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天国白書:2Re:Light  作者: 凛1129
救いを望む人々
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(9)言霊

挿絵(By みてみん)

 朋子の日常は、それからも大きく変わらなかった。


 食事を作り、健太郎と同じ時間を過ごし、夜になれば同じ布団へ入る。天国へ移住した者の多くが、現実では手に入らなかった若さや富、権力、理想の肉体、尽きることのない快楽を求める中で、朋子の世界だけは妙に地味だった。


 古い平屋も、食後の茶碗も、二人で眠れば少し狭い布団も、生前とほとんど変わっていない。肉体の最適化すら行われておらず、朋子が指定したのは、およそ二十年前の二人の姿だった。まだ若さは残っているものの、健太郎の身体にはすでに年齢相応の衰えが再現されている。


 ある夜、二人はいつものように同じ布団へ入っていた。


「……悪いな」


「何が?」


 健太郎は耳を赤くしたまま朋子から目を逸らしたが、朋子はシーツを整えると何も言わずその腕の中へ戻った。


「ほんと昔から変わんないね」


「……ごめんな」


「だから、何が?」


 朋子の口元が緩む。


 その様子を映す観測室では、二人の反応が数値へ変換されていた。


【性的快楽到達率 低】

【オルガズム反応 未達】

【DNR-600552 幸福度97.2%】


「……上がった?」


 白嶺は直前のデータを呼び出し、数値を重ねて確認した。


「モニカさん。これで、なぜ幸福度が上がるのですか?」


「別に変ですか?」


「性的快楽はほとんど得られていません」


「それだけが目的じゃないんでしょう」


 白嶺がモニカへ顔を向けた。


「では、何が目的なんです?」


「知りませんよ、本人じゃないんですから。ただ、昔と同じ生活がしたかったんじゃないですか?」


「十億円を払って?」


「払えるなら、いいんじゃないですか」


 白嶺は再びモニターへ視線を戻した。


 画面では、朋子が健太郎の胸元へ頭を寄せ、健太郎もその肩へ腕を回したまま目を閉じている。


【幸福度 97.4%】


「また上がった……」


「先生、そんなに珍しいですか?」


「珍しいですよ。ここでは何でも作れるんです」


 白嶺が周囲のモニターを示すと、そこには若返った身体で大勢の異性に囲まれる者、巨大な邸宅で札束をばら撒く者、かつて自分を見下した人間から称賛され続ける者など、それぞれが望んだ天国が映し出されていた。


 その中で朋子だけは、黄ばんだ天井の下で、腹も少し出て髪も薄くなり始めた夫と寄り添っている。


「若返ることもできる。健太郎さんの身体を完全な状態にすることもできる。それなのに朋子さんは、二十年前の彼を指定して、不完全な部分まで残している」


「その頃が良かったんじゃないですか?」


「不完全なのに?」


「先生」


「はい」


「人の旦那を不完全、不完全って失礼ですよ」


 白嶺はそれ以上言わず、モニターへ向き直った。


 画面の隅では、朋子自身が表示を希望した残存時間が一秒ずつ減っている。


【残存期間 81日 03時間 17分】


「でも、終わるんですよ。三ヶ月後には、この世界そのものがなくなる。それを朋子さん自身も知っている」


「ええ」


「それでも幸福なんですか」


 モニカは椅子の背もたれへ身体を預けた。


「終わるからじゃないですか?」


「終わるから?」


「永遠だったら、明日のご飯の話なんてしないかもしれないでしょう」


 白嶺は返事をせず、画面へ視線を戻した。


『もう寝た?』


『まだ』


『明日、何食べます?』


『ぶり大根』


『昨日も言ってましたね』


『覚えてた?』


『覚えてますよ』


 二人が笑うと、また数値が動いた。


【幸福度 97.8%】


 白嶺は表示を確認してから、ほとんど動かなくなった二人を見続けていた。健太郎の胸へ朋子が顔を寄せ、その背中へ健太郎の腕が乗っているだけで、特別なことは何も起きていない。


「……モニカさん。この二人は、何をしているんでしょう」


「寝てるんじゃないですか?」


「そういう意味ではありません」


 モニカも画面へ顔を向けた。


「たぶんですけど、この人、性愛だけを求めてるんじゃないんですよ」


「では?」


「人生を確認してるんじゃないですか?」


 白嶺から返事はなかった。


 周囲のモニターでは、その間にも誰かが若返り、富を手に入れ、現実では叶わなかった欲望を満たしている。


【残存期間 81日 03時間 12分】

【幸福度 97.8%】


 それでも白嶺は、朋子の画面を閉じなかった。


   ◇


 残された時間は、それからも減り続けた。


 最後の日、朋子は健太郎へ抱きついていた。


 行為を終えた寝室には古いエアコンの低い音が響き、乱れたシーツの上で健太郎が大きな欠伸をする。腹は少し出て、髪も薄くなっており、先ほども何度か途中で息を整えていたが、朋子が再現した健太郎は最後までこの姿のままだった。


 部屋の隅には、朋子にしか見えない数字が浮かんでいる。


【00:08:00】


「健太郎さん」


「んー?」


 朋子は胸へ頬をつけ、背中へ腕を回した。


「大好き」


「なんだよ今日。やたら素直だな」


 健太郎が照れくさそうに答えると、朋子も口元を緩めた。


 タイマーは止まらない。


【00:05:31】


 朋子は数字へ目を向けたあと、さらに健太郎へ身体を寄せた。


「健太郎さん」


「ん?」


「愛してる」


「だから、どうしたんだよ今日」


 健太郎は変わらず笑っていたが、朋子の呼吸は先ほどより速くなり、背中へ回した腕にも力が入っていく。


 部屋も、布団も、明日の夕飯の話も、残された時間とともに消えていく。


   ◇


 観測室では、白嶺とモニカがその映像を見ていた。


【DNR-600552 幸福度99.0%】


 朋子は何度も残り時間を確認している。それでも世界を書き換えようとはせず、若返った健太郎を求めることも、豪邸へ移ることもなかった。


 古い平屋の寝室で、衰えまで再現した夫へ抱きついている。


【幸福度99.1%】


「……まだ上がる」


 白嶺は数値を確認すると、そのまま画面へ視線を戻した。


 モニカも何も言わなかった。


   ◇


【00:01:03】


 朋子の肩が震え始めた。


「健太郎さん」


「ん?」


「ありがとう」


「急にどうしたんだよ」


 朋子は何度か口を開いたものの、その先の言葉が続かなかった。


「……怖い」


 健太郎の表情が変わる。


「怖い?」


 朋子は答えず、健太郎の服を強く掴んだ。


 しばらくその顔を見ていた健太郎は、やがて朋子の頭へ手を置いた。ぎこちなく髪を撫でながら、少し顔を赤くする。


「……俺も好きだよ」


 朋子はそのまま健太郎へ縋りつき、声を抑えながら泣いた。


「ありがとう……大好き」


「おう」


 何が起きようとしているのか知らない健太郎は、朋子の背中を撫で続けている。


【00:00:10】


 朋子が顔を上げた。


「健太郎さん」


「ん?」


「大好き」


「知ってるよ」


 朋子の頬を涙が流れたまま、口元だけが緩んだ。


【00:00:03】


「愛してる」


【00:00:02】


 健太郎が朋子を抱き寄せる。


【00:00:01】


「ありがとう――」


 そこで映像が停止した。


 抱き合った二人の姿だけがモニターに残り、残存時間がゼロへ変わる。


【00:00:00】


   ◇


 観測室では、停止した映像と最終結果が並んでいた。


【最終幸福度 99.3%】


 モニカは口元を押さえたまま画面を見ていた。頬を伝った涙が顎から落ちても手を動かさない。


「……最後まで、下がらなかった」


 白嶺から返事はなかった。


 画面の中では、朋子が泣きながら健太郎へ抱きつき、何も知らない健太郎がその身体を抱き返している。白嶺はしばらくその映像を見続けたあと、モニターを閉じた。


 白い光が消え、黒くなった画面に二人の姿も見えなくなる。


 白嶺は下ろした手を、そのまま隣にいたモニカの手へ重ねた。


「……先生?」


 モニカが顔を向けても、白嶺は答えなかった。


 先ほどまで朋子と健太郎が映っていた黒いモニターを見たまま、握った手も離さなかった。

【設定の小ネタ】


実はこの夫婦、心理学的にはかなり強いです(笑)


人って

「若返りたい!」

「お金ほしい!」

「モテたい!」

って思いそうですが、脳は意外と単純じゃありません。


何十年も一緒に暮らした相手と、

「今日の鮭うまいね」

なんて言ってるだけで幸福度が上がることもあるそうです。


これを研究しているのが愛着理論やウェルビーイングなんて心理学。


つまり脳は、 「ドキドキ」より「ただいま」の方が好きな時もある ってことですね。


白嶺は「なんでこんなので幸せなの?」と完全にフリーズ。


でも、たぶん人間って、その「なんでもない毎日」のために何十年も頑張ってる生き物なのかもしれませんね

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