(3)紅の日食
ヴィクターから依頼を受けた翌日、白嶺はモニタールームで候補者のデータを確認していた。
求められているのは二十五歳前後の健康な男性で、神経疾患の既往がなく、高い運動能力を備えていること。条件だけなら単純に見えるが、身体能力が高くても過去に神経障害があったり、遺伝子補正の副作用が残っていたりと、すべてを満たす者は意外に少ない。
何人目かの候補者を除外したところで端末に来訪者通知が入り、白嶺は作業の手を止めた。
【中枢化事前契約 火星移住計画参加者】
【リオ・ヴァレン 二十四歳】
【火星生活圏基盤整備計画 第一次建設隊】
【出発予定日 七月七日】
火星移住計画の参加者には、《開拓者優先中枢化制度》が適用される。事故などで死亡した場合、通常の待機手続きを省略して中枢化へ移行するため、出発前に正常な脳波や記憶構造、人格基準データを保存しておく必要があった。
白嶺は端末を閉じ、同じ階にある契約室へ向かった。
七月四日、日曜日。
壁面ガラスの向こうでは夏の都市が熱で白く滲み、地表冷却プレートが道路の下で淡く点滅している。地上を歩く者は少なく、人々の多くは空調管理された地下通路や空中回廊を利用していた。
「先生」
後ろから追いついたモニカが、二つ持っていた紙コップの片方を差し出した。
「ありがとうございます」
「今回は火星組の優先枠です。契約だけじゃなく、事故時の復元に使う基準データまで取りますからね」
「死ぬことを前提にした優遇制度ですねぇ」
「相変わらず言い方が悪い」
モニカは呆れたように返してから、契約室の方へ目を向けた。
「リオ・ヴァレン、二十四歳。もう来ています。火星へ行く三日前とは思えないくらい楽しそうでしたよ。先生とは少し話が合うかもしれません」
白嶺は受け取ったコーヒーを一口飲んだ。
「それは失礼ですねぇ」
「どっちにですか?」
そんな話をしているうちに契約室へ着き、自動ドアが二人の前で開いた。
室内には金髪の青年が一人で座っていた。火星移住計画の白い訓練服に、日焼けした肌。長い脚を組んでいた青年は白嶺を見るなり立ち上がり、明るく笑った。
「おお、本物だ。白嶺先生ですよね」
「本物、ですか?」
「事前説明で見ました。事故ったら先生のところへ送られるって」
「随分と縁起の悪い紹介ですねぇ」
「でも、死んだ後に会う人の顔が分かってると、逆に死ぬ気がしないんですよ」
「では、私とは二度と会わない方がいいですね」
「そのつもりです」
リオは笑いながら手を差し出し、白嶺もそれに応じた。
◇
契約手続きと同時に全身スキャンが始まり、天井から降りた光がリオの身体をなぞっていく。神経伝導、脳活動、遺伝子情報、人格波形まで順番に記録され、数十秒ほどで基準データの取得は完了した。
スキャンを終えたリオは自分の手を開き、感覚を確かめるように軽く握り直した。
「不思議ですね。本人より機械の方が、身体のことを詳しく知ってる」
「気になりますか?」
「逆です。自分の主観より信用できますよ」
その答えに、端末を操作していた白嶺の指が止まる。
「二十四歳にしては、随分達観していますねぇ」
「火星へ行くなら、死ぬ可能性くらいは考えますよ。死ぬつもりはありませんけど」
「怖くはないんですか?」
「怖いですよ。でも、見たことのない景色の方が気になる。だから行くんです」
そう言って笑うリオの顔を、白嶺は数秒眺めてから端末へ視線を戻した。
「興味深いですねぇ」
「褒めてます?」
「観察対象としては」
「ひどいな」
その後も手続きに問題はなく、すべての契約を終えたリオは席を立った。出口まで行ったところで一度だけ振り返り、先ほどと変わらない笑顔を白嶺へ向ける。
「もし死んだら、よろしくお願いします」
「その時は歓迎しますよ」
「それじゃ困るなぁ」
最後まで笑ったままリオが契約室を出ていくと、モニカは取得したデータを確認しながら白嶺へ話しかけた。
「やっぱり変わった人でしたね。でも、嫌な感じはしなかったでしょう?」
「そういうものですか?」
「人の目を見て話すし、冗談も通じるし、無理して怖くないふりをしてる感じもしなかったですから。普通に無事で帰ってきてほしい人ですよ」
「なぜです?」
「いい人そうだったからです」
白嶺は端末から顔を上げ、モニカを見た。
「それだけですか?」
「それだけじゃ駄目ですか?」
白嶺はすぐには答えず、モニカの顔を数秒眺めてから「なるほど」とだけ返し、契約室を出た。
◇
個室へ戻った白嶺は、リオの診断結果を再び開いた。
身体と神経に異常はなく、運動能力と認知能力はいずれも火星移住者の中でも高水準にある。人格波形にも大きな乱れはなく、ヴィクターから提示された年齢、健康状態、神経系、運動能力の条件と照らし合わせても、ほとんど外れる項目がない。
白嶺はヴィクターの依頼条件とリオの診断結果を並べ、何度か表示を切り替えながら確認していった。
条件は合っている。
新しい送信画面を開くと、宛先にはヴィクター・ヴォルコフの名が入り、添付欄へリオ・ヴァレンの基準診断データが表示された。
【宛先 ヴィクター・ヴォルコフ】
本文には何も入力しないまま、白嶺は送信ボタンへ指を移した。
『普通に無事で帰ってきてほしい人ですよ』
開いたままの扉の向こうから聞こえてきたモニカの声に、指が止まる。
先ほど契約室を出ていったリオの笑顔が頭に浮かんだ。
『いい人そうだったからです』
白嶺は廊下の方へ一度だけ顔を向け、それから再び画面へ視線を戻した。
送信ボタンの上には、まだ指がある。
数秒後、その指が画面へ触れた。
【送信完了】
リオ・ヴァレンの診断データが、ヴィクターの端末へ転送される。
白嶺は送信済みの表示をしばらく眺めていたが、やがて何も書かれていない本文欄ごと画面を閉じた。
クソだるい人間ドッグが進化した!?
設定資料
https://x.com/i/status/2075061581873099064




