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天国白書  作者: 凛1129
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3章 凶気と脆弱と (4)ヴェルゼブブ

挿絵(By みてみん)

 最初の頃、ヴァネッサはここを気に入っていた。

目を覚ませば、広い部屋がある。

冷蔵庫には酒が入っていて、呼べば誰かが来る。

ヴァネッサは、ソファへ寝転がりながら思う。

“これでいいじゃん”

「まぁでも、正直ラッキーだったよね」

ヴァネッサは煙草を咥えながら笑った。

「普通に執行だったら終わってたじゃん」

部屋には、甘ったるい草の匂いが充満している。

焦げた葉と湿った土を混ぜたみたいな臭いだった。

現実にいた頃だって、欲しかったのは結局こういう生活だった。それが全部ある。

なのに数日経つ頃には、胸の奥がまたざわつき始めていた。

「これ片付けといて」

ヴァネッサは床へ転がっていた酒缶を足で押した。

女はすぐに頭を下げる。

「はい」

部屋は散らかっていた。

酒瓶。食べ残し。服。割れたグラス。煙草の吸殻。

鼻の奥へ、あの独特な匂いが残る。

腐った草みたいなのに、妙に甘い。

女は黙って片付け始めた。

ヴァネッサはソファへ寝転がったまま、その様子をぼんやり眺める。

「すみません、汚くて」

女が苦笑いする。

「これくらい全然平気っすよ」

その瞬間だった。

「ここなら実質やり直しっしょ?」

ソファへ寝転がりながら天井を見る。

「つーか、死刑囚でここ来れるの、勝ち組じゃね?」

周囲は笑う。

ヴァネッサも笑う。

だが笑いながら、爪を噛んでいた。

「現実の奴ら、今頃発狂してそう」

酒を飲む。

「ざまぁって感じ」

ヴァネッサの胸の奥で、何かが冷たく動く。


――違う。


 分かっていた。

この女は、本当に片付けたくて動いているわけじゃない。空気を壊さないため。怒らせないため。

機嫌を損ねたくないから笑っている。

ヴァネッサはそれを記録している。

昔から、何度も見てきた顔。

男も、女も、皆こういう顔をする。

「そこ雑じゃない?」

ヴァネッサは急に言った。

女の肩が小さく震える。

「す、すみません」

「ちゃんとやって」

「はい」

女は急いで片付け直す。

ヴァネッサは酒を飲む。

自分の方が上だと確認できる瞬間だけ、不安が静かになる。


別の日。気づけば、部屋はまた散らかっていた。

ヴァネッサは深夜の部屋で、到底まともではないと1発で分かる風体の男を集め、一人の男を正座させていた。

「で?」

男は黙っている。

「なんでさっき反応遅かったの?」

「……え?」

「いや、“え?”じゃなくて」

ヴァネッサは煙草を咥えたまま笑う。

 

「私が話してる時、一回目逸らしたよね?」

「そんなつもりじゃ」

「じゃあどういうつもり?」

 

男は困ったように笑う。

その顔を見た瞬間、ヴァネッサの中で何かがざわつく。


“またその目”


ヴァネッサは急に腹が立つ。

「なんで笑ってんの?」

「いや……」

「舐めてる?」

「違います」

「じゃあちゃんと答えろやっ!」

男は黙る。

沈黙が流れる。


ヴァネッサは急に不安になる。

今、この男は何を考えてる?

怖いと思ってる?

面倒だと思ってる?

早く終われって思ってる?

頭の奥で、色んな想像が勝手に膨らみ始める。

ヴァネッサはそれを止められない。

「……ねぇ」

声が少し弱くなる。

「私のこと嫌い?」

男は驚いた顔をする。

「え?」

「だから、嫌い?」

「そんなわけないです」

「ほんとに?」

「はい」

ヴァネッサは男の顔を見つめる。

だが安心できない。

 

頭のどこかが、ずっと警報を鳴らしている。

――嘘かもしれない。

――また見下されるかもしれない。

――また裏切られるかもしれない。

ヴァネッサは急に立ち上がり、テーブルを蹴り飛ばした。

グラスが割れ男が肩を震わせる。

その反応を見て、ヴァネッサは少し安心する。

怖がっている。

まだ自分の方が上だ。

まだ捨てられていない。


“そしてまた同じ過ちを犯す……”


 現在中枢化したヴァネッサは、殺害した男を中枢化したシステムの中にいるため都合よく完全犯罪を成功させ、取り巻きに武勇伝を語っている。


モニカは顔をしかめた。

「こんなの、ただのご褒美じゃないですか」

白嶺はモニターを見つめたまま何も言わない。

「被害者は死んだんですよ」

モニカの声は少し強くなる。

「凍えながら、骨折したまま山を這って、見世物にされて」

画面の中で、ヴァネッサが笑いながら誰かへ酒をかける。

「なのに加害者は、こんな場所で好き放題生きてる」

モニカは吐き捨てるように言った。

「世間には、“理想郷には行けない”って説明してるのに」

「……」

「全部嘘じゃないですか」

白嶺は静かにモニターを見ている。

ヴァネッサは男へ灰皿を投げつけていた。

男は謝りながら笑っている。

その顔を見た瞬間、ヴァネッサは急に泣き出した。

『……なんでそんな顔すんの』

数秒後にはまた怒鳴り始める。

モニカは理解できなかった。

白嶺は静かにモニターを見つめている。

「この人は、人を知りません」

「え?」

「正確には、“人が自分とは別の感情を持つ存在”として理解できない」

白嶺は穏やかな声で続けた。

「だから他者を、安心するための道具として使う」

画面の中で、ヴァネッサが誰かへ叫ぶ。

『好きって言えよ!!』

相手は怯えながら頷いていた。


「本来、人間は他者と衝突しながら関係を作ります」

白嶺は静かに言う。

「嫌われ、誤解され、許され、少しずつ相手を知っていく」

モニターの中で、ヴァネッサが泣きながら笑う。

「ですがこの人は、傷つくのが怖すぎる」

モニカは画面を見る。

白嶺は、しばらく黙ってモニターを見つめていた。

画面の中では、ヴァネッサが笑っている。

「……これのどこが地獄なんですか」

白嶺は答えない。

ヴァネッサはまた誰かを殴っていた。

男は謝っている。

ヴァネッサは泣きながら笑っている。

『じゃあちゃんと好きって言えよ!!』

モニカは顔をしかめた。

「被害者は、こんなもの望んでない」

「……」

「こんなの、更生でも罰でもないです」

白嶺は静かにモニターを見ている。

やがて、小さく端末へ触れた。

画面の隅で、何かの数値が変わる。

モニカが振り向く。

「……先生?」

白嶺は答えない。

ただ静かにデータを書き換えていた。


その夜、ヴァネッサは薄暗い部屋で酒を飲んでいた。

甘ったるい草の匂いが充満している。

周囲には、いつもの取り巻き達。

笑い声。濁った空気。

ヴァネッサは酔った顔で笑う。

「だからさぁ、あの時マジでウケたんだって」

皆が笑う。

だが次の瞬間だった。

一人の男が、無言でヴァネッサの顔を殴った。

鈍い音。

ヴァネッサの身体が床へ転がる。

「……え?」

空気が止まる。

ヴァネッサは笑おうとする。

「なに、ふざけ──」

次の瞬間、別の男が蹴った。

肋骨が軋む。

呼吸が止まる。

「待っ……」

誰も止めない。

いつも笑っていた女が、無表情で灰皿を振り下ろした。

歯が折れる。

血が飛ぶ。

「な、んで……」

返事はない。

ただ無言で殴り続ける。

ヴァネッサは床を這う。

痛い。怖い。助けて。

喉の奥で声にならない。

だが誰も助けない。

腕が折れる。爪が剥がれる。

視界が赤く染まる。

誰かが髪を掴み、顔を持ち上げた。

――“またその目”

ヴァネッサは理解してしまう。


あぁ。

これが、本当の目だ。


そこには恐怖も媚びもなかった。

ただ嫌悪だけがあった。

ヴァネッサの喉から、小さな嗚咽が漏れる。

「た…す…」

ヴァネッサは血だらけのまま床へ倒れていた。

しかし暴力はエスカレートしていく。

ヴァネッサは潰れた口で、小さく呟く。


「……ごめんなさい」


涙が床へ落ちる。

誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。

だが次の瞬間。

誰かがナイフを突き上げた。

乳房を貫き視界が暗くなる。

その中でヴァネッサは、ぼんやり思った。


先生、ありがとう。

そして、ごめんなさい。


「――なぜっ」

モニカは立ち上がりモニターに向い言った。

ヴァネッサは最後、少しだけ笑った。

そしてモニターの映像がそこで止まった。


沈黙が流れる。

白嶺は静かにモニターを見つめている。

「先生……と言った? ……なぜ……」 

モニカは動けず理解出来ずに佇んでいる。


白嶺は小さく頭を下げた。

「……お疲れ様でした」

穏やかな声で呟く。

「ヴァネッサ・レインさん」

 

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