(10)残響
六月十四日。
脳科学棟、地下第三研究室。
窓のない地下研究室に昼夜の区別はなく、蛍光灯だけが一日中白い光を落としていた。床からは冷却装置の低い振動が絶え間なく伝わり、雨の日になると室温がわずかに下がって、ガラス容器の表面へ細かな水滴が浮かぶ。
なゆたはそれを見つけるたび、容器へ顔を近づけた。
「寒くない? 大丈夫?」
返事などできないと分かっていても毎回同じように問いかけ、温度計を確認すると一人で納得する。
「うん。大丈夫そうだねぇ」
ガラスの向こうでは、脳幹と視神経、脊髄上部、そして二つの眼球が保存液の中に浮かんでいた。眼球は、なゆたが移動するたびにゆっくりとその姿を追っている。
保存液を通した視界では蛍光灯の光も人の輪郭も大きく歪んでいたが、白衣と少し乱れた髪、いつも近くから聞こえてくる声だけは判別できた。
研究室の外には大学も街も空もある。しかし、容器の中から見ることのできる世界は、この地下第三研究室だけだった。
なゆたは時折、その研究室で眠っていた。
机へ突っ伏し、大量の論文を枕代わりにして何時間も動かなくなる。目を覚ませば寝起きのまま缶コーヒーを飲み、すぐに資料を開いて、見つけたことをガラス容器へ向かって話し始めた。
冷えた缶コーヒーと薬品の匂いが染みついた室内には、食べかけのカロリーバーや、灰皿代わりにされたシャーレ、洗われていないビーカーまで転がっている。整然とした大学の研究室というより、そこだけがなゆたの生活空間になっていた。
「ねぇ、白嶺くん。人類って今、すごい時代なんだよ」
その日も、なゆたは大量の論文に囲まれていた。
ネイチャー、サイエンス、ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス。積み上げられた紙面には赤線と書き込みがびっしりと残されている。
「一九九〇年。ブッシュ政権が『ディケイド・オブ・ザ・ブレイン』を宣言したの。脳の十年! 脳の時代だよ!」
缶コーヒーを片手にホワイトボードへ大きく文字を書き、そのまま壁へ粗い脳画像を投影した。
「それでね、一九九二年には小川誠二の研究で、エフエムアールアイが一気に現実的になってくる。見て、ここ」
なゆたが画像の一部を指差すと、ガラス容器の中の眼球が僅かに動いた。
「人間が何かを見たり考えたりした時、脳のどこで血流が変わるのか外から追える。すごくない?」
振り返ったなゆたは、そのまま容器へ向かって続ける。
「すごいよねぇ」
視神経波形が小さく揺れた。
「うんうん。見えてるね」
なゆたはそれを確認すると、今度は一冊の本を取り上げた。
「それからアントニオ・ダマシオ。『デカルトの誤り』。これも面白いんだよ。感情って、理性的な判断を邪魔するノイズだと思われてたでしょ? でも違う。感情があるから人間は選べる。意思決定そのものに必要なんだって」
問いかけても返事を待つことはなく、説明は次から次へと続いていく。
蛍光灯が一度瞬いたが、なゆたは気にも留めず、ホワイトボードへ新しい神経回路を書き足した。
「昔はさ、脳を場所で分けすぎてたんだよ。ここが記憶、ここが感情、ここが言語って。でも、そんなに単純じゃない。ネットワークなんだよ」
いくつもの円を線で繋ぎ、さらに電子回路の図まで隣へ描いていく。
「カーバー・ミードのニューロモーフィックも面白い。神経系の仕組みそのものを電子回路へ持っていこうとしてる。記憶も、人格も、感情も――」
そこでなゆたは手を止め、ガラス容器へ顔を向けた。
「全部、神秘じゃないのかもしれない。構造なんだよ」
それから椅子を離れ、容器の前へしゃがみ込んだ。
「だからね、理論上は――君も、生まれ変われるかもしれない」
雨音が遠くから地下へ伝わってくる。
「新しい身体を作って、神経を繋いで、失った機能を別のものへ置き換える。全部一度にじゃなくてもいい。一個ずつでいいんだよ」
なゆたはガラス越しに指を立てた。
「私はね、人間って、本当はそんな簡単に『終わらない』と思うんだ」
しばらく容器を見つめたあと、今度は子どもへ話しかけるように声を落とす。
「ねぇ……今の医学倫理だとねぇ、私、多分そのうち捕まるんだよね」
缶コーヒーを一口飲み、脳波モニターへ目を向けた。小さな波形は変わらず規則正しく動いている。
「でもさ――君、生きてるから」
なゆたはガラス容器へ手を添えた。
「どう思う、白嶺くん……」
◇
白嶺はモニタールームの机に伏せたまま目を覚ました。
「……また、この夢ですか」
身体を起こすと、頬には服の皺がくっきりと残っている。ちょうどその時、扉が開き、出勤してきたモニカが足を止めた。
「先生、またここで寝てたんですか」
「モニカさん。おはようございます」
白嶺はまだ目を半分ほどしか開けていなかった。
モニカはその顔を見たあと、コーヒーを二杯淹れ、一つを白嶺の前へ置いた。
「ありがとうございます」
「小谷野さん、無事にご家族の元へ返されたそうですよ」
モニカが自分のカップへ口をつけても、白嶺から返事はない。
「先生?」
よく見ると、カップを持ったまま再び眠っていた。
「先生!?」
声に反応して白嶺の肩が跳ねる。
「……はい?」
「大丈夫ですか? 昨日寝てないんですか?」
白嶺は壁の時計を確認した。
「十二時間くらいしか寝ていませんねぇ」
「十二時間なら寝すぎですよ」
「私の理想は十七時間なんですけどねぇ」
「十七時間? それ、ほとんど赤ちゃんじゃないですか」
白嶺は眠そうなままコーヒーへ口をつけた。
「……それだけは、どうも変わらないようです」
「変わらない?」
モニカが首を傾げても、白嶺は答えず、再び目を閉じかける。
「寝ないでください」
「起きていますよ」
「今、寝ようとしてましたよ」
「目を休ませていただけです」
「はいはい」
モニカはそれ以上追及せず、端末から新しいデータを白嶺のモニターへ送った。
「それより、新しい中枢化希望者です。データに目を通してくださいね」
白嶺が眠そうに画面へ視線を移すと、その背後ではいくつもの中枢化モニターが白い光を放っていた。
◇
NRV―〇四一二。
契約者はテレシア。高齢女性で、脳腫瘍はすでに全身へ転移しており、現実での余命は一か月、中枢化後の維持可能期間も推定三十二日と算出されていた。
文明局の記録にあるのは、それだけだった。
しかしネット上では、《TRUE事件の母親、ニルヴァるらしいぜ》《結局、国は何もしなかったな》《被害者遺族も最後は天国頼りか》と、彼女の名前より過去の事件の方が先に語られていた。
白嶺はコメント群を閉じ、事件記録へ切り替えた。
事件が起きたのは五月十八日、午後三時二十一分。再開発から取り残された旧第四環状居住区で、下校途中の児童が十四歳の少年に襲われた。
拘束時の薬物反応はなく、精神安定剤の使用履歴もない。逮捕後、少年は動機を尋ねられて「中を見たかった」と答え、その言葉は瞬く間に世界中へ拡散された。
被害児童が身につけていた安価なAR端末には、《TRUE》という初期ユーザー名が残されていた。
真実。
その偶然をネットは面白がり、いつしか事件は《TRUE事件》、遺族であるテレシアは《TRUE母》と呼ばれるようになった。
加害少年の脳波データには、記憶定着率が歴代最高値に近い一方で、感情反応が極端に低いという特徴が残されている。
『人間って壊れると、どうなるんだろうって』
『皆、痛がるのに、なんで生きたがるんだろうって』
供述映像は何度も切り抜かれ、評論家、精神科医、政治家、宗教家が、家庭環境やAI教育、暴力的コンテンツ、感情教育の不足など、それぞれ違う原因を語った。
その一方で、警察署を出たテレシアへも無数のカメラが向けられていた。
『今のお気持ちは!?』
『加害少年を許せますか!?』
『更生についてどう思いますか!?』
テレシアは一度も答えず、胸へ小さな子ども靴だけを抱えていた。
その後もテレビへ出演せず、講演もせず、事件について公に語った記録はない。毎年同じ日に同じ場所へ同じ花を供える姿だけが残り、加害少年の名前も顔も保護されたまま年月が過ぎた。
それでもネットだけは事件を忘れず、《TRUEの母まだ生きてるらしい》《もうニルヴァったと思ってた》《加害者の方が人生楽しそう》と、二十年以上にわたって言葉を流し続けた。
そして老いたテレシアは、最後にニルヴァーナを選んだ。
◇
テレシアが選んだ世界は、ひどく古かった。
畳の匂いが残る小さな木造住宅には、黄ばんだ壁紙と低い食卓、古い換気扇の回る台所があり、居間には分厚いブラウン管型ディスプレイが置かれている。昼間でも室内は少し暗く、蛍光灯の白い光だけが生活を照らしていた。
そこにいるのは、テレシアと生後半年ほどの男児だけだった。
男の子は夜中でも構わず泣き、抱き上げても乳を飲ませても簡単には泣き止まない。ようやく眠ったと思えば熱を出し、朝方には玩具を床へ落とした。
カタン。
「はいはい」
テレシアが拾う。
しばらくすると小さな手がまた動き、同じ玩具が床へ落ちる。
「またですかぁ」
もう一度拾うと、男の子はそれだけで笑った。
テレシアも声を上げて笑う。
観測室では、白嶺がその瞬間で映像を停止した。
数秒間そのままにしてから少し巻き戻す。
カタン。
『またですかぁ』
男の子が笑い、テレシアも笑う。
「先生?」
モニカが声を掛けると、白嶺は再生速度を元へ戻した。
「なんです?」
「いえ。何かありました?」
「ありませんよ」
映像はそのまま深夜へ進んだ。
テレシアは眠そうな目を擦りながら男の子を抱き上げ、小さな背中を何度も撫でている。
「はいはい、大丈夫ですよぉ。大丈夫、大丈夫。怖いものなんてないからねぇ」
白嶺の指が、机の上で一度だけ動いた。
モニターに異常を示す表示はない。
朝方になればテレシア自身もほとんど眠れていなかったが、男の子が玩具を落とせば拾い、泣けば抱き上げた。夕方には片腕で男の子を抱え、もう一方の手で味噌汁を作っている。
途中で小さく咳き込み、鍋から顔を背けた。
「あう……ああ」
「はいはい。もう少し待ってくださいねぇ」
味噌汁の湯気が古い台所へ広がる。
この世界には夫も親戚も友人もおらず、事件も加害者もマスコミも存在しない。家の外すら作られておらず、一軒の古い家と一人の赤ん坊だけが、テレシアの選んだ世界の全てだった。
「今日はいっぱい食べたねぇ」
「あう……」
「美味しかったですかぁ?」
男の子がテレシアの顔を見て笑うと、白嶺は別画面へ男児のデータを呼び出した。
神経活動、視覚反応、聴覚反応、発達状態を順番に確認し、何も言わず画面を閉じる。
◇
中枢化前、白嶺はテレシアと一度だけ面談していた。
被害者遺族には文明局が中枢化費用を負担する特別支援制度があり、肉体に重い疾患があっても、中枢化後であれば長期間の生活が可能になる例は珍しくない。
しかし、テレシアの場合は病巣が脳にあった。
残された時間は三十二日。
白嶺は契約内容を確認しながら、いくつかの選択肢を表示した。
「お子さんの認知機能も調整できます。発達速度を変更して成長した姿を見ることもできますし、健康状態も完全にできます」
テレシアは画面を見たあと、静かに首を横へ振った。
「この子は、この子なので」
白嶺は次の調整項目へ移る。
「では、テレシアさん自身はどうでしょう。若返りもできますし、疲労や痛みも抑えられます」
「このままでいいです」
「赤ちゃんの夜泣きも止められますよ」
テレシアの口元が緩んだ。
「先生」
「はい」
「赤ちゃんって、ずっと泣くんですよ。夜中も朝方も、理由なんて分からないのに。抱っこしても駄目、ミルクでも駄目。やっと寝たと思ったら、今度は熱を出したりして」
白嶺は表示していた調整項目から手を離した。
「それを再現する必要があるんですか?」
「でもねぇ、急に笑うんです」
「……笑う?」
「本当に急に。さっきまであんなに泣いてたのに」
テレシアは契約画面に表示された男児の頬へ、指先を重ねた。
「それだけで、全部どうでもよくなるんですよ」
白嶺は少し間を置いた。
「それが、テレシアさんの幸福なんですか?」
「幸福……どうなんでしょうねぇ」
「では、なぜ?」
テレシアは男児の画像をしばらく見たあと、静かに答えた。
「この子が生きてると、安心するんです」
白嶺の視線が、テレシアから男児へ移る。
「ですが、そのお子さんは――」
「ええ。もう帰ってこない」
しばらく室内に声がなくなった。
テレシアは男児の画像へ手を添えたまま続ける。
「だから最後くらい、また抱っこしていたいんです」
◇
観測室のモニターでは、その望み通りの生活が続いていた。
男の子が玩具を落とす。
カタン。
「はいはい」
テレシアが拾い上げても、しばらくすればまた床へ落ちる。
「もう。本当に好きですねぇ」
男の子が笑う。
【NRV―0412】
【身体負荷 上昇】
【睡眠不足 継続】
【幸福度 98.1%】
白嶺は数値を確認すると、今度は男児側の神経波形を表示した。
小さな波形が規則正しく動いている。
拡大してしばらく眺めていると、横からモニカの声がした。
「先生」
「はい?」
「そっち、テレシアさんのデータじゃないですよ」
白嶺は開いている画面を確認した。
「ああ。間違えました」
「珍しいですね」
「そうですか?」
男児の神経波形を閉じ、テレシアのデータへ戻す。
画面の中では、赤ん坊が眠っていた。
テレシアはその顔を覗き込み、起こさないよう小さな声で話しかけている。
「大丈夫ですよぉ」
白嶺は何も言わず、その映像を見続けていた。
【設定の小ネタ】
脳科学ってすごいです。
記憶も感情も、かなり解析できるようになりました。
でも……
「魂どこ?」
これだけは、まだ誰も見つけられません。
世界中の博士が何十年も探してるのに、
「ここです!」って出てきてくれないんです。
なゆたは、その逃げ足の速い"何か"を捕まえようとしている困った人。
……たぶん倫理委員会が一番頭を抱えてます。




