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天国白書  作者: 凛1129
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16/38

5章 記憶 (1)残響

挿絵(By みてみん)

6月14日。

脳科学棟地下第三研究室。

地下研究室には昼夜の感覚がなかった。

蛍光灯だけが、ずっと白く点いている。

なゆたは時々、その場で寝ていた。

机へ突っ伏したまま。

そして起きるとすぐ論文を開き、また嬉しそうに何か話し始める。

時間の感覚はない。


ただ、なゆたが眠っている時間だけは、少し不安。


 雨の日の研究室は少し寒かった。

ガラス容器の表面へ、 小さな水滴がつく。

なゆたはよく、温度設定を気にしていた。


「寒くない?大丈夫?」

答えられるはずもないのに、 彼女は毎回そう聞く。

そして勝手に安心して笑う。

「うん、大丈夫そうだねぇ」


冷却装置の振動が、床を微かに揺らしていた。

水の中で静かに浮かんでいる。

脳幹。

視神経。

脊髄上部。

そして、二つの目。

眼球だけが、ぼんやりとなゆたを追っていた。

水中越しの世界は歪んでいる。

光は滲み、人の輪郭は水の中みたいに揺れて見えた。

それでも、なゆただけは分かった。

白衣。

嬉しそうな目。

少し乱れた髪。

いつも自分へ話しかけてくれる人。

研究室の外に、何があるのか知らない。

大学も、街も、空も。

世界とは、地下第三研究室。


 そして、その中心になゆたがいた。


研究室には、冷えた缶コーヒーの匂いが染みついていた。

なゆたの白衣は、いつも少しだけ薬品臭い。

机の端には、食べかけのカロリーバー。

灰皿代わりに使われているシャーレ。

徹夜続きなのか、洗っていないビーカーまで置かれていた。


地下第三研究室。

そこは大学というより、なゆたの巣みたいだった。

それでも彼女は楽しそうに笑う。


「ねぇ、人類って、今すごい時代なんだよ」


 なゆたは、脳波モニターを見ながら嬉しそうに笑っていた。

「すごいよねぇ」

 机の上には、大量の論文コピーが散乱している。

 

 Nature。

 Science。

 Journal of Neuroscience。

赤線だらけだった。

「1990年、ブッシュ政権が“Decade of the Brain”宣言」

なゆたは缶コーヒーを飲みながら呟く。

「脳の時代だよ!」

いつになく興奮している。


ホワイトボードに神経回路図が何層も描かれている。

「1992年、小川誠二のfMRI成功」


なゆたは、壁へ投影された粗い脳画像を指差す。

「見てこれ」

「人間が“考えてる瞬間”を、映像で見れてる」


眼球わずかに動く。

屈折して動いているように見えた。

なゆたは笑った。

「うんうん、見えるよね」


水の中は静かだった。

でも、なゆたの声だけは届いていた。

「1994年、アントニオ・ダマシオ」

『デカルトの誤り』

なゆたは、本を軽く持ち上げる。

「感情はノイズじゃない」

「人間の意思決定そのものなんだって」

研究室の蛍光灯が少し瞬く。

なゆたは、興奮したみたいに歩き回っていた。


「昔の科学者って、脳を部位で考えすぎてたの」

「でも違う」

「ネットワークなんだよ」

難しい。理解は出来なかった。

でも、なゆたが楽しそうなのは分かった。

それだけで嬉しかった。

「カーバー・ミードのニューロモーフィック理論もそう」

なゆたは回路図を指でなぞる。

「脳を電子回路として再現する」

「記憶」

「人格」

「感情」

「全部、神秘じゃない」


なゆたは、子どもみたいに笑う。

「構造なんだよ」

液体の奥から静かになゆたを見ていた。

赤子のように。

世界には、なゆただけが存在していた。


なゆたはガラス容器の前へしゃがみ込む。

「理論上ね」

難しいことは分からなかった。

 

 なゆたが何を言っているのかも、なぜ嬉しそうなのかも理解できない。

でも、彼女が研究室へ来ると分かった。

遠くから足音が聞こえる。

白衣の擦れる音。

缶コーヒーを机へ置く小さな金属音。

しばらくすると、歪んだ水の向こうへ、なゆたが現れる。

それだけで安心した。

 

 視神経波形が、小さく揺れる。

「君も、生まれ変われるかもしれない」

研究室が静まり返る。

雨音だけが遠くで響いていた。

「新しい身体」

「新しい神経」

「新しい人生!」


なゆたの目は、本気。

「私はね、人間って“終わらない”と思うんだ」

水中越しに、なゆたが微笑む。

その笑顔を見るのが好きだった。


「ねぇ……」

なゆたは、子どもへ話しかけるみたいな声で笑う。


「今の医学倫理だとねぇ」

缶コーヒーを飲む。

「私、多分そのうち捕まるんだよね」

それでも楽しそうだった。

「でもさ」

なゆたは、本当に嬉しそうにモニターを見る。


「――君、生きてるから」

「どう思う、白嶺くん……」


 

――白嶺はモニタールームで目を覚ました。

「また……この……夢?……」

モニカが出社してきた。

「先生、またここで寝てたんですか」

呆れた雰囲気でそう言った。

「モニカさん。おはようございます」

白嶺はまだ眠そうだ。

モニカはコーヒーを2杯作り1つを白嶺に渡した。


「ありがとうございます」

「小谷野さん、無事家族の元へ返されたそうですよ」

コーヒーを一口飲みモニカが言った。


「……」


「先生?」

白嶺はコーヒーを手にしたまま寝ている。

「先生!?」

モニカは大きな声で白嶺を呼ぶ。

肩を上げ白嶺は起きる。


「大丈夫ですか。昨日寝れなかったんですか」

白嶺は時計を見る。

「12時間くらいしかまだ寝てませんね」

まぶたは今にも閉じそうだ。

「12時間なら寝過ぎじゃないですか」

「僕の理想の睡眠時間は17時間なんですけどねえ」

「17時間……?それ、ほとんど赤ちゃんですよ」

「……それだけはどうも変わらないようです」

「変わらない?」

モニカは首を傾げた。


「それよりも新しい中枢化希望者です。データに目を通してくださいね」

モニカは呆れたように白嶺に言った。

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