(5) 白界
リオ・ヴァレンはまだ、天国へ接続されていなかった。
高度医療施設へ搬送されたあと、仮死状態の維持だけは成功している。生命維持ユニットの異常によって脳活動は不安定なままだが、完全に失われたわけではなかった。
【蘇生可能性――低】
【中枢化移行準備――開始】
開拓者優先中枢化制度が適用され、出発前に採取された人格基準データもすでに天国センターへ送られている。あとは現世側の医療判断を待つだけだった。
白嶺は個室のモニターへリオの最新データを表示した。二十四歳。身体の損傷は軽微で、神経疾患の記録もない。運動能力、認知能力ともに極めて高く、仮死状態であることを除けば、ヴィクターが求めていた条件とほとんど重なっている。
しばらくデータを確認したあと、白嶺は通信画面を開いた。宛先にはヴィクター・ヴォルコフを指定し、リオの医療データと人格基準データ、《アルゴス》の事故報告を添付する。
『候補者として確認願います』
送信するとすぐに既読がついたものの、返答はなかった。これ以上の候補を探す方が難しいほど条件は揃っているため、白嶺は椅子へ背中を預けて返事を待った。
数分後、ヴィクターから通信が入る。
回線を開くと、暗い部屋に座る老人の姿が映った。窓の外には夜景が広がり、片手にはグラスを持っている。
「見ましたか」
「ああ」
「条件には、ほとんど合っています」
ヴィクターはすぐには答えず、画面に表示されたリオのデータをしばらく眺めていた。
「問題がありますか?」
ようやくグラスを机へ置き、短く答える。
「これは……無理だな。使えん」
「理由を聞いても?」
「聞いても分からん。身体状態の話ではない。肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな」
白嶺はその場でリオの医療履歴を開き、出生から現在までの記録を確認したが、特筆すべき異常は一つも見つからない。
「公式記録には何もありませんが」
「記録に残る程度のものなら、私が見る必要はない」
「それでも使えないと?」
「ああ。次を探せ」
「これ以上の候補は、簡単には見つかりません」
「それでもだ」
白嶺は画面の向こうにいるヴィクターを見た。
「説明してください。履歴という言葉だけでは不十分です」
ヴィクターは白嶺の顔をしばらく見たあと、僅かに口元を緩めた。
「君は昔から、分からないものを放っておけんな」
白嶺の指が止まる。
「……昔から?」
「次の候補を待っている」
「ヴィクター」
呼び止めても返事はなく、老人は「その身体は使えん」とだけ告げて通信を切った。
白嶺は消えた画面をしばらく見つめたあと、通信ログを呼び戻した。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
その言葉を残したまま、リオの戸籍、医療履歴、成長記録、火星計画の適性検査まで改めて照合していく。しかし、何度確認しても異常らしい異常は見つからなかった。
その最中、画面の右端に新しい通知が浮かんだ。
【リオ・ヴァレン――中枢化移行開始】
現世側で蘇生困難と判断されたらしい。
白嶺は通信ログを閉じ、人格基準データと残存する脳活動が接続されていく様子を表示した。通常であれば、ここから本人の記憶や欲望に適した初期環境が自動的に生成される。
家族のいる部屋や海辺、子どもの頃に暮らしていた家、仕事場。あるいは本人が最も安心できる風景。
白嶺はこれまで何度も同じ処理を見てきた。人間の望みは複雑に見えても、形にしてしまえば意外なほど似ている。会いたい人、戻りたい場所、やり直したい時間。そのどれかへ収束することが多かった。
ところが、リオの初期環境だけは、いつまで待ってもモニターへ表示されなかった。
白いノイズが画面を覆う。
「システム確認」
『中枢化システム、正常です』
「環境構築は?」
『完了しています』
白嶺の眉が僅かに動く。
「映像出力」
ノイズが消れたあと、モニターに現れたのは、何も存在しない世界だった。
空も床も壁もなく、地平線さえ見当たらない。白い光の中にいるのか、そもそも何もない空間なのか、それすら判別できなかった。
その中央に、リオだけが立っている。
白い訓練服のまま両腕を下ろし、顔を上げることもなく微動だにしない。出発前の映像で子どものように笑っていた青年とは、まるで別人だった。
「環境を海辺へ変更」
『変更しました』
白い世界は何も変わらない。
「火星表面へ変更」
『変更しました』
それでも背景は白いままだった。
白嶺は端末へ身を乗り出し、今度は《アルゴス》船内への変更と人格基準データの再同期を同時に指示した。
『完了しました』
返ってくるのは正常終了の報告ばかりだったが、映像には何一つ現れず、リオ自身も最初の位置から動こうとしなかった。
「エラーを検出」
『重大なエラーはありません』
「環境が表示されていません」
『環境構築は正常に完了しています』
そこで白嶺は操作を止めた。
システム上は正常で、人格形成も完了している。それにもかかわらず幸福指数は測定不能のまま、リオは何もない世界の中央に立ち続けていた。
恐怖反応も強い拒絶反応も出ていない。ただ、周囲のどこにも接続されていないように見える。
白嶺は瞬きもせず、その光景を見続けた。
白い光しか存在しない世界を見ているうちに、遠くから誰かを眺めているような、説明のできない感覚が浮かんでくる。
その瞬間、水が揺れるような音が耳の奥を掠めた。
白嶺は反射的に振り返ったが、個室には誰もいない。
再びモニターへ向き直ると、リオは同じ場所に立ったままだった。何もない場所で、何も見ていないように佇んでいる。それでも存在そのものだけは、確かにそこにある。
「……面白いですね」
白嶺は終了操作を呼び出し、指先を停止ボタンの上まで運んだ。しかし、そのまま押すことはせず、別の命令へ切り替える。
「ログを保存。リオ・ヴァレンの中枢化環境を継続観察」
『設定しました』
そのあと、白嶺は先ほどの通信ログをもう一度開いた。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
今度は途中で止めず、最後まで再生する。
再びリオの画面へ戻ると、白い世界の中央で青年は変わらず立ち尽くしていた。
白嶺は画面の明度を一段落としたが、周囲が暗くなっただけで、その白さはほとんど変わらない。さらにもう一段階落としても同じだった。
端末の縁を掴む指先に、徐々に力が入っていく。
「……これで、正常?」
システムから返答はなかった。
個室の照明が自動調整によって一段暗くなり、白嶺の周囲も闇へ近づいていく。それでもモニターの中だけは変わらず、どこにも存在しないはずの白い世界が、その中央に立つリオごと静かに光り続けていた。




