5章 記憶 (2)揺籃
NRV-0412。
高齢女性。名はTeresia
脳腫瘍進行。全身転移。余命一ヶ月。
中枢化維持可能期間、推定三十二日。
文明局記録には、そうだけが残されていた。
しかしネットでは、もっと単純に語られている。
『あの事件の母親、ニルヴァるらしいぜ』
『結局、国は何もしなかったな』
『被害者遺族も最後は天国頼りか』
白嶺は、そのコメント群を無言で閉じた。
事件発生5月18日。午後3時21 分。
下校途中だった児童が襲撃された。
現場は旧第四環状居住区。
再開発から取り残された、古い住宅街だった。
加害者は十四歳の中学生。
拘束時、血液反応は正常。
薬物検出なし。
精神安定剤使用履歴なし。
少年は逮捕時、こう供述している。
『中を見たかった』
その言葉は、瞬く間にネットへ拡散された。
被害児童の一人。
事件当日、被害児童が最後に身につけていた安価なAR端末の待機画面。
そこへ表示されていた初期ユーザー名はTRUE。
真実。
ネットはその単語を面白がった。
『TRUE事件』
『TRUE母』
『TRUEライン』
事件は巨大なコンテンツになった。
加害少年の脳波データは、異様だった。
文明局の分析官ですら、数秒黙ったほどに。
記憶定着率、歴代最高値。
感情反応だけが、壊れたみたいに低かった。
少年は供述する。
『人間って壊れると、どうなるんだろうって』
『皆、痛がるのに、なんで生きたがるんだろうって』
その映像は何度も切り抜かれた。
お決まりの評論家、精神科医、政治家、宗教家。
全員が好き勝手にメディアで語った。
『家庭環境の問題』
『AI教育の弊害』
『暴力的コンテンツ』
『感情教育不足』
だが被害者遺族へ返されたのは、謝罪ではなく、大量の取材申請だけだった。
男の子の母テレシアも、その一人だった。
事件直後の映像記録。
警察署出口。無数のフラッシュ。怒号。
『今のお気持ちは!?』
『加害少年を許せますか!?』
『更生についてどう思いますか!?』
テレシアは、何も答えなかった。
ただ、小さな子ども靴だけを抱えて。
彼女は一度もテレビへ出演しなかった。
講演をしない。社会へ怒鳴らなかった。
ただ、毎年同じ日に、同じ場所へ同じ花を供える。
当時の国は動かなかった。
法改正、被害者補償、何一つ変わらなかった。
加害少年は保護された。
名前、顔、人生も守られた。
だが男の子は、もう帰ってこない。
ネットだけが、ずっと事件を消費し続けていた。
『TRUEの母まだ生きてるらしい』
『もうニルヴァったと思ってた』
『加害者の方が人生楽しそう』
そんな言葉だけが、 二十年以上ネットを漂い続けた。そして老いたテレシアは、最後にニルヴァーナを選択した。
誰も理解できなかった。
なぜテレシアが、今更あんな世界を望んだのか。
テレシアが選択した世界は、酷く古かった。
1970年代風後期型家庭環境。
玄関を開けると、少し湿った畳の匂いがした。
古い木造住宅だった。
壁紙はところどころ黄ばんでいる。
台所からは、小さな換気扇の音がずっと聞こえていた。
居間には、分厚いブラウン管型ディスプレイ。
昼間なのに部屋は少し暗い。
蛍光灯だけが、白く生活を照らしていた。
そして共にいたのは、生後半年程度の男児だった。
テレシアは、その子を優しく抱きしめる。
同じ朝。
同じ昼。
同じ夜。
ただ、それだけを繰り返した。
男の子は、よく泣く子だった。
夜になると、木造住宅は静かすぎるほど静かだった。
だから、男の子の泣き声だけが妙に響く。
遠くで雨樋が鳴っている。
古い蛍光灯が、時々ジジッと音を立てた。
テレシアは眠そうな目を擦りながら、小さな身体を抱き上げる。
「はいはい、大丈夫ですよぉ」
テレシアは男の子を抱き上げる。
男の子を抱き上げるたび、テレシアは小さく息を漏らした。
昔より、身体が重い。
腕も痛む。
それでも彼女は、一度も男の子を床へ置かなかった。
その声だけが、深夜の部屋へゆっくり溶けていった。
夜中でも関係なく泣いた。
抱き上げても泣く。
乳を飲ませても泣く。
ようやく眠ったと思えば、 今度は熱を出す。
テレシアは、何度も小さな額へ手を当てた。
「大丈夫、大丈夫ですよぉ。怖いものなんてないからねえ」
朝方になる頃には、 彼女自身もまともに眠れていなかった。
それでも男の子は、何も分からない顔で玩具を落とす。
カタン。
テレシアは腰を上げる。
「はいはい」
拾う。
少しすると、また落とす。
カタン。
また拾う。
男の子は、そのたび少しだけ笑った。
テレシアも一切の不安がない顔で笑う。
夕方になると、窓の外が少し赤くなる。
テレシアは片手で男の子を抱いたまま、もう片方の手で鍋をかき混ぜていた。
味噌汁の湯気が、静かな部屋へゆっくり広がる。
男の子は、意味も分からないままテレビを見ていた。
砂嵐混じりの古いニュース音声だけが流れている。
それだけ。
本当に、ただそれだけの毎日。
テレシアは時々、咳をした。
小さく。
何かを隠すみたいに。
それでも、男の子を抱いている時だけは、少し痛みを忘れているように見えた。
そこには夫の姿、親戚の姿、マスコミも、加害者も、報道もメディアも、全てない。
描かれた天国には“家の外”という概念すら描かれていない。
本当に1つの家の中で、赤ん坊と2人。
飢えをしのぐために食料を入れる、睡眠を取る、好きなことをする、誰かと話をする。
それら日常の一切がなかった。
「今日はいっぱい食べたねぇ」
「あう……ああ」
男の子はテレシア見て微笑むだけであった。
白嶺には理解できなかった。
中枢化前に白嶺はテレシアと一度だけ話をした。
被害者遺族に関しては、緩和のために、担当者と今後を相談できる行政サービスがあった。
裏技というわけではないが、特に病を発症している遺族には金銭的負担をかけず文明局天国センターは無料で余生が送れるようなシステムがあった。
通常肉体に病があっても中枢化すればかなりの時間、天国の生活は約束された。
しかし、テレシアを病は脳。
猶予はそれほどない。
「認知機能も」
「発達速度も」
「健常化できる……なぜ」
しかしテレシアは、静かに首を横へ振った。
「この子は、この子なので」
「……本当に、それでいいんですか」
白嶺は画面を見て思い出していた。
木造住宅。
畳。
古い食卓。
生後半年程度の男児。
文明局上位利用者とは思えないほど、 質素な世界だった。
「もっと別の世界も作れます」
テレシアは少し笑う。
「別の世界?」
「ええ」
白嶺は指を動かす。
若返りモデル。
健康維持。
高級居住区。
感覚快楽最適化。
「苦痛は軽減できます」
「疲労感も」
「不安も、かなり抑えられる」
テレシアは、しばらく画面を見ていた。
「先生」
「はい」
「赤ちゃんって、ずっと泣くんですよ」
白嶺は黙る。
「夜中も」
「朝方も」
「理由なんて分からないのに」
テレシアは少し困ったように笑った。
「でもねぇ」
白嶺は画面の中の赤子を見る。
「急に笑うんです」
「……」
「本当に、急に」
白嶺は理解できなかった。
「それが、テレシアさんの幸福なんですか」
テレシアは少し考えた。
「幸福……」
その言葉を、確かめるみたいに繰り返す。
「どうなんでしょうねぇ」
静かな声だった。
「ただ」
続けて穏やかにテレシアは言った。
「この子が生きてると、安心するんです」
白嶺の指が止まる。
「でも、その子は――」
「ええ」
テレシアは頷く。
「もう帰ってこない」
その言葉だけ、異常に静かだった。
「だから最後くらい」
テレシアは微笑む。
「また抱っこしていたいんです」




