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天国白書  作者: 凛1129
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4章 Cinderella’s Final Moments(3)言霊

朋子の日常は変わらない。

 食事を作る。肌を重ねる。隣で眠る。

 ただ、それだけだった。

 白嶺は首を傾げる。

 

 若返り。権力。富。理想の肉体。終わらない快楽。

人は天国へ来ると、現実で叶わなかったものを望む。

 部屋に流れる映像のほとんどはそのような情景で部屋は埋まっている。

 

 だが朋子は違う。

 再現しているのは、昔と何も変わらない夫婦の日常。

 食後の茶碗。 古い平屋。少し狭い布団。

 そして夜になると、二人は互いの温もりを確かめるように寄り添う。

 健太郎は昔のようにはいかなかった。

「……悪いな」

 申し訳なさそうに笑う。

 朋子は首を振るだけだった。

 しばらくして灯りが消える。

 

 モニターには数値だけが流れた。

【DNR-600552 幸福度97.2%】

 白嶺の指が止まる。

「……上がった?」


 白嶺は目を丸くする。

「モニカさん。これで何故幸福の数値が上がるのですか」

 白嶺は言葉を絞り出す。

 モニカは作業をやめ答えた。


「なかなか女性ではレアケースだと思いますが、過去の日常に幸せを感じていたのでしょう。

記憶保持も望んで天国にいらっしゃっています。

終演も理解しながら余生を送る。

そんな人もたまにはいるのではないでしょうか」


モニカにとっては不自然さを感じない答えである。

 

「モニカさんは違うと……」

白嶺は映像を見ながら聞く。

「聞くなっ!」

モニカは即座に遮った。


“違和感”


人が夢の世界でも日常を求める。

白嶺は首を傾げ、映像から目を離さない。

【DNR-600552 幸福度96%、ストレスホルモン2%上昇】

データは幸福と示している。


 健太郎は途中で力尽きた。

 朋子は何も言わず、その続きを受け止めていた。


 欲望を自由に形へ出来る世界。

 モニターの数値は、性的興奮とは異なる幸福反応を示していた。


 白嶺は沈黙していた。

モニターに映るのは、あまりにも地味な夜だった。


薄暗い照明。

少し黄ばんだ天井。

洗濯しきれない柔軟剤の匂い。

中年男女の疲れた身体。


白嶺が眉をしかめる。

数値を何度も確認する。

 

「でも、終わるんですよ」

白嶺は映像を見たまま言う。

「三ヶ月後には全部なくなる」

「ええ」

「それでも幸福なんですか」


モニカは天井を見上げ、答える。


「終わるからじゃないですか」


白嶺は初めてモニカを見る。

「終わるから?」

「永遠だったら、明日のご飯の話なんてしませんよ」


白嶺は答えなかった。


再現しているのは、あまりにも古びた夫婦生活。

 

 白嶺は眉を寄せた。

天国である以上、 肉体はいくらでも最適化できる。

 二十代の姿にも戻せる。

 だが朋子は、それを一切していない。

 20年程度前のイメージ。

 衰えた健太郎を、そのまま再現していた。

 朋子は何も言わず身体を起こす。


 シーツを整え、何十年も続けてきた動作のように健太郎へ寄り添う。


 そこに情熱的な淫靡さはなかった。

長年連れ添った妻の、 半ば生活動作のような自然さだけがある。

 白嶺は嫌悪感にも近い困惑を覚えた。


“なぜ、 わざわざ不完全を再現する”

白嶺の思考は停止している。


 朋子は健太郎のために静かに身体を寄せた。

 健太郎は目を閉じ、 申し訳なさそうに天井を見ていた。


「……悪い」

 小さく息を吐く。

 

 朋子は何も言わない。

 口元だけが、少し緩んだ。


 数分後。

健太郎は照れくさそうに目を閉じた。

通常なら、この場面で幸福値は僅かに下がる。

【DNR-600552 幸福度97.2%】


白嶺の瞳が止まる。

「上昇している?」


「ほんと昔から変わんないね」

 健太郎は恥ずかしそうに笑った。

 

「ごめんな……」

「何が?」

朋子は自然に健太郎の隣へ戻り、その腕の中へ収まる。

まるで、 そこが自分の定位置であるかのように。

性欲を満たした顔ではない。

帰宅した人間の顔だった。

白嶺は理解できなかった。


“なぜ?”


この結果で幸福値が上昇する。

欲望世界に来る人間は、 もっと貪欲だ。

若返り、 完璧な肉体を求め、 現実を捨てる。

だが朋子は違う。


衰えた身体。 若さを失った夫。 何十年も変わらない夜。

その全てを、朋子は抱きしめるように受け入れていた。


モニカが静かに言った。

「たぶんこの人、“性愛”をしてるんじゃないんですよ」


白嶺は視線を向ける。

「……では何を」

モニカは少し考え、 小さく笑った。

「人生を確認してるんじゃないですか?」

モニターの中で、 朋子は健太郎の胸へ顔を埋めていた。


若い頃のような激しさはない。

だが、二人の間には、数十年積み重ねた生活だけが持つ、 奇妙な静けさがあった。


白嶺は瞬きもせず映像を見ている。

 

 欲望を叶える世界。

  欲望ではなく、失った昨日を買っていた。

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