4章 Cinderella’s Final Moments(2)真意
小谷野朋子は、申請書の最後に自分の名前を書いた。
署名欄の下には、夫の名義だった資産の移譲先が記されている。
朋子はそれを最後まで読み、ペンを置いた。
「お母さん」
長男の声が震えていた。
「本当に?」
朋子は顔を上げる。
娘は泣いていた。
「三ヶ月なんだよ。たった三ヶ月」
「うん」
「お父さん、そんなこと望まないよ」
朋子は少し笑った。
「そうかもしれないね」
「じゃあ」
「でもね」
朋子は、机の上に置かれた古い写真を指で撫でた。
若い頃の健太郎が、照れたように笑っている。
「お父さん、鮭が好きだったの」
娘は何も言えなかった。
「焼きすぎると、すぐ分かるのよ」
朋子は写真を見たまま、静かに続けた。
「今日は少し塩が強いね、とか。皮が一番美味しいんだ、とか。毎回同じことを言うの」
長男が顔を歪めた。
「そんなことのために10億使うのかよ」
朋子は怒らなかった。
ただ、ゆっくり頭を下げた。
「ごめんね」
それだけだった。
中枢化後、朋子が選んだ家は小さかった。
古い木造の平屋、畳の匂い。
台所には、少し焦げた魚の匂いが残っている。
庭には物干し竿が一本あり、風に揺れるシャツが二枚だけ干されていた。
朋子は台所に立っていた。
炊飯器から湯気が上がる。
味噌汁の鍋が小さく揺れている。
焼き網の上では、鮭の皮がぱちぱちと音を立てていた。
「朋子」
居間から声がした。
「焦げてない?」
「今見てます」
朋子は少し笑って、箸で鮭を返した。
居間では、健太郎がニュースを端末で見ていた。
完全ではなかった。
顔の輪郭は少し曖昧で、右手の動きも時々ぎこちない。
記録が足りなかった部分は補われている。
それでも朋子は、その姿を見て目を細めた。
「できましたよ」
食卓に並んだのは、白米と味噌汁と焼き鮭だけだった。
健太郎は箸を持つと、まず鮭の皮を少し剥がした。
「朋子、今日の鮭は美味しいね」
「そうですね。ご飯に合いますね」
「皮がいい」
「あなた、いつもそれですね」
朋子は笑った。
健太郎も笑った。
それから二人は、特に何も話さず食べた。
テレビでは古い旅番組が流れている。
茶碗が小さく鳴る。
味噌汁の湯気が、二人の間をゆっくり昇っていく。
モニター室で、白嶺は黙っていた。
朋子は食後の茶碗を洗っている。
健太郎は後ろから言った。
「明日は何食べようか」
「冷蔵庫に大根がありますよ」
「じゃあ、ぶり大根かな」
「鮭ばかりじゃないんですね」
「たまにはね」
朋子は小さく笑った。
白嶺はその画面を見つめたまま、ほとんど動かない。
モニカが横目で見る。
「先生?」
白嶺は答えなかった。
画面の中で、朋子が洗った茶碗を布巾で拭いている。
一枚ずつ。
急ぐ様子もない。
残り時間は、三ヶ月。
それ以上はない。
朋子も知っている。
契約で残り時間が空間に表示されている。
期限付きの希望者には選択性ではあるが、多くの人は制限時間の表示を選ぶことは稀である。
それでも二人は、明日の夕飯の話をしていた。
白嶺は、ようやく小さく呟いた。
「……どうして、足りているんでしょう」
モニカは画面を見る。
朋子は健太郎の湯呑みに、二杯目のお茶を注いでいた。
白嶺は首を傾げる。
「三ヶ月しかないのに」
その声は、いつもの観察ではなかった。
少しだけ、迷子の子どもみたいだった。
健太郎は、朋子の太腿へ頬を乗せたまま、ぼんやりしていた。
「……眠い」
「さっきまで元気だったでしょう」
「元気使った」
朋子は少し笑った。
健太郎は昔からそうだった。
器用な人ではない。
気の利いた言葉も知らない。
映画のように格好良く抱き寄せることもできない。
照れると耳まで赤くなる。
嬉しいことは全部顔に出る。
さっきもそうだった。
朋子が少し笑っただけで、健太郎は困ったように頭をかいた。
「……また笑われた」
「笑ってませんよ」
「いや、笑ってる」
健太郎は照れ隠しみたいに朋子へ抱きついた。
その腕は少し頼りなくて、少しぎこちない。
でも何十年経っても、朋子へ触れる時だけは、若い頃と同じ顔をしていた。
朋子は、その不器用さが好きだった。
モニター室では、静かな数値だけが流れていた。
性的快楽到達率:低
オルガズム反応:未達
心理的充足指数:98.4
モニカは画面を見ながら眉をひそめる。
「……未達なのに?」
白嶺は答えなかった。
画面の中では、健太郎がもう半分眠りながら朋子へ抱きついている。
「朋子」
「はい?」
「腹減った」
「さっき動いたからですか」
「うん……」
朋子は笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、幸福指数がさらに僅かに上昇する。
白嶺は、初めて理解できないものを見るみたいな顔でモニターを見つめていた。
「……どうして」
小さく呟く。
「満たされているんでしょう」
画面の中で、朋子は健太郎の額へキスをしていた。
まるで、それだけで世界が足りているみたいに。




