(8)真意
モニカは机の上へ投影された波形データを確認しながら、DEX対象者の精神安定率を入力していた。今日も数値は基準を下回っており、薄暗い研究室には端末の青白い光と、冷却装置の低い駆動音だけが絶え間なく流れている。
少し離れた席では、白嶺が一つの中枢化映像を長いこと開いたままにしていた。
映っているのは老人夫婦の食卓だった。二人で味噌汁を飲み、ときどき何かを話して笑うだけの映像を、白嶺は閉じようとしない。
「先生」
「……あぁ、そう言えば私は先生と呼ばれているのでしたね」
「先生って、どこの大学を出てるんですか?」
「出ていませんよ」
入力を続けていたモニカの指が止まった。
「中退?」
「いえ。大学へ行っていません」
「じゃあ最終学歴は?」
そこでようやく白嶺は老人夫婦の映像から顔を上げた。
「学歴……京都市立御所南小学校二年生です。そこが最後ですね」
数秒、研究室には冷却装置の音だけが続いた。
「……はあ?」
「何か?」
「いや、何かじゃないですよ。小二って……そこから独学で記憶保持中枢化を作ったんですか?」
「独学と呼ぶんでしょうかねぇ。気づいた頃には、皆さんが私のところへ聞きに来るようになっていましたから」
「それを普通は成り行きって言わないんですよ……」
モニカは額へ手を当てたあと、今度は椅子ごと白嶺の方へ向き直った。
「そもそも、どうやって始めたんです?」
「最初は脳波の残響を見ていただけですよ」
「残響?」
白嶺が古い記録を呼び出すと、空中へ複数の脳波ログが展開された。怒鳴る男、泣いている女、笑っている老人。それぞれの映像の横を波形が走り、強い感情が発生した直後だけ、ごく僅かな揺れが尾を引いて残っている。
「強い感情が発生すると、脳波には少し遅れて反応が残ります。問題は、これが死亡判定後にも観測されたことです」
「死亡判定後?」
「ええ。最初は医療事故として処理されました。死亡判定を受けた患者の映像が、一瞬だけモニターへ出力されたんです。当時はノイズと判断されましたが」
白嶺が記録を拡大すると、激しく乱れた映像の中へ顔らしき輪郭が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
「これです」
モニカは椅子を寄せ、画面を覗き込んだ。
「……これを見て研究を始めたんですか?」
「研究というより、同じ現象が起きる条件を探していただけですよ。死亡判定後の脳波を集めて、出力方法を変えて、また観測する。それを繰り返しました」
「一人で?」
「最初は」
「論文とかは?」
「書いていません」
「なんで!?」
「映像化できれば、論文は必要ないでしょう? 見せれば済みますから」
白嶺はそう答えると、再び老人夫婦の映像へ視線を戻した。
「いや……普通はその前に論文を書くんですよ」
「そうなのですか?」
「なんで私が先生に研究者の常識を教えてるんですか……」
モニカが椅子の背もたれへ身体を預ける一方で、白嶺は古い記録をさらに遡った。
「当時は、脳が活動を停止すれば全て終わるという前提で研究されていました。しかし実際には、完全停止の境界はそれほど綺麗ではありません」
死亡判定の時刻を示す線より先にも、ごく微弱な波形が残っている。
「その残り方に規則性があるなら拾えるかもしれない。拾えるなら増幅できるかもしれない。そして増幅できるなら――」
白嶺が指を動かすと、乱れていた波形が徐々に映像へ変換され、人の顔が浮かび上がった。
「こうなります」
モニカは画面と白嶺を交互に見た。
「……それ、小学生が思いついたんですか?」
「小学生だったかどうかは、あまり関係ないと思いますよ」
「ありますよ」
「そうですかねぇ」
白嶺は再び老人夫婦の映像を開いた。食卓では老人が味噌汁の椀を妻の方へ少し持ち上げ、何かを言っている。妻が笑うと、老人もつられるように口元を緩めた。
「人間って、意外としぶといんですよ。脳は、死んでも急には諦めませんから」
その時、研究室の端末が短い警告音を鳴らした。
【DNR-600552】
【氏名 小谷野朋子】
【六十歳・女性】
【契約成立――至急対応せよ】
モニカが通知を開き、長く息を吐いた。
「……仕事です」
「六十歳ですか」
白嶺が通知へ視線を移すと、それまで開かれていた老人夫婦の映像が閉じられ、代わりに小谷野朋子のデータが中央へ展開された。
「また珍しいケースですねぇ」
◇
小谷野朋子は、申請書の最後に自分の名前を書いた。
署名欄の下には、夫の名義だった資産を含む移譲財産の一覧が並び、総額は十億円。朋子は最後まで目を通してから、静かにペンを置いた。
「お母さん」
向かいに座っていた長男の声が震える。隣では娘が俯いたまま、何度も目元を拭っていた。
「本当にやるの? 三ヶ月なんだよ。たった三ヶ月しかないんだぞ」
「うん」
「お父さんだって、そんなこと望まないよ」
「そうかもしれないね」
「じゃあ――」
「でもね」
朋子は机の端に置かれた古い写真へ手を伸ばした。若い頃の健太郎が、少し照れたような顔でこちらを向いている。
「お父さん、鮭が好きだったの」
二人とも言葉を返さなかった。
「焼きすぎると、すぐ分かるのよ。今日は少し塩が強いねとか、皮が一番美味しいんだとか、毎回同じことを言うの」
「……そんなことのために十億使うのかよ」
朋子は写真から指を離し、二人へゆっくり頭を下げた。
「ごめんね」
◇
中枢化後、朋子が選んだのは古い木造の平屋だった。
畳の部屋に小さな台所、庭には物干し竿が一本立ち、二枚のシャツが風に揺れている。台所では味噌汁の鍋から湯気が立ち、焼き網の上で鮭の皮がぱちぱちと音を立てていた。
「朋子」
居間から健太郎の声がする。
「焦げてない?」
「今見てます」
朋子が箸で鮭を返している間、居間では健太郎が端末でニュースを眺めていた。
再現された健太郎は完全ではない。顔の輪郭には僅かな揺らぎがあり、右手を動かす時には時折不自然な間が生じる。生前記録の不足部分を補完した痕跡だった。
「できましたよ」
朋子が食卓へ運んできたのは、白米と味噌汁と焼き鮭だった。
健太郎は箸を持つと鮭の皮を少し剥がし、口へ運ぶ。
「朋子、今日の鮭は美味しいね」
「そうですね。ご飯に合いますね」
「皮がいい」
「あなた、いつもそれですね」
二人で笑ったあとは、しばらく箸と食器の触れ合う音だけになった。テレビでは古い旅番組が流れ、味噌汁の湯気が食卓の上をゆっくり昇っていく。
◇
観測室の中央モニターにも、同じ食卓が映っていた。
食事を終えた朋子が台所で茶碗を洗い、その背中へ健太郎が声を掛ける。
『明日は何食べようか』
『冷蔵庫に大根がありますよ』
『じゃあ、ぶり大根かな』
『鮭ばかりじゃないんですね』
『たまにはね』
朋子の笑い声が流れる間も、白嶺は何も言わず画面を見続けていた。
「先生?」
モニカが横から顔を覗いても返事はなく、画面の隅では朋子自身が表示を希望した残存時間だけが一秒ずつ減っている。
【残存期間 89日 11時間 42分】
期限付き契約者でも、この表示を自ら選ぶ者は少ない。朋子は契約時に希望しており、残された時間は既に三ヶ月を切っていた。
それでも画面の中の二人は、明日の夕飯について話している。
「……どうして、足りているんでしょう」
「え?」
「三ヶ月しかないのに」
白嶺は画面から目を離さなかった。
◇
別の日、健太郎は朋子の太腿へ頬を乗せ、目を閉じていた。
「……眠い」
「さっきまで元気だったでしょう」
「元気使った」
朋子が笑う。
「……また笑った」
「笑ってませんよ」
「いや、笑ってる」
健太郎は起き上がると、耳を赤くしながら朋子へ抱きついた。腕の回し方もどこかぎこちなく、朋子が再び笑うと、今度は顔まで赤くなる。
「ほら、やっぱり笑ってる」
「だって、あなた全然変わらないんですもの」
「何が?」
「そういうところですよ」
朋子は健太郎の頭へ手を置き、髪をゆっくり撫でた。
観測室には二人の生体反応が表示されている。
【性的快楽到達率 低】
【オルガズム反応 未達】
【心理的充足指数 98.4%】
「……未達なのに、九十八・四?」
モニカが数値と映像を交互に見たが、白嶺は答えなかった。
画面では、健太郎が朋子へ抱きついたまま目を閉じている。
『朋子』
『はい?』
『腹減った』
『さっき動いたからですか』
『うん……』
朋子が声を上げて笑うと、同時に観測数値が変化した。
【心理的充足指数 98.7%】
白嶺の身体が僅かに前へ傾く。
「……どうして」
数値を確認したあと、もう一度画面へ視線を戻す。
朋子は健太郎の額へ口づけ、そのまま髪を撫で続けている。
「どうして、満たされているんでしょう」
画面の隅では、残存時間だけが変わらず一秒ずつ減り続けていた。
今回の話は、「幸せって何?」を心理学で遊んでみました
実はこれ、愛着理論、オキシトシン、ヘドニック・アダプテーション(快楽順応)、自己決定理論、社会的比較理論なんかをごちゃ混ぜにしています。
人って、高級車や10億円を手に入れても、その幸せにはすぐ慣れちゃうらしい。
でも、不思議なことに、一緒にご飯を食べたり、くだらない会話をしたり、「おかえり」と言ってくれる相手がいるだけで、脳は「今日も幸せだったなぁ」と感じたりします。
白嶺が一番理解できなかったのもそこ。
「なんで焼き鮭だけで満たされるの?」
研究者からすると、その謎の方がよっぽど面白かったりするんです。




