第十一話 三号に仮面を
人混みが一瞬で荒れ狂った。鄭傑がギャングの男の頰を舌で抉った直後、血の臭いが地下街に広がり、最初の一声が上がった。
「怪物がぁ!」
鄭はにやりとして一つ思い作く。
怪物か、当然だな。自分の虎じみた異形の姿と、血まみれの舌を見れば当然だと思った。
「うへへ、こりゃあ料理技術を学ぶのもしばらく時間はかっかりそ」
しかし、この力で悪人を食らい、街を自分のものに——そう考えていた。
(少しは天の高さも知らずして地の厚さも知らずか。)
ピザを食っていたデスクでの日常など、すでに遠い記憶。自分こそが引き起こせる、今も次も、どこまでもパニックを、恐怖をもたらす存在になれるのだと、最初は確信していた。最初からだ。
「逃げろ! 化け物がいる!」
悲鳴が連鎖し、人波が逆流する。
(おかしい....)
どうやら彼が目指す恐怖の大王への道は最後までは至らない。少なくとも今回は。
ゆっくりとその首を回し、彼は周囲を睥睨した。
同時に満足げな笑みが浮かんでいる顔だった、きっと「自分の影響でここまで荒れるとは、なかなか面白いではないか——。」とでも考えているだろう。
しかし、すぐに違和感を覚えた。
誰かが倒れている。
「あっが、う」
倒れているその存在は、トラック運転手か、服装は帽子があったり青いズボンからして典型敵だった。、その男が、痙攣をしていた。そんな中当然大衆はそれ避けるようにして逃げ、そこへ鄭は恐れもせずに近づく。
「なぜ逃げ、なんだこいつは」
目が白く濁り、口から泡を吹きながらによろよろと立ち上がる。そしてどうも様子はおかしかった
(首筋に飛び散った血、ひょろひょろな動き...こいつゾンビか!?)
「ぎゃああああ」
男は隣の女にがぶりと噛みついた。
「……ん?」
鄭は一瞬、目を細めた。これは自分の血による感染か? はたまた操作できるのか...?彼には死人を蘇らせては動かす力がある、ならばそう思う事だ。
いや、違う。さっき抉った男の血が飛び散っただけだし、自分はこいつを噛んでいない、そうだ。そう彼は思う。
しかも、鄭自身が手を当てても直接操れるわけではない。別の何かが起きている。
(……俺の影響じゃない?なら任務とかの...鬼の住む街ッか...あれは確かゾンビホラー系の....)
「ぎゃああああ」
悲鳴が現実を見せつけてくる。
パニックは急速に拡大していた。血を浴びた者、噛みつかれた者たちが次々と白目を剥き、ゾンビのように立ち上がる。
人々が逃げ惑い、転倒し、踏みつけられる。ハイヒールが折れたり鞄が散乱し、子供の泣き声が響く中、遠くでガラスが割れる音と銃声らしきものが聞こえた。
「はぁああわ!」
鄭傑は一瞬、飛び込もうとした。虎の爪でゾンビを薙ぎ払い、拡散すら止める——そんな考えが脳裏をよぎった。自分の力なら簡単に鎮圧できるはずだ、数が、ゾンビの人海が出来上がる前に。
しかし、飛びかかってきたゾンビの口から滴る血と腐った臭いを見た瞬間、反射的に後ずさった。
(感染しねぇよな、いやここで足を引いたな……馬鹿か俺は。)
自分の虎の力で耐えられる保証などない。夢か現実かもまだ判然としないこの地では....体で、未知の感染症に冒されたら終わりだ。
「ふぅ」
(それよりも思ったよる数が多い、目立った外傷こそないが、体の節々が痛む...よし逃げよう。)
彼は逃亡を考え出す、そうして足は後ろへ後ろへと、後退りする。
(そうだ、そうだよな、俺は、別に世界を支配することが...俺は逃げたってわけじゃない。)
逃げる、そのことを考えて鄭は少し不快になった、逃げるとは自分の自由な意思を貫けないこと。今更ではあるが。
思うがままにできない、ならば力を持つ意味とは一体なんだろうと、彼は内心で少し感じていた。不快にも。
(逃げるか。そうだな、悪党みたいに低く笑って...いや低く笑うってなんだろ)
「へ、へへ」
しかし、彼は生への渇望があった。少し前にみたピザの温かい満腹感、この尋常でない力、また見るのだ、失うわけにはいかない。この全てを。
そうだ、ピザか。俺は料理人だ、料理を再現したり、なんなら異世界に現代のいろんな料理とか持ち込んで無双できるはずだ、アイデアで勝負は簡単になる。
そう決意した。
(だったら...だったら逃げる..いや観察よ。)
壁際に身を寄せ、鄭はただ観察するしかなかった。最初は自分のせいだと思っていた人混みの荒れが、ゾンビらしき存在だった。幸いギャングの男はすでに完全に傀儡化し、こちら側、鄭が操れるようになっていた。
(ふぅ、来い)そう考えては傀儡の男を共にした。
逃げる、端側を伝って、傀儡を共しては、道をゆく、しかし行先そこで他の通行人に襲いかかっている。
そこから感染は連鎖し、辺りは一瞬にして地獄絵図と化した。血飛沫、肉の裂ける音、逃げ惑う音が響く
(ゾンビ…原作だと..なんだっけ)
致し方なく自分の舌を軽く噛んだ。変わらない血の味がした。
(夢じゃないのか....)
虎の...と言うべき力と“感染”の力はあるが、遠距離が好ましいと思う。自分が感染したら、すべてが無意味になる。だから銃を探せばいいんだ。
(そうか、現代社会だもん、警察のとこでもなんでも、銃の店だって。)
そう思い鄭は行き先を探そうと決めた。
そう決めていくと、無償にあたりを見たくなる、行き先を探すためなのだろうか。
高層ビル群が夕陽に染まっていた。
太陽はいつも綺麗に見える。
夕陽は沈みかけていた。
俺は立ち止まっていた。
(時刻...ゾンビは日光で活性化するはずだった、神秘学を現代技術で研究した結果の産物だからな。)
染まるだけじゃばい、無数の高層ビルの窓ガラスが夕焼けを反射して、街全体が赤くしている。こんな状況じゃなければ、スマホを取り出して写真でも撮っていたかもしれない。
スマホなんてないけど。
(もっともこの光景を撮ったところでどうなるやら、神秘的だが、少なくとも一作目じゃ、役立たずか。)
けれど、足元には散乱した買い物袋。横転したバイク。鳴りっぱなしのクラクション。
そして、少し前まで人間だったもの。
「騒がしいな……」
街路樹の陰から、スーツ姿の男がふらふらと出てくるし、ゾンビかと思ってたけど。顔半分が夕陽に照らされているせいか、一瞬だけ普通の通行人に見えてしまう。それがなんとなく辛い、なぜだろうか、先ほどまでには、なんともなかった。
首の肉が裂けている。
目だって白く濁り、黒目が見えないし、顎からは乾きかけた血がこびりついていた。
そんなものが、いる。
本当に。
頭では理解している。
さっきだって、目の前で噛まれた人間が起き上がるのを見た。死んだはずのやつらが、倒れた人に噛みつくのも見た。なのに、現実感がなかったものが、今、苦しく思う。
(非現実こそが俺の楽しみだった。)
映画とか、ゲームとか、そういうものが頭の中で邪魔をしてくる。こんなの俺が望んだ現実じゃない。現実であるわけがない。
なのに、汗の気持ち悪さも、鼻につく鉄臭い匂いも、全部やけに俺が欲しかった現実だった。
そんな時。
ガシャン、と近くでガラスの割れる音がした。
肩を震わせて振り向く。
コンビニの自動ドアに、女がぶつかっていた。
若い女だった。
いや、若かったんだと思う。
制服姿のまま、血だらけの顔をガラスに押しつけながら、壊れたねじ巻き人形みたいに何度も何度も体当たりをしている。
夕陽が、その顔をやけに綺麗に、鮮明に照らしていた。
感性か、鄭の怒りや血への渇きといったような感情は薄れてきたのだ。
「死も俺を止められん」
一言決め台詞をおいて走り出す。
なぜここまでと言うと
(やはり感覚が上がっている、感知能力が、だから全てがより綺麗で鮮明だ。しかし、しかしだ。俺にしばらくはあった残虐さが消え始めた。)
あおこで歩くが街はすっかり変容していた、いつもの活気とは違う都市特有の騒音は消えてなくなって、その代わりに妙な静けさがそこにはあった。
沈黙。静寂、少し前まであった凶暴性が引いたせいか、冷静に考えられるようになった。
今やこの街は沈黙していた。いや、厳密には人ならの声はないが食う声とか音とかで満たされている。
ならばと、鄭は思った。結果は一つ、パンデミックは広がっていて、おそらくは、一日もしないうちにここらへんの街は封鎖されて、三日後には爆撃される。映画の話からしてはだった。
そう思い、現代の軍事力、つまり映画にあった、元凶のところで持っているあの小隊らが早めに来るかを気にしながらのさらに路地裏の陰に身を潜めた。
そこは駐車場の看板があった。
鄭の狙いは。
「ふぅ、車か」
車だった、そうして彼は間もなく移動の手を手に入れるべく考えては少し冷え切ったような空気を吸い込んだ。(冷えた空気..?)
鄭はここで少しおかしく思った、映画はもっと熱い季節のはずだった。
(なぜ...俺のいたあの古代みたいな場所が寒いせいだからか...?)
しかし嗅いでも鼻腔を突くのは、生ゴミと、それ以上に濃密な血の鉄錆の匂いだけだ。彼の今の嗅覚は嘘をつかないはず。
(なぜなんだ...?)
今度は視線を配らせる。しっかり疑問を解くために。
暫く歩いてきた目の前の大通りでは、制服姿の警官が一人、背中を食い破られながら絶命していた。倒れた拍子に滑り落ちた拳銃が、アスファルトの上で辺りに誰もいない。
「拳銃...か」
銃を拾い上げ、スライドを引き、獣のような怒声あげて起きあがろうとした警察官の頭をぐしょんぐしょんに踏み潰して。彼にあった弾を拾った。
ガチャと拾い上げた弾を薬室に送り込む。
路地を抜けると、街の惨状がさらなる変容を現した。
炎上する車両、窓が割られ、棚の中身が掻き出されたコンビニ。あちこちで、かつて人間だったものが、肉を千切るために地面を這い回っている。
脳裏に、かつてどこかで見た映画の断片が浮かんだ。
深夜、空腹に耐えかねて観た低予算のパニック映画。平凡な男が崩壊していく都市で生き残るために銃を手に取る、ありふれた構図。物語の終盤、男は仲間を殺し、愛する人を殺し....
(役立たずだなこのストーリー)
画面越しに嘲笑した物語が、今、現実として足元に転がっている。映画がなんの参考にもならない。
そして、続編で世界観が展開されて、一気に筋肉モリモリのマッチョが戦うシリーズもの化してしまう。
(見てねぇ...)
遠くでヘリのローター音が響き、サーチライトが街を冷酷に掃射している。かつて見た続編のあらすじからして、おそらくは地下施設から逃げ出した“実験体”を狩るために、軍が封鎖を開始したのだろう。
鄭はバレないために駐車場へ飛び乗り、高みから街を見下ろした。
無数の黒い影が、ゾンビは飛び交うヘリの音に引き寄せられて蠢いている。
彼は拳銃を収め、代わりに爪を立てた。
交差点に、エンジンのかかったままの車が一台。運転席の男はすでに事切れているが、その足がアクセルを押し続けているのか、タイヤがアスファルトを空転させて焦げた匂いを撒き散らしていた。
鄭は飛び立つように走り出して、運転席の扉を爪で引き裂き開く。
中のスタートには鍵が刺さったまま。運転席に中年男が座り、すでにゾンビ化している。白目を剥き、泡を吹きながら鄭を掴もうとしている。
「邪魔だ」
鄭は腕を振るのに邪魔なドアを引き開ちぎり、もう片手で男の頭を掴んだ。
スポンジケーキよりも簡単に骨を砕き、脳漿が飛び散る。腐った臭いが広がるが、気にもせず持ち上げ、駐車場へ放り投げた。そのまま腐敗臭を無視して遺体を投げ捨て、なんとかして巨躯を運転席に収め、ギアを入れ、車を躍らせた。
加速する車体が、群れをなす死体を次々と弾き飛ばす、バックミラーに映る光景は、どこまでも続く地獄絵図だ。
そんな中鄭は淡々とアクセルを踏み続けた、少し不安を抱えて。
「ヘリ、攻撃されることはないだろうか。」
夜が深くなる。
崩壊した都市の闇の中で、鄭傑はエンジン音を街に響かせながら、進んだ。
(つかメインクエストはなんだろうか、ヒントくらいくれよ。)
「いや、まさか」
映画の主人公も車を奪って逃げた、やがて燃料が尽き、徒歩になり、やがて地下施設の連中が街を焼き払おうとする中、わずかな生存者らで最後の抵抗をした...
(まさか助け...いや地下施設、思いついた。)
顔に笑みが、止めどない笑いを顔に出しては、鄭は思った。
こんな化け物の姿になったならば、あの研究施設から何かいいものを、自分を強化できるものが手に入るかもしれんと、そう思っていた。
「お前もそう思うだろう...ええと...三号」
にしてもこいつの格好は、と鄭は思った。
三号、つまり鄭が支配したギャングの姿は死んだような青白い肌をしていた。(いや死んではいるけど)
頰は深く抉れ、眼窩は黒く落ち窪み、濁った灰色の瞳が虚ろに宙を泳いでいる。唇は紫がかかり乾いてひび割れ、短く刈り上げられた髪は乱れ、全体に陰湿で陰鬱な雰囲気をまとっている。
(コーデでもするべきか。)
バックミラーを通してみると服装は普通で普通のギャングらしいものだった。袖をまくった黒革のジャケット。足元は擦り切れた黒のハイトップスニーカー。ありふれた街のギャングスタイルだ。
顔がえぐれているのを見て以外は、体格は痩せていない。むしろ肩幅があり、服の下にしっかりとした肉付きを感じさせる。
「俺の代わりに、行かせられるか。」
鄭は思った、ゾンビよりも怪物に見える自分よりもこいつの方が、彼が持つ傀儡の方がまだ人間らしいと。
(仮面で顔隠せばいけるか。)
三号に仮面を。




