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天国白書  作者: 凛1129
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18/37

5章 記憶 (3)体温

中枢化二十八日目。

テレシアの脳活動は急速に低下していた。

癌性脳浮腫。

人格維持限界。

視界ノイズ増加。

記憶欠損。


文明局端末の警告表示が次々と赤く染まっていく。

それでも彼女は、子どもを抱いていた。


夜だった。

木造住宅へ雨音が響いている。

窓ガラスを叩く雨は強く、軒先からは一定の間隔で雫が落ちていた。

男の子は、いつものように言葉を話さない。

ただ、小さな手を伸ばしている。

白嶺はモニターを見つめる。


幸福指数、高値維持。

快楽反応、低。

承認波形、安定。

再計測。

結果は変わらない。


白嶺の眉が僅かに動く。

もう一度計測する。

それでも数値は変わらなかった。


「……違う」

小さく呟く。


端末を操作する。

波形を拡大。

記録を巻き戻す。

過去二十七日分を参照。

どこにも異常はない。

理解できなかった。


なぜ。

白嶺は静かに管理画面を開く。


人格補正。

発達制御。

認知修復。

NRV−0412データ変更。


修正率 31%。

48%。

67%。

数字が上がっていく。


白嶺は端末へ身を乗り出した。

修正率 79%。

84%。

91%。

机の上で指先が小さく動く。

落ち着かない。

本人も気付いていなかった。


「早く……」

修正率 95%。

97%。

99%。


白嶺は画面を見つめる。

修正率100%。


その瞬間。

映像へノイズが走った。

世界が一瞬だけ揺れる。

雨音が遠のく。


男の子が、ゆっくり顔を上げた。

「お母さん」


テレシアは動きを止めた。

抱いていた身体が腕の中で少しだけずり落ちる。


慌てて抱き直そうとして、指が思うように動かない。

瞬きをする。

視界が滲む。

世界の輪郭が二重に揺れる。

脳の限界が近かった。


それでも彼女は、男の子から目を離さなかった。


焦点の合わない瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「お前さん……」


子どもは、小さく笑った。


「ありがとう」


テレシアの肩が震える。

涙が溢れた。

頬を伝い、顎先から畳へ落ちる。


ぽたり。


小さな音がした。

長い時間をかけて。

本当に長い時間をかけて。

ようやく報われた人みたいに。


「もう大丈夫」


赤子は言う。


「ありがとう」


テレシアは何度も頷いた。


言葉が出ない。唇だけが震えている。


やがて両腕で、男の子を抱き寄せた。


壊れてしまいそうなほど強く。

失いたくないものを抱くみたいに。


「こちらこそ……」


声が掠れる。


「こちらこそ……ありがとうございます」


男の子は静かに微笑んでいた。

まるで最初から、全部分かっていたみたいに。


――画面が停止する。

雨音だけが残った。

木造住宅の映像は消え、暗いモニターへ白嶺の顔だけが映っている。


脳波消失。

人格維持終了。

生命活動停止。


文明局端末は、事務的な終了通知を淡々と表示していた。


セッション終了。

保存完了。

処理完了。

だが白嶺は、画面から目を離せなかった。


数秒前まで、そこには生活があった。


体温、泣き声、玩具を落とす音。

「お母さん」と呼ぶ声があった。


今はもう、何もない。

モニタールームの空調音だけが静かに響いている。

白嶺は、自分の指先を見る。


いつの間にか、小さく震えていた。

細かく。

規則性もなく。

まるで寒さに震えるみたいに。


白嶺はしばらく、その震えを眺めていた。

ゆっくり息を吐く。


「……なゆた……先生?」


自分の口から零れた名前に、白嶺は目を見開く。

遠い地下研究室。

薬品の匂い。

白い蛍光灯。

積み上がった論文。

冷えた缶コーヒー。


そして、嬉しそうに笑う白衣の女。

断片的な記憶が、水面へ浮かぶ泡みたいに脳裏を掠める。

だが掴めない。

掴もうとした瞬間、

また沈んでいく。


「先生?」

モニカが振り返る。


白嶺は答えない。

停止したモニターを見つめたまま、小さく呟く。


「ライラ・モニカ」


普段は呼ばない名前だった。


モニカは少しだけ息を呑む。


「――はい……」


数秒の沈黙。

白嶺はようやく立ち上がった。

椅子が小さく軋む。


「あとはお願いします」


自動ドアが開く。


廊下は白く、無機質な光で満たされていた。


白嶺は振り返らない。

ただ真っ直ぐ歩いていく。


それでも白嶺の耳には、まだ遠くで残っていた。

雨音と。

赤子の笑い声だけが。

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