5章 記憶 (3)体温
中枢化二十八日目。
テレシアの脳活動は急速に低下していた。
癌性脳浮腫。
人格維持限界。
視界ノイズ増加。
記憶欠損。
文明局端末の警告表示が次々と赤く染まっていく。
それでも彼女は、子どもを抱いていた。
夜だった。
木造住宅へ雨音が響いている。
窓ガラスを叩く雨は強く、軒先からは一定の間隔で雫が落ちていた。
男の子は、いつものように言葉を話さない。
ただ、小さな手を伸ばしている。
白嶺はモニターを見つめる。
幸福指数、高値維持。
快楽反応、低。
承認波形、安定。
再計測。
結果は変わらない。
白嶺の眉が僅かに動く。
もう一度計測する。
それでも数値は変わらなかった。
「……違う」
小さく呟く。
端末を操作する。
波形を拡大。
記録を巻き戻す。
過去二十七日分を参照。
どこにも異常はない。
理解できなかった。
なぜ。
白嶺は静かに管理画面を開く。
人格補正。
発達制御。
認知修復。
NRV−0412データ変更。
修正率 31%。
48%。
67%。
数字が上がっていく。
白嶺は端末へ身を乗り出した。
修正率 79%。
84%。
91%。
机の上で指先が小さく動く。
落ち着かない。
本人も気付いていなかった。
「早く……」
修正率 95%。
97%。
99%。
白嶺は画面を見つめる。
修正率100%。
その瞬間。
映像へノイズが走った。
世界が一瞬だけ揺れる。
雨音が遠のく。
男の子が、ゆっくり顔を上げた。
「お母さん」
テレシアは動きを止めた。
抱いていた身体が腕の中で少しだけずり落ちる。
慌てて抱き直そうとして、指が思うように動かない。
瞬きをする。
視界が滲む。
世界の輪郭が二重に揺れる。
脳の限界が近かった。
それでも彼女は、男の子から目を離さなかった。
焦点の合わない瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「お前さん……」
子どもは、小さく笑った。
「ありがとう」
テレシアの肩が震える。
涙が溢れた。
頬を伝い、顎先から畳へ落ちる。
ぽたり。
小さな音がした。
長い時間をかけて。
本当に長い時間をかけて。
ようやく報われた人みたいに。
「もう大丈夫」
赤子は言う。
「ありがとう」
テレシアは何度も頷いた。
言葉が出ない。唇だけが震えている。
やがて両腕で、男の子を抱き寄せた。
壊れてしまいそうなほど強く。
失いたくないものを抱くみたいに。
「こちらこそ……」
声が掠れる。
「こちらこそ……ありがとうございます」
男の子は静かに微笑んでいた。
まるで最初から、全部分かっていたみたいに。
――画面が停止する。
雨音だけが残った。
木造住宅の映像は消え、暗いモニターへ白嶺の顔だけが映っている。
脳波消失。
人格維持終了。
生命活動停止。
文明局端末は、事務的な終了通知を淡々と表示していた。
セッション終了。
保存完了。
処理完了。
だが白嶺は、画面から目を離せなかった。
数秒前まで、そこには生活があった。
体温、泣き声、玩具を落とす音。
「お母さん」と呼ぶ声があった。
今はもう、何もない。
モニタールームの空調音だけが静かに響いている。
白嶺は、自分の指先を見る。
いつの間にか、小さく震えていた。
細かく。
規則性もなく。
まるで寒さに震えるみたいに。
白嶺はしばらく、その震えを眺めていた。
ゆっくり息を吐く。
「……なゆた……先生?」
自分の口から零れた名前に、白嶺は目を見開く。
遠い地下研究室。
薬品の匂い。
白い蛍光灯。
積み上がった論文。
冷えた缶コーヒー。
そして、嬉しそうに笑う白衣の女。
断片的な記憶が、水面へ浮かぶ泡みたいに脳裏を掠める。
だが掴めない。
掴もうとした瞬間、
また沈んでいく。
「先生?」
モニカが振り返る。
白嶺は答えない。
停止したモニターを見つめたまま、小さく呟く。
「ライラ・モニカ」
普段は呼ばない名前だった。
モニカは少しだけ息を呑む。
「――はい……」
数秒の沈黙。
白嶺はようやく立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
「あとはお願いします」
自動ドアが開く。
廊下は白く、無機質な光で満たされていた。
白嶺は振り返らない。
ただ真っ直ぐ歩いていく。
それでも白嶺の耳には、まだ遠くで残っていた。
雨音と。
赤子の笑い声だけが。




