表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国白書  作者: 凛1129
PR
19/38

6章 既視感 (1)忘却の余燼<よじん>

応接室には、葉巻の匂いが薄く漂っていた。


 ヴィクター・ヴォルコフは窓際の椅子へ深く腰掛け、文明局本部の高層階から夜の都市を見下ろしている。窓の向こうでは、無数の輸送ドローンが青白い光を引きながら空を横切っていた。物流も交通も気候制御も、今ではほとんど人の手を必要としない。百年前なら未来都市と呼ばれた景色も、この時代ではただの日常だった。


 ヴィクターは百三十二歳だった。

再生医療と人工臓器移植、そして遺伝子補修によって、人類はかつて想像もできなかった寿命を手に入れた。ヴィクター自身もその恩恵を受けた一人だったが、それでも老いだけは完全には消えない。

葉巻へ火をつける指先には、わずかな震えが残っていた。火が灯るまで、少し時間がかかる。


 だがヴィクターは気にした様子もなく、ようやく灯った赤い火種を眺めてから、ゆっくり煙を吐いた。


 白嶺は向かい側の椅子に座っている。


「そういえば、マリアさんの件ですが」

 ヴィクターは視線だけを向ける。


「ああ」

「気に入ったんですか」

ヴィクターは少し笑った。

「肉体の話か」

「ええ」

「悪くない」

 白嶺は端末を操作し、先日の記録を確認する。

「ですが若すぎる」

「面倒だ」

ヴィクターは即答した。


「私は整備部品が欲しかっただけだ」

白嶺は黙ったまま、新しい依頼内容を表示した。

二十五歳前後の男性。

健康体。

神経疾患なし。

高い運動能力。


条件は簡潔だったが、あまりにも露骨だった。白嶺は数秒だけ画面を見つめ、それからヴィクターへ視線を戻す。


「脳移植ですか」

ヴィクターはすぐには答えなかった。


 窓の外では、輸送ドローンの光が幾筋も夜空を横切っている。老人はその光をしばらく眺めてから、唐突に口を開いた。


「ロシアじゃな。昔は三十まで生きられれば長生きだったそうだ」


白嶺は返事をしない。

話の繋がりは分からない。それでもヴィクターは構わず続けた。


「十七世紀初頭だ。動乱時代とか呼ばれているらしい。私も生まれていないから詳しくは知らんが、飢饉と戦争、それに疫病が重なって、何百万人も死んだそうだ。村ごと地図から消えた場所もあったらしい」


その口調は妙に穏やかだった。

悲惨な歴史を語っているのに、まるで遠い昔話を思い出しているようでもあった。


「人間はパン一切れのために殺し合っていた」


 窓へ映るヴィクターの顔は静かだった。百三十二年という時間が、その皺の奥に積もっている。


「その頃の人類は、百年生きたいと願った。老衰で死ねるだけで幸せだと、本気で思っていたんだろうな」

白嶺は椅子へ背中を預けた。

ヴィクター自身が、その話の続きみたいな存在だった。


「だが百年生きられるようになると、今度は百二十年を望む。百二十年を手に入れれば百五十年を望み、百五十年が見えてくれば、今度は若い身体が欲しくなる」


ヴィクターは自分の手を見た。

再生された皮膚。補修された骨。交換された臓器。

それでも若い頃の手ではない。


「そして若い身体が手に入るかもしれないとなれば、次は死にたくないと言い出す」

数秒の沈黙が落ちた。

遠くで輸送ドローンが光を引きながら通過していく。

「人類は進歩したわけじゃない」

ヴィクターの口元がわずかに歪む。

「欲望の予算が増えただけだ」

白嶺は端末を閉じた。


「だから脳移植ですか」


ヴィクターは鼻で笑う。


「だから脳移植だ」

否定も誤魔化しもなかった。


「今回の依頼人は百二十九歳。国家予算並みの資産を持ちながら、まだ人生が足りないらしい。現世で第二の人生を歩みたいそうだ」


白嶺は小さく息を吐いた。

「この時代によくやりますねぇ」


「禁止されているから価値がある」

ヴィクターは当然のように言った。


「文明局は人格移植を禁じた。肉体継承を禁じた。神経同一性移送も禁じた。だが欲望までは禁止できない。法律というのは、恐怖で止まる人間のためにある。欲望で動く人間は、いつの時代も別の道を探す」


白嶺は黙って聞いていた。

ヴィクターが何を見て、その結論へ辿り着いたのかを考えていた。


再び静寂が訪れる。

窓の外では、文明局の白い塔が都市の中心にそびえている。幸福を管理し、死を処理し、人類の終着点を設計する場所。その足元で、老人は禁じられた技術の依頼を当然のように口にしていた。


「禁呪みたいなものだ」

ヴィクターは呟く。


「本来なら存在しないはずだった。文明局が禁止した理由もそこにある」


白嶺は何も言わない。

ヴィクターは肩を竦めた。


「まぁ、あの女がいなければ生まれなかった技術だ」


「……」


「今でも分からん」

ヴィクターは窓へ映る自分の姿を見た。

「あの女が天才だったのか、狂人だったのか」

短い沈黙のあと、老人は小さく笑う。

「いや、最高かもしれんがな」

白嶺は黙っていた。


ヴィクターの視線は夜景から外れない。


「あの女はな、研究室の隣で人が倒れても気付かないような人間だった。いや、気付いていたのかもしれん。ただ興味が無かったんだろう」


ヴィクターは淡々と続ける。


「だが脳波モニターの数値が一つ変われば、三日寝ない。食事も忘れる。隣で誰が泣こうが倒れようが、そちらには目もくれないのに、数値の揺らぎだけは見逃さない」

ヴィクターは少しだけ口角を上げた。

「そういう女だった」


白嶺の指先が止まる。

脳の奥が、わずかに痛んだ。

白い研究室。

薬品の匂い。

遠くで誰かが笑う声。


知らないはずの断片が一瞬だけ浮かび、すぐに消えていく。


「……なゆた……先生?」


ヴィクターの動きが止まった。

驚きはしない。

ただ、静かに白嶺を見る。


数秒。


「その名前をどこで聞いた」

白嶺は少し考えた。

「分かりません」

「分からん?」

「最近です」

白嶺は自分でも説明に困っていた。


「記憶というか……夢というか。断片です」

ヴィクターは腕を組み、黙って聞いている。


「白い研究室。薬品の匂い。女性の声。それくらいしか」

白嶺は首を横へ振った。

「思い出せません」


ヴィクターはしばらく何も言わなかった。

応接室の空調音だけが、静かに続いている。


「そうか」


それだけだった。

白嶺はヴィクターを見る。

「知っているんですか」

ヴィクターは答えない。

代わりに、まったく別の質問をした。


「白嶺」

「はい」

「君は自分が何歳だと思う」


白嶺は少し考える。

「肉体年齢なら二十代後半でしょうか」


ヴィクターは鼻で笑った。

「そういう意味じゃない」

白嶺は黙る。

ヴィクターは続けた。

「君は今まで、自分を調べたことがあるか」

「あります」

即答だった。

「何度も」

「そして何も出なかった」


ヴィクターは小さく頷く。

まるで、その答えを最初から知っていたみたいに。


「なら、そのままでいい」


白嶺の眉がわずかに動く。

「なぜです」

ヴィクターは立ち上がった。

百三十二歳とは思えないほど背筋が伸びている。

先ほどまで震えていた指先も、その瞬間だけは別人のように静かだった。


「知らない方が幸せなこともある」

短い沈黙のあと、ヴィクターは小さく笑った。

「少なくとも、私はそう願っている」

白嶺は何も言わなかった。

ヴィクターはドアへ向かう。

途中で一度だけ立ち止まった。

「それと」

振り返らない。

「二十五歳前後の男だ。健康体で、使い物になる身体がいい」


白嶺は端末へ視線を落とす。

「急ぎですか」

「ああ」

ヴィクターは短く答えた。


「急いでくれ」

自動ドアが開く。

廊下の白い光が応接室へ差し込んだ。

ヴィクターはそのまま外へ出ていく。

ドアが閉じると、応接室には再び静寂が戻った。

葉巻の匂いだけが、まだ薄く残っている。

白嶺はしばらく動かなかった。

窓の向こうでは、輸送ドローンが変わらず夜空を横切っている。


人類は寿命を延ばし、死を遠ざけ、さらなる幸福を設計しようとした。


それでも、ひとつの名前だけが白嶺の中に残っている。

「なゆた先生……」


応接室には、葉巻の匂いだけがまだ薄く漂っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ