(2)忘却の余燼<よじん>
応接室には、葉巻の匂いが薄く漂っていた。
ヴィクター・ヴォルコフは窓際の椅子へ深く腰掛け、文明局本部の高層階から夜の都市を見下ろしている。窓の向こうでは無数の輸送ドローンが青白い光を引きながら飛び交い、物流も交通も気候制御も、ほとんど人の手を必要としていなかった。
百年前なら未来都市と呼ばれた景色も、この時代ではただの日常である。
ヴィクターは百三十二歳だった。再生医療、人工臓器、遺伝子補修によって、人類はかつて想像もできなかった寿命を手に入れ、ヴィクター自身もその恩恵を受けている。
しかし、寿命を延ばすことと老いを消すことは同じではなかった。
葉巻へ火をつけようとした指先が僅かに震え、一度目は火種が外れ、二度目も上手く着火しない。三度目でようやく赤い火が灯ると、ヴィクターは失敗などなかったような顔で煙を吸い込んだ。
その向かいでは、白嶺が端末を開いている。
「そういえば、マリアさんの件ですが」
「ああ」
「気に入ったんですか」
ヴィクターは白嶺の言いたいことに気づいたらしく、少し笑った。
「肉体の話か」
「ええ」
「悪くない。だが若すぎる」
「若い方が都合がいいのでは?」
「面倒だ。私は整備部品が欲しかっただけだ」
白嶺が端末を操作すると、新しい依頼内容が表示された。
二十五歳前後の男性で、健康体。神経疾患がなく、高い運動能力を持つこと。並んでいる条件はそれだけだったが、臓器提供者を探すにしては妙な指定だった。
「脳移植ですか」
ヴィクターはすぐには答えなかった。窓の外を横切っていく輸送ドローンの光を眺め、ゆっくり葉巻の煙を吐いてから口を開く。
「昔のロシアじゃ、三十まで生きれば長生きだった時代もあったそうだ。十七世紀初頭の動乱時代だったか。飢饉、戦争、疫病で何百万人も死に、人間はパン一切れのために殺し合った。そんな時代の人間なら、百年生きられると聞いただけで天国だと思っただろうな」
葉巻を灰皿へ置いたヴィクターは、自分の手へ目を落とした。
皮膚は再生され、骨も補修されている。臓器もいくつか交換され、百三十二歳という年齢から考えれば異常なほど健康な肉体を保っていた。それでも、この手が若い頃と同じものになることはない。
「ところが百年生きられるようになると百二十年を望み、百二十年を越えれば百五十年が欲しくなる。寿命が延びれば、次は若い身体だ。若い身体まで手に入りそうになれば、今度は死にたくないと言い出す」
「だから脳移植ですか」
「だから脳移植だ。依頼人は百二十九歳。国家予算並みの資産を持っているくせに、まだ人生が足りないらしい」
白嶺は依頼内容をもう一度確認してから端末を閉じた。
「この時代によくやりますねぇ」
「この時代だからやるんだ」
ヴィクターは葉巻を咥え直し、再び煙を吸い込んだ。
「文明局は人格移植も肉体継承も神経同一性移送も禁止した。だが、欲望まで禁止する法律は作れん。人類は進歩したわけじゃない」
吐き出された煙が、二人の間をゆっくり漂っていく。
「欲望に使える予算が増えただけだ」
「ずいぶん身も蓋もないですねぇ」
「百年以上生きれば、嫌でも分かる」
ヴィクターの視線の先には文明局の白い塔があり、その周囲を無数の輸送ドローンが流れている。百年以上前の人間が夢見た未来を眺めながら、ヴィクターは短くなった葉巻を灰皿へ押しつけた。
「脳移植なんて禁呪みたいなものだ。本来なら、存在しないはずだった」
「文明局が禁止していますからねぇ」
「違う。技術そのものが、だ」
白嶺の指が端末の上で止まった。
ヴィクターは椅子へ深く座り直し、火の消えた葉巻から立ち上る最後の煙を眺める。
「あの女がいなければ、こんなものは生まれていない。今でも分からんよ。天才だったのか、狂人だったのか」
そこで少し昔を懐かしむように笑った。
「両方かもしれんな」
「どんな人だったんです?」
「あの女か? 研究室の隣で人が倒れても、平気でモニターを見ているような女だった。気づいていなかったのか、興味がなかったのかは知らん」
ヴィクターの話す女は、周囲の人間にはほとんど関心を示さなかったらしい。その一方で脳波の数値が一つ変われば三日寝ず、食事を取ることさえ忘れた。隣で誰かが泣こうが喚こうが目も向けないくせに、モニターに現れた波形の僅かな揺らぎだけは決して見逃さなかったという。
「そういう女だった」
その言葉を聞いた瞬間、白嶺の指先が止まった。
何かを思い出したわけではない。ただ、ヴィクターの声とは別のものが意識の奥に触れたような感覚があり、白嶺は眉間へ手を当てて目を閉じた。
白い部屋。
近くから聞こえる女の声。
何かを説明する楽しそうな声だけが、形を持たないまま浮かんでくる。
「……なゆた……先生?」
無意識に漏れた名前へ、ヴィクターが反応した。
先ほどまで残っていた笑みが消え、灰皿へ伸ばしかけていた手まで途中で止まる。ヴィクターは目を閉じている白嶺をしばらく見つめてから、それまでとは違う低い声で尋ねた。
「その名前を、どこで聞いた」
白嶺はゆっくり目を開けた。
「分かりません」
「分からん?」
「最近、時々出てくるんです。夢なのか記憶なのかも分かりませんが」
「何が見える」
「白い研究室と、女性の声。それから……」
続きを探してみても、そこから先は霧がかかったように何も掴めない。白嶺はしばらく記憶を辿っていたが、やがて諦めて首を横へ振った。
「それくらいですねぇ」
ヴィクターは何も答えなかった。
空調の低い音がやけに大きく聞こえるほど沈黙が長くなり、今度は白嶺から問いかける。
「知っているんですか?」
「白嶺」
質問には答えないまま、ヴィクターは改めて白嶺の顔を見た。
「君は、自分が何歳だと思う」
「肉体年齢なら二十代後半でしょうか」
「そういう意味じゃない」
「では?」
「君自身だ。自分が何者なのか、調べたことは?」
「ありますよ。何度も」
「何か出たか」
「いいえ」
その答えを聞くと、ヴィクターは何かを確かめるようにゆっくり頷いた。
「なら、そのままでいい」
「なぜです?」
白嶺の眉が僅かに動く。
ヴィクターはすぐには答えず、テーブルへ手をついて椅子から立ち上がった。百三十二歳とは思えないほど背筋は伸びているものの、身体を支える指先には、葉巻へ火をつけた時と同じ小さな震えが戻っている。
「知らない方が幸せなこともある」
「ヴィクターさんがそれを言いますか」
「だから言うんだ。少なくとも、私はそう願っている」
それ以上聞くなという意味なのか、それとも本当に白嶺のためを思っているのか、その表情からは読み取れなかった。
白嶺が黙っていると、ヴィクターはそのままドアへ向かった。ただ、部屋を出る直前になって本来の用件を思い出したように足を止める。
「それと、二十五歳前後の男だ。健康体で、使い物になる身体がいい」
「急ぎですか」
「ああ。急いでくれ」
自動ドアが開くと、廊下の白い光が応接室の床へ細長く伸びた。ヴィクターは振り返ることなく外へ出ていき、その姿が見えなくなるとドアが静かに閉じる。
一人になった白嶺は、葉巻の匂いだけが残った部屋でしばらく椅子から動かなかった。
ヴィクターが語った女。
白い研究室。
自分の口から勝手に出てきた名前。
それらがどう繋がっているのか考えても、答えは何も浮かんでこない。
やがて白嶺は先ほど閉じた端末をもう一度開き、検索欄へ指を置いた。そこまでしても何を調べるべきなのか迷うように数秒間動きを止めたあと、一文字ずつ入力していく。
【なゆた】
検索ボタンは、そのすぐ下に表示されていた。
押せば何かが分かるかもしれない。
それでも白嶺の指は動かず、入力された三文字と検索ボタンの間を視線だけが何度か往復する。
「知らない方が幸せなこともある、ですか……」
ヴィクターの言葉を小さく繰り返した白嶺は、結局検索ボタンには触れなかった。
画面に残った【なゆた】の三文字ごと端末を閉じると、応接室には再び静寂だけが残った。
設定資料
切った貼ったの人間ニコイチ設定資料作りました
https://x.com/i/status/2075056152153661920




