(1)揺籃
◇
テレシアが選んだ世界は、ひどく古かった。
畳の匂いが残る小さな木造住宅には、黄ばんだ壁紙と低い食卓、古い換気扇の回る台所があり、居間には分厚いブラウン管型ディスプレイが置かれている。昼間でも室内は少し暗く、蛍光灯の白い光だけが生活を照らしていた。
そこにいるのは、テレシアと生後半年ほどの男児だけだった。
男の子は夜中でも構わず泣き、抱き上げても乳を飲ませても簡単には泣き止まない。ようやく眠ったと思えば熱を出し、朝方には玩具を床へ落とした。
カタン。
「はいはい」
テレシアが拾う。
しばらくすると小さな手がまた動き、同じ玩具が床へ落ちる。
「またですかぁ」
もう一度拾うと、男の子はそれだけで笑った。
テレシアも声を上げて笑う。
観測室では、白嶺がその瞬間で映像を停止した。
数秒間そのままにしてから少し巻き戻す。
カタン。
『またですかぁ』
男の子が笑い、テレシアも笑う。
「先生?」
モニカが声を掛けると、白嶺は再生速度を元へ戻した。
「なんです?」
「いえ。何かありました?」
「ありませんよ」
映像はそのまま深夜へ進んだ。
テレシアは眠そうな目を擦りながら男の子を抱き上げ、小さな背中を何度も撫でている。
「はいはい、大丈夫ですよぉ。大丈夫、大丈夫。怖いものなんてないからねぇ」
白嶺の指が、机の上で一度だけ動いた。
モニターに異常を示す表示はない。
朝方になればテレシア自身もほとんど眠れていなかったが、男の子が玩具を落とせば拾い、泣けば抱き上げた。夕方には片腕で男の子を抱え、もう一方の手で味噌汁を作っている。
途中で小さく咳き込み、鍋から顔を背けた。
「あう……ああ」
「はいはい。もう少し待ってくださいねぇ」
味噌汁の湯気が古い台所へ広がる。
この世界には夫も親戚も友人もおらず、事件も加害者もマスコミも存在しない。家の外すら作られておらず、一軒の古い家と一人の赤ん坊だけが、テレシアの選んだ世界の全てだった。
「今日はいっぱい食べたねぇ」
「あう……」
「美味しかったですかぁ?」
男の子がテレシアの顔を見て笑うと、白嶺は別画面へ男児のデータを呼び出した。
神経活動、視覚反応、聴覚反応、発達状態を順番に確認し、何も言わず画面を閉じる。
◇
中枢化前、白嶺はテレシアと一度だけ面談していた。
被害者遺族には文明局が中枢化費用を負担する特別支援制度があり、肉体に重い疾患があっても、中枢化後であれば長期間の生活が可能になる例は珍しくない。
しかし、テレシアの場合は病巣が脳にあった。
残された時間は三十二日。
白嶺は契約内容を確認しながら、いくつかの選択肢を表示した。
「お子さんの認知機能も調整できます。発達速度を変更して成長した姿を見ることもできますし、健康状態も完全にできます」
テレシアは画面を見たあと、静かに首を横へ振った。
「この子は、この子なので」
白嶺は次の調整項目へ移る。
「では、テレシアさん自身はどうでしょう。若返りもできますし、疲労や痛みも抑えられます」
「このままでいいです」
「赤ちゃんの夜泣きも止められますよ」
テレシアの口元が緩んだ。
「先生」
「はい」
「赤ちゃんって、ずっと泣くんですよ。夜中も朝方も、理由なんて分からないのに。抱っこしても駄目、ミルクでも駄目。やっと寝たと思ったら、今度は熱を出したりして」
白嶺は表示していた調整項目から手を離した。
「それを再現する必要があるんですか?」
「でもねぇ、急に笑うんです」
「……笑う?」
「本当に急に。さっきまであんなに泣いてたのに」
テレシアは契約画面に表示された男児の頬へ、指先を重ねた。
「それだけで、全部どうでもよくなるんですよ」
白嶺は少し間を置いた。
「それが、テレシアさんの幸福なんですか?」
「幸福……どうなんでしょうねぇ」
「では、なぜ?」
テレシアは男児の画像をしばらく見たあと、静かに答えた。
「この子が生きてると、安心するんです」
白嶺の視線が、テレシアから男児へ移る。
「ですが、そのお子さんは――」
「ええ。もう帰ってこない」
しばらく室内に声がなくなった。
テレシアは男児の画像へ手を添えたまま続ける。
「だから最後くらい、また抱っこしていたいんです」
◇
観測室のモニターでは、その望み通りの生活が続いていた。
男の子が玩具を落とす。
カタン。
「はいはい」
テレシアが拾い上げても、しばらくすればまた床へ落ちる。
「もう。本当に好きですねぇ」
男の子が笑う。
【NRV―0412】
【身体負荷 上昇】
【睡眠不足 継続】
【幸福度 98.1%】
白嶺は数値を確認すると、今度は男児側の神経波形を表示した。
小さな波形が規則正しく動いている。
拡大してしばらく眺めていると、横からモニカの声がした。
「先生」
「はい?」
「そっち、テレシアさんのデータじゃないですよ」
白嶺は開いている画面を確認した。
「ああ。間違えました」
「珍しいですね」
「そうですか?」
男児の神経波形を閉じ、テレシアのデータへ戻す。
画面の中では、赤ん坊が眠っていた。
テレシアはその顔を覗き込み、起こさないよう小さな声で話しかけている。
「大丈夫ですよぉ」
白嶺は何も言わず、その映像を見続けていた。
中枢化二十八日目。
NRV―〇四一二、テレシアの脳活動は急速に低下していた。癌性脳浮腫の進行によって人格維持も限界へ近づき、文明局端末には視覚欠損、記憶保持率低下、神経接続不安定といった警告が次々と追加されている。
「この低下速度だと、いつ終わってもおかしくありませんねぇ」
白嶺がそう告げている間も、天国側のテレシアは男の子を腕に抱いていた。夜の木造住宅には強い雨が降り続け、窓ガラスを細かな雨粒が叩き、軒先から落ちる雫が一定の間隔で暗い庭を打っている。
男の子はいつものように何も話さず、テレシアへ小さな手を伸ばしていた。
白嶺はモニターの前から動かない。
テレシアの脳活動は日に日に弱まり、視覚や記憶にもすでに欠損が現れ始めている。それでも幸福を示す反応だけは、二十八日前からほとんど変化していなかった。
「まだ高いんですか?」
「ええ。身体は限界に近いのに、幸福反応だけは安定しています」
白嶺は再計測をかけたが、表示された数値は変わらない。
「……違う」
「何がです?」
答える代わりに、白嶺は過去二十七日分の記録を呼び出した。一日目、五日目、十二日目と高速で遡り、泣く男の子を抱くテレシア、床へ落ちた玩具を何度も拾う姿、熱を出した小さな額へ手を当て、朝まで眠らず傍にいる姿を次々と確認していく。
疲労も睡眠不足も蓄積していたが、その間も幸福反応だけは高いままだった。
「何を探してるんですか?」
モニカが尋ねても、白嶺は画面から目を離さなかった。
やがて過去の記録を閉じると、人格補正、発達制御、認知修復を扱う管理領域へ移った。ところが、中央に表示されたのはテレシアではなく、男児側の構成データだった。
「先生?」
白嶺が指を動かした瞬間、修正処理が開始され、進行率を示す数字が急速に上昇していく。
「ちょっと待ってください。何してるんですか?」
返事はない。
「先生、それ……テレシアさんじゃないですよね? 男の子の方を弄ってるんですか?」
処理は五十、七十、九十%と進み、白嶺は端末へ身を乗り出したまま画面から目を離さない。九十五%を越えた頃には、机の上に置かれたもう片方の手、その指先だけが不規則に動き始めていた。
「早く……」
進行率が九十九%に達する。
モニカが白嶺の横顔を見ている間に数字は一〇〇%へ切り替わり、その瞬間、木造住宅の映像全体へ激しいノイズが走った。
雨音が歪み、室内の蛍光灯が一度だけ明滅する。
テレシアの腕の中で、男の子がゆっくりと顔を上げた。
「お母さん」
テレシアの動きが止まった。
腕から小さな身体がずり落ちかけ、慌てて抱き直そうとするものの、指が思うように動かない。何度か瞬きを繰り返し、焦点の合わない瞳を男の子へ向ける。
「……お前さん」
男の子が笑った。
「ありがとう」
テレシアの肩が震え、頬を伝った涙が顎先から畳へ落ちた。
「もう大丈夫。ありがとう」
男の子がもう一度そう告げると、テレシアは何度も頷いた。唇は震えているが、しばらく声にならない。
やがて動きにくくなった両腕を男の子の背中へ回し、胸元へ強く抱き寄せる。
「こちらこそ……こちらこそ、ありがとうございます」
掠れた声で答えるテレシアの腕の中で、男の子は笑い続けていた。テレシアも涙を流したまま口元を緩める。
その二人を映していた画面へ、一本の白い線が走った。
【生命活動停止】
映像と同時に雨音が途切れ、端末へセッション終了の表示が現れる。数秒前まで存在していた木造住宅も、畳も、男の子もすべて消え、黒くなったモニターには白嶺の姿だけが映り込んでいた。
モニタールームには、空調の低い駆動音だけが戻ってくる。
「先生……?」
モニカが呼んでも、白嶺は画面を見たまま動かなかった。
しばらくして右手を持ち上げると、指先が細かく不規則に震えている。白嶺はその手を見つめ、反対の手を重ねて押さえたが、震えはすぐには止まらなかった。
「……なゆた」
「え?」
モニカが顔を向けると、白嶺は口を閉じたまま何度か瞬きを繰り返した。
「今、なんて?」
問いかけても返事はなく、モニカがもう一度「先生?」と呼びかけたところで、ようやく白嶺がゆっくりと口を開いた。
「ライラ・モニカ」
普段、白嶺が口にすることのない呼び方に、モニカの表情が変わる。
「――はい……」
白嶺はそれ以上何も言わずに椅子から立ち上がり、「あとはお願いします」とだけ告げた。
「先生、どこへ――」
自動ドアが開き、白い廊下の光がモニタールームへ差し込む。
白嶺は振り返らずそのまま外へ出ていったが、扉が閉まりかけたところで一度だけ足を止めた。先ほどまでモニターから流れていた雨音はもうどこにもなく、数秒その場に立ったあと、何も言わず廊下の奥へ歩いていった。
今回は、赤ちゃんという最強生物の話です。
泣きます。
寝ません。
理由も教えてくれません。
かなりの無理ゲーです。
でも、たまにニコッと笑う。
すると親の脳はだいたい負けます。
心理学でいう愛着理論や、親が子どもを守ろうとする養育本能。
さらに「この子が生きている」と感じるだけで安心する、かなり原始的な心の仕組み。
テレシアが最後に欲しかったのは、完璧な天国でも、やり直した人生でもなく、
もう一回、抱っこ。
たぶん、それだけだったんです。




