(9)言霊
朋子の日常は、それからも大きく変わらなかった。
食事を作り、健太郎と同じ時間を過ごし、夜になれば同じ布団へ入る。天国へ移住した者の多くが、現実では手に入らなかった若さや富、権力、理想の肉体、尽きることのない快楽を求める中で、朋子の世界だけは妙に地味だった。
古い平屋も、食後の茶碗も、二人で眠れば少し狭い布団も、生前とほとんど変わっていない。肉体の最適化すら行われておらず、朋子が指定したのは、およそ二十年前の二人の姿だった。まだ若さは残っているものの、健太郎の身体にはすでに年齢相応の衰えが再現されている。
ある夜、二人はいつものように同じ布団へ入っていた。
「……悪いな」
「何が?」
健太郎は耳を赤くしたまま朋子から目を逸らしたが、朋子はシーツを整えると何も言わずその腕の中へ戻った。
「ほんと昔から変わんないね」
「……ごめんな」
「だから、何が?」
朋子の口元が緩む。
その様子を映す観測室では、二人の反応が数値へ変換されていた。
【性的快楽到達率 低】
【オルガズム反応 未達】
【DNR-600552 幸福度97.2%】
「……上がった?」
白嶺は直前のデータを呼び出し、数値を重ねて確認した。
「モニカさん。これで、なぜ幸福度が上がるのですか?」
「別に変ですか?」
「性的快楽はほとんど得られていません」
「それだけが目的じゃないんでしょう」
白嶺がモニカへ顔を向けた。
「では、何が目的なんです?」
「知りませんよ、本人じゃないんですから。ただ、昔と同じ生活がしたかったんじゃないですか?」
「十億円を払って?」
「払えるなら、いいんじゃないですか」
白嶺は再びモニターへ視線を戻した。
画面では、朋子が健太郎の胸元へ頭を寄せ、健太郎もその肩へ腕を回したまま目を閉じている。
【幸福度 97.4%】
「また上がった……」
「先生、そんなに珍しいですか?」
「珍しいですよ。ここでは何でも作れるんです」
白嶺が周囲のモニターを示すと、そこには若返った身体で大勢の異性に囲まれる者、巨大な邸宅で札束をばら撒く者、かつて自分を見下した人間から称賛され続ける者など、それぞれが望んだ天国が映し出されていた。
その中で朋子だけは、黄ばんだ天井の下で、腹も少し出て髪も薄くなり始めた夫と寄り添っている。
「若返ることもできる。健太郎さんの身体を完全な状態にすることもできる。それなのに朋子さんは、二十年前の彼を指定して、不完全な部分まで残している」
「その頃が良かったんじゃないですか?」
「不完全なのに?」
「先生」
「はい」
「人の旦那を不完全、不完全って失礼ですよ」
白嶺はそれ以上言わず、モニターへ向き直った。
画面の隅では、朋子自身が表示を希望した残存時間が一秒ずつ減っている。
【残存期間 81日 03時間 17分】
「でも、終わるんですよ。三ヶ月後には、この世界そのものがなくなる。それを朋子さん自身も知っている」
「ええ」
「それでも幸福なんですか」
モニカは椅子の背もたれへ身体を預けた。
「終わるからじゃないですか?」
「終わるから?」
「永遠だったら、明日のご飯の話なんてしないかもしれないでしょう」
白嶺は返事をせず、画面へ視線を戻した。
『もう寝た?』
『まだ』
『明日、何食べます?』
『ぶり大根』
『昨日も言ってましたね』
『覚えてた?』
『覚えてますよ』
二人が笑うと、また数値が動いた。
【幸福度 97.8%】
白嶺は表示を確認してから、ほとんど動かなくなった二人を見続けていた。健太郎の胸へ朋子が顔を寄せ、その背中へ健太郎の腕が乗っているだけで、特別なことは何も起きていない。
「……モニカさん。この二人は、何をしているんでしょう」
「寝てるんじゃないですか?」
「そういう意味ではありません」
モニカも画面へ顔を向けた。
「たぶんですけど、この人、性愛だけを求めてるんじゃないんですよ」
「では?」
「人生を確認してるんじゃないですか?」
白嶺から返事はなかった。
周囲のモニターでは、その間にも誰かが若返り、富を手に入れ、現実では叶わなかった欲望を満たしている。
【残存期間 81日 03時間 12分】
【幸福度 97.8%】
それでも白嶺は、朋子の画面を閉じなかった。
◇
残された時間は、それからも減り続けた。
最後の日、朋子は健太郎へ抱きついていた。
行為を終えた寝室には古いエアコンの低い音が響き、乱れたシーツの上で健太郎が大きな欠伸をする。腹は少し出て、髪も薄くなっており、先ほども何度か途中で息を整えていたが、朋子が再現した健太郎は最後までこの姿のままだった。
部屋の隅には、朋子にしか見えない数字が浮かんでいる。
【00:08:00】
「健太郎さん」
「んー?」
朋子は胸へ頬をつけ、背中へ腕を回した。
「大好き」
「なんだよ今日。やたら素直だな」
健太郎が照れくさそうに答えると、朋子も口元を緩めた。
タイマーは止まらない。
【00:05:31】
朋子は数字へ目を向けたあと、さらに健太郎へ身体を寄せた。
「健太郎さん」
「ん?」
「愛してる」
「だから、どうしたんだよ今日」
健太郎は変わらず笑っていたが、朋子の呼吸は先ほどより速くなり、背中へ回した腕にも力が入っていく。
部屋も、布団も、明日の夕飯の話も、残された時間とともに消えていく。
◇
観測室では、白嶺とモニカがその映像を見ていた。
【DNR-600552 幸福度99.0%】
朋子は何度も残り時間を確認している。それでも世界を書き換えようとはせず、若返った健太郎を求めることも、豪邸へ移ることもなかった。
古い平屋の寝室で、衰えまで再現した夫へ抱きついている。
【幸福度99.1%】
「……まだ上がる」
白嶺は数値を確認すると、そのまま画面へ視線を戻した。
モニカも何も言わなかった。
◇
【00:01:03】
朋子の肩が震え始めた。
「健太郎さん」
「ん?」
「ありがとう」
「急にどうしたんだよ」
朋子は何度か口を開いたものの、その先の言葉が続かなかった。
「……怖い」
健太郎の表情が変わる。
「怖い?」
朋子は答えず、健太郎の服を強く掴んだ。
しばらくその顔を見ていた健太郎は、やがて朋子の頭へ手を置いた。ぎこちなく髪を撫でながら、少し顔を赤くする。
「……俺も好きだよ」
朋子はそのまま健太郎へ縋りつき、声を抑えながら泣いた。
「ありがとう……大好き」
「おう」
何が起きようとしているのか知らない健太郎は、朋子の背中を撫で続けている。
【00:00:10】
朋子が顔を上げた。
「健太郎さん」
「ん?」
「大好き」
「知ってるよ」
朋子の頬を涙が流れたまま、口元だけが緩んだ。
【00:00:03】
「愛してる」
【00:00:02】
健太郎が朋子を抱き寄せる。
【00:00:01】
「ありがとう――」
そこで映像が停止した。
抱き合った二人の姿だけがモニターに残り、残存時間がゼロへ変わる。
【00:00:00】
◇
観測室では、停止した映像と最終結果が並んでいた。
【最終幸福度 99.3%】
モニカは口元を押さえたまま画面を見ていた。頬を伝った涙が顎から落ちても手を動かさない。
「……最後まで、下がらなかった」
白嶺から返事はなかった。
画面の中では、朋子が泣きながら健太郎へ抱きつき、何も知らない健太郎がその身体を抱き返している。白嶺はしばらくその映像を見続けたあと、モニターを閉じた。
白い光が消え、黒くなった画面に二人の姿も見えなくなる。
白嶺は下ろした手を、そのまま隣にいたモニカの手へ重ねた。
「……先生?」
モニカが顔を向けても、白嶺は答えなかった。
先ほどまで朋子と健太郎が映っていた黒いモニターを見たまま、握った手も離さなかった。
【設定の小ネタ】
実はこの夫婦、心理学的にはかなり強いです(笑)
人って
「若返りたい!」
「お金ほしい!」
「モテたい!」
って思いそうですが、脳は意外と単純じゃありません。
何十年も一緒に暮らした相手と、
「今日の鮭うまいね」
なんて言ってるだけで幸福度が上がることもあるそうです。
これを研究しているのが愛着理論やウェルビーイングなんて心理学。
つまり脳は、 「ドキドキ」より「ただいま」の方が好きな時もある ってことですね。
白嶺は「なんでこんなので幸せなの?」と完全にフリーズ。
でも、たぶん人間って、その「なんでもない毎日」のために何十年も頑張ってる生き物なのかもしれませんね




