(4)アルゴスの沈黙
「……馬鹿な」
白嶺の指が止まった。
モニタールームの壁面には、火星生活圏基盤整備計画の事故速報が表示されている。火星移送船は出発から二十四時間後、生命維持系統に重大な異常が発生して任務を中止し、乗員十二名を乗せたまま地球圏への緊急帰還を開始していた。
異常が発生したのは乗員区画七番。
【リオ・ヴァレン 二十四歳】
【生命維持ユニット異常――仮死状態】
白嶺は速報を閉じず、事故報告を最初から開き直した。画面の隅には、前日に会ったばかりのリオの顔が表示されている。明るい金髪に白い訓練服、死ぬ可能性を問われても、怖さより見たことのない景色の方が気になると笑っていた青年だった。
その身体は、白嶺がヴィクターへ送った条件にほとんど一致している。そして診断データを送った翌日、その本人が仮死状態となって地球へ戻ってくる。
「こんな、都合よく……」
「先生?」
モニカが振り返ったが、白嶺は答えず、そのまま事故報告の再生ボタンへ触れた。
◇
七月八日、木曜日。
火星移送船は、船長張偉龍以下十二名の乗員を乗せて地球軌道を離脱した。
船内には自律建設機、地下掘削ユニット、酸素生成炉、小型発電炉など、人間が火星に生活圏を築くための設備が積み込まれている。無人機による調査や資材輸送はすでに何度も成功していたが、人間自身が現地へ降り立ち、生活基盤を組み上げるのは今回が初めてだった。
その火星生活圏基盤整備計画、第一次建設隊の一人がリオ・ヴァレンだった。
船内記録では、無重力に金髪を浮かせたリオが窓へ張りつき、小さくなっていく地球を眺めている。
『出発してからずっと見てるだろ』
『当たり前だろ。今しか見られないんだぞ』
リオは子どものように笑いながら、「俺たちは地球から離れてるんじゃない。人間が住める場所を増やしに行くんだ」と得意げに語った。
『演説か?』
『火星で最初に言う台詞の練習』
『何て言うんだ』
少し考えたリオは急に真顔になった。
『発電炉を置く場所を間違えるな』
周囲から笑いが起きたが、本人はすぐ端末へ資材配置図を呼び出している。火星の砂嵐で補給路が遮断される可能性を指摘し、最初の発電炉は居住区より通信塔寄りへ置いた方がいいと提案していた。
『到着前から仕事かよ』
『着いてから考える奴は、現場で邪魔になる』
また笑いが広がったところで、白嶺は映像を止めた。
前日に契約室で会った時と変わらない。よく笑い、冗談を言いながらも、火星へ着く前から設備配置を確認し、現地で起こり得る問題まで具体的に考えている。
『普通に無事で帰ってきてほしい人ですよ』
モニカが言っていた言葉が頭に残った。
白嶺は停止したリオの顔を数秒見たあと、次の記録を開いた。
異常が発生したのは、それから約二十四時間後だった。
《アルゴス》が月軌道を越えた頃、乗員の多くは長期航行へ身体を慣らすための第一休眠に入っていた。最初に異常を示したのはリオの生命維持ユニットで、二酸化炭素の除去効率が低下した直後、それを補う酸素供給まで正常に作動しなくなった。
医療AIは即座に補助換気へ切り替えようとしたものの、本来なら発生しないはずの権限エラーによって処理を拒絶された。
【船長権限拒否】
【蘇生プロトコル停止】
【生体維持優先順位――変更】
船内へ警報が鳴り響き、張船長がブリッジへ駆け込んだ。
『状況は!』
管制員の報告では、リオはすでに心停止へ移行しており、医療AIが開始した蘇生処置も補助換気と循環補助の停止によって中断されていた。さらに手動操作へ切り替えようとしても、船長権限そのものが拒否される。
『……私の権限まで? 操作ログを出せ』
呼び出された履歴には、異常発生直前の三秒間だけ記録が存在していなかった。単なる故障でもログ自体は残るため、管制員は誰かによって意図的に削除された可能性を示した。
ブリッジから声が消えた。
この時代の医療AIは心停止そのものを即座に死とは判断しない。まして《アルゴス》は、人類圏外で長期間活動することを前提に設計された船である。乗員一人の生命維持異常に対し、船長権限まで拒絶して蘇生を停止するなど、本来なら起こり得ない。
『地球管制へ繋げ』
数分後、宇宙管制センターとの回線が開いた。
《アルゴス》側からは、リオが心停止状態にあること、医療AIが権限エラーによって蘇生を停止していること、再起動にも応答しないことが報告された。生命維持ユニットそのものを切り離すことは可能だったが、その瞬間にリオの生命維持が完全停止する危険があり、さらに同様の異常が他のユニットへ波及する可能性も否定できない。
張船長はリオの生体表示へ目を向けた。
心拍は止まっている。それでも脳活動だけは、消えかけながら僅かに残っていた。
『救命の可能性は』
地球側から返答が届くまで、少し時間がかかった。
『アルゴス。現時点で任務継続は危険と判断します』
『……一人のために、か』
『一人ではありません。原因不明の生命維持系統異常です。再発すれば、全乗員を失う可能性があります』
誰も言葉を挟まなかった。
《アルゴス》には十二人の命だけではなく、各国が三十年を費やした計画そのものが積まれている。発電炉、酸素生成炉、地下居住区、通信設備。その全てが、火星をただの赤い惑星から、人間が暮らせる場所へ変えるために準備されたものだった。
張船長は航路表示とリオの生体情報を何度も見比べた。
『帰還すれば、助けられるのか』
地球圏まで戻れば高度医療施設へ搬送でき、現時点ではまだ死亡確定ではない。その回答を聞いたあとも、張船長はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり息を吐く。
『……了解した。アルゴスは任務を中止する。地球へ帰還する』
命令を受けた《アルゴス》は月軌道の外側で反転を開始し、人類初の火星生活圏建設計画は、出発からわずか一日で中断された。
◇
そこで記録は終わった。
モニターには現在の《アルゴス》の航行情報と、リオの状態だけが残されている。
【リオ・ヴァレン】
【仮死状態――地球圏へ搬送中】
白嶺は画面を閉じず、前日にヴィクターへ送った診断データを呼び出した。その隣へ事故発生時刻、生命維持ユニットの操作履歴、欠落した三秒間のログを並べていく。
ヴィクターが求めていたのは、若く健康で神経系に問題がなく、脳移植後の身体として高い適性を持つ人間だった。リオはその条件をほぼ完全に満たしている。
そして白嶺が診断データを送った翌日、リオの生命維持装置だけに不自然な異常が発生した。それも完全に死亡させるのではなく、脳活動を僅かに残したまま仮死状態へ落とし、火星へ向かっていた身体を地球へ引き返させている。
偶然と考えるには、あまりにも条件が揃いすぎていた。
白嶺は通信画面を開いた。
「――ヴィクターへ連絡」
通信待機の表示が浮かび上がる中、白嶺はもう一度リオの状態を確認した。
【仮死状態】
生命活動は完全には失われておらず、身体にも致命的な損傷は記録されていない。
ヴィクターが欲しがっていた条件通りの身体が、火星へ向かう途中で仮死状態となり、いま地球へ戻ろうとしていた。
火星に住みたい!
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