてしたことない。
キーボード叩くだけなんだ。
いくらでも変えの効く俺に、俺にそんなことわかるわけなんかなかったと彼は思った。
その理屈が、今、戦いの最中で、命の瀬戸際にあって、ようやく掴み始めた。
「ああああああ!」
五足大長虫が激しく身を捩り、背中の肉突起を鞭のように打ち振るう。
地面へと叩きつけるために。
当然その叩かれた相手の鄭は、鄭傑は全身の骨という骨に鈍い衝撃を与えた。
「アグぅ!」
「グオオオオオッ!」
怪物の咆哮が宿全体を震わせる。
無数の小眼が激しく瞬き、黄金の主眼に明確な苛立ちと殺意が宿っている。
この人間が、ただの獲物ではないことを、しっかりと認識しているようだった。
しかしそんな怪物からの畏怖を喰らう存在の息は荒く、視界が時折ぼやけるかのように足をジタバタとしている。
(硬い……でも見える、この背中の突起は、筋が複雑に絡みすぎている。ただ叩くだけじゃダメだ。もっと的確に、腱の走る部分を……まるで、硬くなった脂身を、叩いて崩すように……)
怪物が再び巨体を翻し、鄭傑を振り落とそうとする。
「おが!」
心臓が早鐘のように鳴り、死の影が背後に張り付いているのを感じながらも、指先には、奇妙な落ち着きが生まれていた。
いや、そんなわけないはずだ、なのにまるでこの乱暴な動きにそこまでに痛みを感じないように。
(俺、つよい?!)
この絶望的な戦いの只中で、彼はようやく何かの域に、指先で触れようとしていた。
だが、化け物はまだ本気を出していない。
五足大長虫の全身から、黒く濁った血の滲むようになっては蒸発して、煙のようなものがゆっくりと立ち上り始めていた。
鄭傑の背筋に、冷たい汗が伝う。
次の一瞬が、文字通り命を分ける。
(……なんかすご、へんし……!)
「ガオ!」
「あっ!」
五足大虎の背中から生えた太い肉の突起ぎゅっと引き合いでもするように縮んだ部分があったが、それは力を加えて遠くにある末端の、アナコンダにでも見えるそれで鄭傑の胴を締め上げていた。
怪物そのものと比べて小さくても鄭傑にとっては過度すぎるなんてほどに重く、硬くて、やばかった。
グリュ ぬリュ
「ガア....」
声にもならない声になっていく、無理矢理肺から空気を押し出されたせいである。
その仕業の元のねばつく肉壁は生き物のように脈打ち、収縮するたびに肋骨が軋み、肺が押し潰される。息を吸おうとするたび、胸の奥で熱いのか痛みなのかそんなものが続けていく、彼、鄭傑の中で
怪物に繋がっていた神経が、それとも見た目やほえだけでわかるのか、まるで感じていくのが怪物側の狂った怒り、それを逆流させ、脳の芯を白く灼くような感覚に鄭は陥っていた。
「ガオ!」
怪物が低く唸り、突起の発端を縮めて、それを引っ込めるようにして、それにより高速度で末尾を振り上げてはを地面へ叩きつけようと振り上げた瞬間——
森の木陰から、荒い息遣いが響いた。
シュ タ
誰かが飛び出していた。
鹿、獣などそうではない。
人、壮躯に燃える
それは無言で、刀をあげた、それは牛尾刀、それそ振り上げ、怪物の左の前肢を狙って横薙ぎに斬りつける。
ガキンッ!
鈍い金属音が夜の山に響き渡った。刀身は硬い毛皮と厚い筋肉に弾かれ、刃先がわずかに跳ね返る。
がだ表面を浅く裂いただけだった。
怪物が巨体をわずかに捻り、攻撃の主へ注意を向ける。
「あっ、店家!」
(生きて...?)
王大虎だった。
しかし驚愕する鄭傑を置いていくように、王大虎がただ一言、短く吐き捨てた。
それだけだった。いい判断のはずだが、死を前にしては冷静だった。
しかも鄭の強さでもわかっては信じているような素振り。
観察していただろうか、以前に一度顔を合わせただけの薄い縁。
互いに深く知る仲ではなかったのに、この信頼。
その刹那の隙。
鄭傑は両手の黒く湾曲した爪を、肉突起の根元に深く突き立てた。虎毛の生えた腕の筋肉が異様に隆起し、体内を巡る熱い流れが爪先に集中する。
グチャァァァ! ジュルルル……グジュゥゥッ! ズチャァァ!
肉が引き裂け、神経が引きちぎられる生々しい音が連続した。
背中から腰にかけて、熱した鉄棒をゆっくりねじり込まれるような焼ける激痛が駆け巡る。
皮膚が裂け、筋繊維が千切れ、脊椎近くの太い神経が引きずられる感覚が、脳髄の奥底まで突き刺さった。
つまるところ彼にとってはとても痛い。
しかし怪物も引き剥がされているせいで痛いそうに吠える。
だから鄭はまだ痛む、続く。
彼が引き剥がすたびに、怪物がおう痛みのせいか怪物の加わる力が増しているからだ。
(わけわか、死ぬ、し)
ついには口すらも開かない。
ジェットコースターでも高速すぎる道中で叫ばなくなると思う、そう思い出すとわかりやすい感じ。
シュ
血と粘液が噴水のように溢れ出し、傷口が熱く痺れ、背中全体が炎に包まれたように疼いた。
視界が白く閃き、歯の根がガチガチと鳴る。
「俺ぁ!えらばらし!」
ズルゥゥ……ドンッ!
鄭傑の体が地面に叩きつけられた。
枯葉と土が血に染まり、転がりながらすぐに膝をつく。
背中と腰の裂傷が激しく脈打ち、熱い血が背筋を伝って大量に流れ落ち、地面を黒く濡らした。
「ハァ...」
息が荒く、痛みで足が震えたが、彼はゆっくりと立ち上がった。
なんとか普通に立てた時には怪物が見える、そう、彼は予想してもいた、しかし彼は驚く。
見えたのは怪物の背中だった。
怪物はどうやら即座に王大虎へ向き直った。前足が大きく振り上げられ、その体を薙ぎ払う。
ドガァァッ!
やはりというべきで、軽々と吹き飛ばされ、十数メートル先の太い木の幹に激突した。
牛尾刀が手から完全に弾き飛ばされ、地面を転がって茂みの中に落ちる。
王大虎は木の根元に崩れ落ち、胸と腹を押さえて行こうとしたのか手を少しだけ震わせた程度に動かしては血を吐き、次にはピクリとも動かなくなった。
生死は不明だった。
いやおそらくは死ぬ、もう死んでいるかもしれない。
ガタン
獲物を屠った怪物はゆっくりと巨体を鄭傑に向き直らせ、金色の縦瞳でじっと睨みつけてきた。
背中の巨大な穴と裂傷から赤黒い血が絶え間なく滴り落ち、黒い蒸気がゆらゆらと立ち上る。
なんたる形相で鄭も思わずに後退りする。
それにいい気になったのかやつは、鄭を恐れさせたそれは口を大きく開かせては牙の間から涎が糸を引き、低いうなり声が森全体を震わせた。
鄭傑の動きを監視するようにしては低く構えて一歩も引かない。
「....」
鄭傑は痛みを堪え、視線を外さずに横へ移動を始めた。
落ちた牛尾刀を目指して、這うように近づく。
そうすればきっと
(い、いけ、い)
怪物は睨んだまま尾をゆっくり振り、圧力をかけてくる。
(眩し...いや)
光が木々の隙間から差し込み、二者の影を長く伸ばしていた。
(……今だ。)
一瞬の隙を見て、鄭傑は地面を蹴った。
血で滑らないよう手で刀の柄を強く握りしめる。
重いはずの刀身の感触が、手に何も何ほどだった。
━━「...怖かった、落ちそうで」━━━━
怪物が大咆哮を上げた。
「ガアアアアアアアッ!!」
巨体が突進してくる。
地面が激しく震え、風圧が顔を叩く。
そうしてすごい形相で鄭傑は横へ跳躍し、着地と同時に低く滑り込んだ。
牛尾刀を振り上げ、前肢を斬りつける。
ザシュッ! 刃は浅く食い込むだけだったが、左手の爪で同じ箇所を抉る。
ガキッ! 血が噴き、怪物が一瞬硬直した。
その瞬間、鄭傑は見た。
打撃を受けた筋肉が、波のようにうねり、衝撃を瞬時に逃がしている。
彼の肉を柔らかくする打撃に適応でもしているかのようだった。
さらに言うと、普段は鉄のように固く緊張していた筋肉の束が、攻撃の瞬間にだけ柔軟に波打ち、力を分散させていた。
ここでも感覚は異常に研ぎ澄まされているのがわかってきているようで、彼は、鄭は、鄭傑は怪物の筋肉の微かな動きまで捉えていた。
(固く守っているからこそ……叩かれた瞬間にうねる。しかしその瞬間すらも、ほんの一瞬、その谷間に、隙が生まれる。か)
怪物が尾を鞭のように横薙ぎしてきた。
ヒュン
鄭傑は後ろへ飛び退き、風圧で頰が薄く裂ける。すぐに前へ踏み込み、掌底を脇腹へ叩き込む。
ドンッ!
森の冷たい夜気、血の鉄臭、獣の生臭さ、すべてが鮮明に感じられる。
ならば避けられる!と鄭は思った。
眼窩の奥で目が変わる。
月光が血に濡れた虎毛を橙黒く輝かせ、鄭傑の歪んだ顔を照らした。
変形する
怪物が予知でもしたかのように、彼の変わりでも察したかのように低く構え、前足と尾と肉突起を同時に振るってきた。
それは三方向からの同時攻撃。
これでは避ける場所などもうないはずだ。
鄭傑は正面から踏み込んだ。迫る前足の下を滑り込み、仰向けになりながら牛尾刀を腹部の柔らかい部分へ深く突き刺す。
そして刀に向かい掌底を連続で打ち上げ、まるでそこへと何かを集中させるように
ドン! ドン! ドン!
打撃、違う何かのオーラ、気、エネルギーである。
そ度重なる瞬間た瞬間、鄭傑はなんと刀を引き、肉を少し割くことができた、怪物のを。
そしてそのままに切りつき続けることしては、ひっぱり、回り込んだと。
巨大か、長いというべきかの、怪物の傷口へ全力で突き立て、爪で抉る。
グチャァァァ!
熱い血が噴き上がり、怪物が苦痛の咆哮を上げて巨体をのけぞらせた。
ぐっ
と力を加えるように鄭傑は体を捻り、抉られている肉を左手で掴んで引き寄せ、まるで内臓でも引き摺り出すようにしている。
そこへ怪物は噛み殺すでもするように顔を近づけたが、鄭はその顔面へ頭突きを叩き込んだ。
何度もだ、その度に、牙や骨などその同士が激突し、火花のような痛みが走る。
至近距離で二者は睨み合い続ける形になる。
ザァァァッ!
刀が怪物の首の側面に叩きつけられた。
この距離では霊長類の持つ手がもっとも器用である。
そう、その器用な両の手は、爪と繋がっている獣のそれとは違う。
いくらでも攻める体勢を作り出すことができるのだ。
しかし、硬い。異様に硬い。
毛皮の下の筋肉が瞬時に固くなり、刃は深く食い込まず、表面を滑るように弾かれた。
わずかな血が滲んだだけで、骨までは届かない。
(押し潰し、おしきる!)
刀が虎妖の頸をさらに裂いていく瞬間、山が吠えた。
否、吠えたのは虎の怪物、この妖というべきか存在である。
だがその咆哮はただの獣声ではなかった。
森を震わせ、老木の枝葉を裏返し、地を波のように揺らす、獣というよりも災そのものの叫びであり、その余波だけで腐葉土が爆ぜ、砕けた石片が宙へ浮き、夜の湿った空気までも押し流されていく中とする。
そいつはなおも誇らしげに自分の地位でも見せつけるように首を上がて吠えようとする。
虎妖は裂けた頸から黒混じりの血を噴き上げながら頭を振り抜き、その勢いのまま首を押しつけて、鄭に。
見えなかった。
鄭の視線はどうするべきか、足元など前などなかった。
ただ結果だけがあった。
鄭傑の身体が吹き飛ぶ。
だが腕だけが必死にその刀の持ち手にある。
「ッ...!」
虎は動けない姿勢を変えた、彼が届かない場所に鄭がいるならば無理にしてそこへいく、つまり噛み付くなどする必要がないと察して、そのままに巨躯を押し付けた。
だから鄭は両手以外全て叩かれては、折れてしまうほどになった。
もはや最後の命綱のように必死に刀を握っては、押し潰れて行かないことな飛ばされてしまうようにないと、必死だ。
もう彼はこれっきりだと思った。
胸が裂け、背の傷がまた開き、血が空中で霧みたいに散る。
そのまま地面へ叩きつけられ、何度も土を砕いては粉塵が転がり、岩へぶつかり砕片、それでも勢いが死なず、最後は木の根へ激突してようやく止まった頃には、すでに地中奥深くへと。
肺の空気はほとんど潰れた蛙みたいな音と一緒に口から漏れ、喉の奥には血の味が広がっていた。
血だけであった、上から垂れる獣血、息が入る余地すらも許さずに獣が体を押し当てるからだ。
だから当然その内側も抉られている。
しかし、獣は気にしない。
獣、虎、怪物のそれは、やつからすればこの刀など、大刀など爪楊枝とさほど変わりはしないからだった。
しかし鄭にかればそれも変わる、そんな経験や考えなどこの獣にはなかった。
その瞬間、この獣は本能で理解したのである。
こいつは逃げぬ、と。
こいつは死んでも噛みついてくる、と。
「ガァァァァァァァァッ!!」
虎妖が突進するように体を押し当てる。
地面が沈む。
巨躯が黒煙を引きずりながら迫り、木々をへし折り、岩を跳ね飛ばし、その質量そのものが山崩れみたいに押し寄せてくる中、鄭傑は折れない。
後ろに下がるも、へたれこむ、けども折れて離れるなんてしない。
むしろ前へ出た。
その頭を突き出していく
血を吐きながら口が裂けるほど吼え、泥を巻き上げられても地面すれすれに突き進むことがあっても、その裂けた肉から熱い血が爆発みたいに噴き上がるとしても、そんなのが全て顔面へ叩きつけられ、視界を真っ赤に染めたとしても、かまわないままだった。
浅い。
そうしか彼は思っていなかったz
刃が通らない。
筋肉が硬すぎる。
まるで濡れた布...否、竹箸を重ねた、否。
矢を重ねた逸話の上をもいく。
鉄塊の束を無理やり斬っているみたいだった。
肉そのものが生きて締まり、筋肉が刃へ絡みつき、押し返し、刀を止める。
熱い。
ぬるりとしている。
筋肉が生き物みたいに蠢いていた。
(あ...生き物)
くるもの全てへ絡みつき、潰そうと締まり、骨を軋ませるその肉の束を、鄭傑は無理やりこじ開ける。
いや顔を埋め込むと言うべきか。
ゴギャッ!!という嫌な感触と共に、鄭の骨まで肉が当たった。
止まる。
押しても進まぬ。
虎妖が絶叫した。同時に頸の筋肉が爆発みたいに収縮し、刀ごと鄭傑の腕を締め上げ、そのまま巨体が暴れた。
振り回される。
木へ叩きつけられる。
岩へ擦り潰される。
肩の骨が軋み、肋が鳴り、視界が白く弾け、それでも鄭傑は刀を離さなかった。
いや、もう離せなかった。牛尾刀そのものが肉へ噛み込まれている。
虎妖が暴れるたび、逆に鄭傑の身体は頸の奥へ押し込まれていき、肩まで埋まり、顔へ熱い肉壁が押し寄せ、血と脂が鼻と口を塞ぎ、呼吸すらまともにできぬまま、それでも彼は歯を剥いた。
グチ、ブチ。ぐっちゃ
その瞬間、鄭傑は噛みついた。
虎妖の頸肉へ。その中へと。
獣みたいに、捕食をした。
ブチ、と筋が裂け、熱い血が口の中へ流れ込む。鉄臭い。腐肉みたいな臭い、焼けた臓物の臭い。
(生ものでしかも野良ならこうか)
普通なら吐く。だが鄭傑は飲んだ。
咳き込みながら飲み、反吐や吐瀉物混じりのそれを食べては喉へ流し込み、その瞬間、腹の底で何かが燃え上がる。
熱だった。
内臓が煮えるみたいな熱。
だがそれで力が湧く。
折れかけていた腕がまた動く。
潰れかけていた指が刀を握り潰す。
「グ、オオオオオオオオオオッ!!」
叫びながら、さらに押し込む。
首を落とす。
食ってやる、食って殺してやる
ただそれだけを考えていた。
だが届かない。
骨まで行かぬ。
筋肉が邪魔をする。
牛尾刀は本来、人を斬る刀である。
こんな山みたいな怪物の頸を断つための得物ではない。長さが足りぬ。
刀では山は壊せない
深さが足りぬ。何度押し込んでも、ガギィッ!!と嫌な音を立てて骨へ弾かれ、その度に腕へ衝撃が返り、虎妖は狂ったように暴れ、背中を地面へ叩きつけ、鄭傑ごと潰そうとする。
半身が怪物の肉へ埋まり、血と肉で絡み合っていた。
ならば体ごと押し込む!
そう覚悟すると。
刃が軋む。
骨へ擦れる。
だが、その繰り返しの中で、鄭傑の眼が変わった。
見えたのである。
筋肉の締まり。
骨の逃げ、力が流れる場所。どこを断てば首が落ちるか。
落ちる、いいや落とす。
刀が切れないと言うならば、崩しては壊すのみ。
杭でもなんで打つように、山を開こうか。
ただ滅茶苦茶に押し込んでいた動きが、その瞬間、一つの“線”へ変わる。
虎妖の筋肉が収縮する、その直後。力が切り替わる一瞬の空白へ、刃を滑り込ませる。
グギャッ!!
骨が鳴った。
虎妖が絶叫する。
森が震える。
お前は未だに、地位を見せびらかすか。
それが効くならばいい。
だがもう遅い。
吼えた。
右腕の筋肉が膨れ上がり、血管が浮き、相変わらずに何かがわからないももが牛尾刀へ流れ込み、そのまま彼は斬るのではなく、こじ開けるように、首そのものを引き裂くように全身で刀を振り抜き――。
衝撃。
振り抜かれた瞬間、空気そのものが悲鳴を上げて裂けた。
それは衝撃の正体、弧を描き、波のように広がる。
衝撃波は綺麗な円を描いて四方へと放射され、地面を爆発したかのようにめくれ上げる。
土砂と枯葉が竜巻となって巻き上がり、周囲の巨木が少し遅れて一斉にへし折れた。
幹は砕け、枝は弾け飛び、千切れた葉と血飛沫が混じり合う赤黒い暴風が、夜空へと吹き上がっていく。
刀身は怪物の首の側面に深く食い込み、硬い毛皮を裂いて、分厚い筋肉層を容赦なく割り開いていた。
普段は鋼鉄のごとき硬度を誇る血と肉も、極限まで練り上げられたこの衝撃には抗えない。
当然怪物は苦しそうに目を見開く。
しかしそれ以上は何もなかった。
ただ、最大級の打撃に身をよじらせ、防御を完全に崩された肉の割れ目へと、刃が滑り込んでいくだけだった。
骨が砕かれる鈍い響きが、肉を引き裂く湿った感触とともに周囲へ伝播する。
刃は首の半ばで一度その勢いを止めかけたが、鄭傑がさらに全体重を乗せて鋭く身体を回転させると、一気に奥深くまで沈み込んだ。
頸椎を粉砕し、太い動脈を断ち切り、気管を切り裂いた刀は、そのまま胸元近くまでを斜めに深く切り下ろした。
熱い血が、せきを切ったように噴き上がった。
血液が作り出す真紅の奔流は噴水と化し、鄭傑の顔や胸、両腕を容赦なく濡らしていく。
生々しい鉄臭さと獣の放つ悪臭が鼻腔を焼き、視界が赤く染まる。
「ガ...」
怪物の金色の瞳が大きく見開かれ、そこへ驚愕と苦痛がまたたいた。
咆哮は形を成す前に潰え、喉の奥から漏れる、空気が抜けるような断末魔の音だけが響く。
次の瞬間、巨大な虎の首がゆっくりと地に落ちる。
首は胴体から完全に離れ、血の尾を引きながら弧を描いてへばりつくようにと。
月光を浴びて、橙と黒の縞模様が一瞬だけ美しく輝いたが、それも束の間、トントンと地面へと叩きつけられては、その動きも止まり最後には湿ったヌチャヌチャした音が続くだけで、周囲に血の池が一気に広がっていく。
音の方が気になって見ればそれは、無残に裂けた切り口からは白い骨片と赤い肉片が覗き、首の方と言うと数回痙攣した後に、完全な静止を迎えた。
中には当然鄭傑がちらちらとあたりを見ている。
鄭が入っている残された胴体はまだ直立したまま、首を失った断面から血を噴き出し、数歩よろめいた。
先ほど鄭傑を潰そうとした力のあまりのようだった。
尾が無意味に地面を叩き、前足が虚空を掻く。
傷口から黒い蒸気が弱々しく立ち上り、やがてその巨体が横倒しに崩れ落ち、地響きが辺りを揺らし、へし折れた木々の残骸がさらに重なる。
鄭傑はなんとか体を捩り出てきて立つべくしようと刀を地面に突き立てるも、たまらず膝をついた。
やがては倒れて全身が血の海に浸かり、起伏も減る
(や...やばい窒息....)
森に、再び冷徹な静寂が訪れる。
月光が血に染まった地面と、静止した二つの影を静かに照らし出していた。
恐怖の嵐ほどに暴れた怪物どもの音が消えては虫の音まで聞こえるようになり、正常になった。
今は、王大虎が倒れた木の根元からは、まだ微かな息遣いが聞こえているようになった。
「は………はっ!はぁ、はーいき、いきー!いきはあ!生きてるぅ〜!」
異形の虎人間は、死んでおらず顔を上げ、夜空を見上げた。
戦いは、ついに終わった。
「うぉお!すごいすごい」
「あっ、ところでにぃ....」
バタ
「おい、あ...」
バタ
「醗魄開竅」
「陳香返命」
「夢肉初熟──」
「醒」
御意...餮胤...鄭傑、民にすら知られている。故に死すべし、仰せのままに。
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「って...今何んか声が...」
「店...家...」
この声、王大虎か。
「その声は王大虎ではないか。」
さほど馴染みではないが、今回はこの男に助けられたものだ。
「如何にも....」
血を垂れ流しながらに十数メートル離れた木の根元へ足を運んだ。
王大虎が倒れている場所だ。
(うわ...)
王大虎は木の幹に背中を預けるようにぐったりとへたり込んでいた。
胸が大きく裂け、肋骨のあたりから大量の血が止まらず流れ続けている。
髭面は土と血で真っ黒に汚れ、唇の端から泡立った血が零れ落ちていた。
息は浅く、弱く、すでに死にかけているのが一目でわかった。
ちぎって自身の着物の残り布を慌てて裂いて王大虎の胸に押し当てた。
「あ、しっかりしろ!出血が酷い……手当するぞ、動くな!」
必死に傷口を押さえ、血を止めようと指に力を込めた。
潰れるんじゃないかと心配もしたが、それでも必死に力を加えないと、死んじゃいそうだ。
自分の傷口の激痛など忘れ、ただ目の前の男を死なせたくなかった。
恩義があった。
友のいない俺にとってこんなことをしてくれるやつは葉の野郎以外いない。
そうしてると、急に血まみれの手がきて腕を押し返そうと、意外な力強さで、必死に体を起こそうとする。
「……やめろ、店家……もう、無駄だ。」
声は掠れ、息も絶え絶えだった。
それでもこいつ、王大虎は木の幹に手をつき、上半身を無理やり起こした。
折れた肋骨が軋む激痛に顔が歪んでのか、額から冷や汗が大量に流れ落ちる。
「お、お前。」
「店家……最後に、聞いてくれ。俺の……話を。」
「話だって、あと」
「……俺は、父親を知らん。生まれる前に死んだとばかり思っていた。だが、幼い頃……老娘が教えてくれた。爹は、九幽から来た男だったと。九幽……あの地から、俺の...俺母のところへやって来たらしい。俺がまだ小さかった頃、夜に老娘がそっと話してくれたんだ。」
まずい、まずいな、顔が血色よくというか、この喋りの多さも、死ぬ寸前に起こるって*3.回光返照だ。
鄭傑は黙って聞きながら、傷口を押さえる手を緩めなかった。王大虎は血を吐きながらも、続ける。
「老娘は……」
王大虎の声が震え、血で汚れた髭の間から目尻に涙が滲み出した。一筋、また一筋と頰を伝い、胸の血と混じり合う。
よくわからないが見た目が荒々しい武人が、こんなに弱々しく感情を露わにする姿は痛ましかった。
鄭傑は低く言った。
「……無理に話さなくていい。傷を……」
言えない、生きられるなんて。
「いや……今しか、ない。」
王大虎は鄭傑の手を再び押し返し、必死に言葉を続けた。
「わかった頼みを聞くよ。」
「あ...ありがとう....老娘に……本当に申し訳ない。家を出てから、追い求めてばかりで……母を探しに戻ることも、顔を見せることもできなかった。九幽探しなんか勝手に出たんだ!……俺は結局、何も成せなかった。店家……」
目からその涙が湧き出ている、王大虎が肩を震わせてる。
息が乱れ、胸の傷から血が激しく溢れ出す。
もうどうしようもない、せめてやりたいことだけを
「九幽……その地に、あんたの父親がいるのか?」
王大虎は頷き、苦痛に顔を歪めながら最後の力を振り絞ったような顔だ。
「……ああ...わかんねぇ、わかん...んねぇうお店家……もし、強いから...いつか、仙長だとしたら...老娘に、俺のことを……伝えてくれ。……それだけでいい。申し訳ない、親不孝ですまんと……伝えてくれ。それ以上のこと...は」
声が次第に弱くなり、見てもただ目が虚ろに空を見つめ、荒かった息が静かになっていく。
最後に、彼はかすかな微笑みを浮かべたのが見えた。
「……娘.....」
その言葉を最後に、王大虎の胸の動きが完全に止まった。
体が木の幹に倒れ込み、月光の下で静かに横たわる。髭面に残る涙の跡が、冷たい光に輝いていた。
短い出会いだったが、命を分け合った戦いの後、王大虎の後悔と想いは重く響いた。
九幽という地名、老娘への想い、幼い頃の記憶、これっきり以上のなんて言うんじゃない。
「やってやるよ、くそ。サイドクエストクリアしてやるよ、あんた。」
墓を作った。
穴を掘って牛尾刀を亡骸の上に刺した。
「王大虎。九幽へ、必ず行く。あんたが頼んでないからとか関係ない。」
独り言のように呟く、なんか、魂がいるといいな。
「寒い...」
夜風が冷たく吹き、血の臭いを運んでいく。
「おい、あんた」
くそ、やはり声はいたか。別人で。王大虎以外にも!
※1. 宇宙大将軍とは実在していた称号であり、当時でも宇宙は時間と空間を指し示す訳で、詰まるところ古今東西天下一の大将軍という意味になる。
※2.気拍とは長く四角の木でできたものであり、叩いて注意を引く作用を担当するものである。
*3.回光返照とは死ぬ寸前に一時だけ元気を取り戻すことを指す意味がある。




