6章 既視感 (1)忘却の余燼<よじん>
応接室には、葉巻の匂いが薄く漂っていた。
ヴィクター・ヴォルコフは窓際の椅子へ深く腰掛け、文明局本部の高層階から夜の都市を見下ろしている。窓の向こうでは、無数の輸送ドローンが青白い光を引きながら空を横切っていた。物流も交通も気候制御も、今ではほとんど人の手を必要としない。百年前なら未来都市と呼ばれた景色も、この時代ではただの日常だった。
ヴィクターは百三十二歳だった。
再生医療と人工臓器移植、そして遺伝子補修によって、人類はかつて想像もできなかった寿命を手に入れた。ヴィクター自身もその恩恵を受けた一人だったが、それでも老いだけは完全には消えない。
葉巻へ火をつける指先には、わずかな震えが残っていた。火が灯るまで、少し時間がかかる。
だがヴィクターは気にした様子もなく、ようやく灯った赤い火種を眺めてから、ゆっくり煙を吐いた。
白嶺は向かい側の椅子に座っている。
「そういえば、マリアさんの件ですが」
ヴィクターは視線だけを向ける。
「ああ」
「気に入ったんですか」
ヴィクターは少し笑った。
「肉体の話か」
「ええ」
「悪くない」
白嶺は端末を操作し、先日の記録を確認する。
「ですが若すぎる」
「面倒だ」
ヴィクターは即答した。
「私は整備部品が欲しかっただけだ」
白嶺は黙ったまま、新しい依頼内容を表示した。
二十五歳前後の男性。
健康体。
神経疾患なし。
高い運動能力。
条件は簡潔だったが、あまりにも露骨だった。白嶺は数秒だけ画面を見つめ、それからヴィクターへ視線を戻す。
「脳移植ですか」
ヴィクターはすぐには答えなかった。
窓の外では、輸送ドローンの光が幾筋も夜空を横切っている。老人はその光をしばらく眺めてから、唐突に口を開いた。
「ロシアじゃな。昔は三十まで生きられれば長生きだったそうだ」
白嶺は返事をしない。
話の繋がりは分からない。それでもヴィクターは構わず続けた。
「十七世紀初頭だ。動乱時代とか呼ばれているらしい。私も生まれていないから詳しくは知らんが、飢饉と戦争、それに疫病が重なって、何百万人も死んだそうだ。村ごと地図から消えた場所もあったらしい」
その口調は妙に穏やかだった。
悲惨な歴史を語っているのに、まるで遠い昔話を思い出しているようでもあった。
「人間はパン一切れのために殺し合っていた」
窓へ映るヴィクターの顔は静かだった。百三十二年という時間が、その皺の奥に積もっている。
「その頃の人類は、百年生きたいと願った。老衰で死ねるだけで幸せだと、本気で思っていたんだろうな」
白嶺は椅子へ背中を預けた。
ヴィクター自身が、その話の続きみたいな存在だった。
「だが百年生きられるようになると、今度は百二十年を望む。百二十年を手に入れれば百五十年を望み、百五十年が見えてくれば、今度は若い身体が欲しくなる」
ヴィクターは自分の手を見た。
再生された皮膚。補修された骨。交換された臓器。
それでも若い頃の手ではない。
「そして若い身体が手に入るかもしれないとなれば、次は死にたくないと言い出す」
数秒の沈黙が落ちた。
遠くで輸送ドローンが光を引きながら通過していく。
「人類は進歩したわけじゃない」
ヴィクターの口元がわずかに歪む。
「欲望の予算が増えただけだ」
白嶺は端末を閉じた。
「だから脳移植ですか」
ヴィクターは鼻で笑う。
「だから脳移植だ」
否定も誤魔化しもなかった。
「今回の依頼人は百二十九歳。国家予算並みの資産を持ちながら、まだ人生が足りないらしい。現世で第二の人生を歩みたいそうだ」
白嶺は小さく息を吐いた。
「この時代によくやりますねぇ」
「禁止されているから価値がある」
ヴィクターは当然のように言った。
「文明局は人格移植を禁じた。肉体継承を禁じた。神経同一性移送も禁じた。だが欲望までは禁止できない。法律というのは、恐怖で止まる人間のためにある。欲望で動く人間は、いつの時代も別の道を探す」
白嶺は黙って聞いていた。
ヴィクターが何を見て、その結論へ辿り着いたのかを考えていた。
再び静寂が訪れる。
窓の外では、文明局の白い塔が都市の中心にそびえている。幸福を管理し、死を処理し、人類の終着点を設計する場所。その足元で、老人は禁じられた技術の依頼を当然のように口にしていた。
「禁呪みたいなものだ」
ヴィクターは呟く。
「本来なら存在しないはずだった。文明局が禁止した理由もそこにある」
白嶺は何も言わない。
ヴィクターは肩を竦めた。
「まぁ、あの女がいなければ生まれなかった技術だ」
「……」
「今でも分からん」
ヴィクターは窓へ映る自分の姿を見た。
「あの女が天才だったのか、狂人だったのか」
短い沈黙のあと、老人は小さく笑う。
「いや、最高かもしれんがな」
白嶺は黙っていた。
ヴィクターの視線は夜景から外れない。
「あの女はな、研究室の隣で人が倒れても気付かないような人間だった。いや、気付いていたのかもしれん。ただ興味が無かったんだろう」
ヴィクターは淡々と続ける。
「だが脳波モニターの数値が一つ変われば、三日寝ない。食事も忘れる。隣で誰が泣こうが倒れようが、そちらには目もくれないのに、数値の揺らぎだけは見逃さない」
ヴィクターは少しだけ口角を上げた。
「そういう女だった」
白嶺の指先が止まる。
脳の奥が、わずかに痛んだ。
白い研究室。
薬品の匂い。
遠くで誰かが笑う声。
知らないはずの断片が一瞬だけ浮かび、すぐに消えていく。
「……なゆた……先生?」
ヴィクターの動きが止まった。
驚きはしない。
ただ、静かに白嶺を見る。
数秒。
「その名前をどこで聞いた」
白嶺は少し考えた。
「分かりません」
「分からん?」
「最近です」
白嶺は自分でも説明に困っていた。
「記憶というか……夢というか。断片です」
ヴィクターは腕を組み、黙って聞いている。
「白い研究室。薬品の匂い。女性の声。それくらいしか」
白嶺は首を横へ振った。
「思い出せません」
ヴィクターはしばらく何も言わなかった。
応接室の空調音だけが、静かに続いている。
「そうか」
それだけだった。
白嶺はヴィクターを見る。
「知っているんですか」
ヴィクターは答えない。
代わりに、まったく別の質問をした。
「白嶺」
「はい」
「君は自分が何歳だと思う」
白嶺は少し考える。
「肉体年齢なら二十代後半でしょうか」
ヴィクターは鼻で笑った。
「そういう意味じゃない」
白嶺は黙る。
ヴィクターは続けた。
「君は今まで、自分を調べたことがあるか」
「あります」
即答だった。
「何度も」
「そして何も出なかった」
ヴィクターは小さく頷く。
まるで、その答えを最初から知っていたみたいに。
「なら、そのままでいい」
白嶺の眉がわずかに動く。
「なぜです」
ヴィクターは立ち上がった。
百三十二歳とは思えないほど背筋が伸びている。
先ほどまで震えていた指先も、その瞬間だけは別人のように静かだった。
「知らない方が幸せなこともある」
短い沈黙のあと、ヴィクターは小さく笑った。
「少なくとも、私はそう願っている」
白嶺は何も言わなかった。
ヴィクターはドアへ向かう。
途中で一度だけ立ち止まった。
「それと」
振り返らない。
「二十五歳前後の男だ。健康体で、使い物になる身体がいい」
白嶺は端末へ視線を落とす。
「急ぎですか」
「ああ」
ヴィクターは短く答えた。
「急いでくれ」
自動ドアが開く。
廊下の白い光が応接室へ差し込んだ。
ヴィクターはそのまま外へ出ていく。
ドアが閉じると、応接室には再び静寂が戻った。
葉巻の匂いだけが、まだ薄く残っている。
白嶺はしばらく動かなかった。
窓の向こうでは、輸送ドローンが変わらず夜空を横切っている。
人類は寿命を延ばし、死を遠ざけ、さらなる幸福を設計しようとした。
それでも、ひとつの名前だけが白嶺の中に残っている。
「なゆた先生……」
応接室には、葉巻の匂いだけがまだ薄く漂っていた。




