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天国白書  作者: 凛1129
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20/38

6章 既視感 (2)紅の日食

挿絵(By みてみん)

 ヴィクターから依頼を受けた翌日。

白嶺はモニタールームで候補者のデータを眺めていた。


だが条件を満たす人間は意外と少なかった。身体能力が優秀でも神経障害の既往があり、認知能力が高くても精神疾患歴がある。遺伝子補正の副作用が残っている者もいて、白嶺は無言で候補を消していった。


 モニターへ来訪者通知が表示された。

中枢化事前契約。

火星移住計画参加者。

白嶺はデータを開いた。

 

火星移住計画の参加者は、出発前に天国センターとの契約を結ぶ。


開拓者優先中枢化制度。

人類圏外へ向かう者には、事故死した場合でも人格データの受理と中枢化手続きが優先される特例が与えられていた。

縁起が悪いと嫌がる者もいる。


だが、火星へ向かう以上、死は契約書の中に最初から含まれている。


リオ・ヴァレン。

二十四歳。

男性。

火星生活圏基盤整備計画、第一次建設隊。

出発日まで三日、七月七日水曜日。


白嶺は端末を閉じ、立ち上がった。

契約室は同じ階の奥にある。


自動ドアが音もなく開くと、廊下の空気が静かに流れ込んできた。建物内の温度は一定に保たれている。暑さも寒さも、ここではほとんど意味を持たない。


それでも、外が夏であることは分かった。

壁面ガラスの向こうで、都市の輪郭が白く滲んでいる。遠くの建物は熱に揺れ、空は晴れているのに薄い膜をかけたように霞んでいた。

地表冷却プレートが、道路の下で淡く点滅している。


かつてなら異常気象と呼ばれた温度も、今では珍しくない。人々は地上を避け、地下通路や空中回廊を使って移動する。建物は人間から季節を遠ざけ、都市は暑さを制御することで、ようやく日常を維持していた。

壁面表示には、日付だけが淡々と浮かんでいる。


7月4日、日曜日。

白嶺はそれを一瞥(いちべつ)し、契約室へ向かった。


「先生」

背後から声をかけられた。

モニカだった。


片手に端末を持ち、もう片方の手には紙コップのコーヒーを二つ持っている。ひとつを白嶺へ差し出した。


「火星移住計画の事前契約です」

「見ました」

「見ました、じゃなくて。今回は優先枠ですよ」

白嶺はコーヒーを受け取る。

「開拓者優先中枢化制度ですか」


「そうです。火星行きの人たちは、万が一があった時に通常待機を飛ばして接続されます。国家開拓貢献者扱いですから」

「死ぬことを前提にした優遇ですね」

「言い方」

モニカは顔をしかめた。

白嶺は壁面ガラスの向こうを見る。


外の景色は熱で白く滲んでいた。地表冷却プレートが道路の下で淡く点滅し、人々は地上を避けるように空中回廊を移動している。


「火星へ行くより、外を歩く方が危険そうですね」

「そういう冗談、言うんですね」

「冗談ではありません」

「じゃあもっと嫌です」


 モニカは小さく息を吐いた。


「契約者、もう来ています。リオ・ヴァレン。二十四歳。火星移住計画第一次入植団です」


「二十四歳」

白嶺は端末へ視線を落とした。

「若いですね」

「若いですよ。なのに妙に落ち着いてます」

「緊張していない?」

「全然。むしろ楽しそうです」

白嶺は少しだけ眉を動かした。

「火星へ行くのが、ですか」

「はい」


「普通の契約なら行政窓口で済むはずですが」

「火星移住計画の参加者は別です」


モニカは契約室の扉へ視線を向ける。


「開拓者優先中枢化制度です。事故時に通常待機を飛ばして接続される代わりに、出発前の人格基準データをここで取ります」


「人格基準データ」


 「脳波、記憶構造、人格波形、幸福設計適性。死亡時に脳がどこまで損傷しているか分かりませんから」


モニカは端末を操作する。


「行政窓口で契約書だけ書かせても、いざ事故が起きた時に使えるデータが残っていなければ意味がありません」


「合理的ですね」


「縁起は悪いですけどね」

モニカは少しだけ苦笑した。


「でも火星へ行く人たちは、だいたい笑ってサインしますよ。死ぬ前提で書類を書くのに」


「なぜです」

「さあ」

モニカは契約室の中へ視線を向けた。

「たぶん、死ぬ気がないからじゃないですか」


モニカは契約室の扉へ視線を向ける。

「変な人ですよ。たぶん先生と少し話が合います」


「それは失礼ですね」


「どっちに?」

モニカは肩を竦めた。

 

白嶺は答えず、契約室の扉へ向かった。

自動ドアが開く。

そこには金髪の青年が座っていた。


長い脚を組み、背もたれに軽く身体を預けている。火星移住計画の訓練服は白を基調とした簡素なものだったが、彼が着ると妙に未来的に見えた。

肩まで届かない明るい金髪に、日焼けした肌。よく笑う人間特有の目元の柔らかさがあるのに、姿勢には隙がない。若い身体の中に、どこか古い余裕が混じっていた。

 

青年は部屋へ入ってきた白嶺を見るなり、明るく笑った。


「おお、本物だ」


モニカが小さく呟く。

「ほら、変な人」


「本物ですか?」

白嶺は、静かにリオへ聞いた。


白嶺(はくれい)先生」

リオは立ち上がった。

「事前契約の説明映像で見ました。死んだら、この人の所に送られますって」

「随分、縁起の悪い説明ですね」

「でしょう?でも火星行きの連中には評判いいですよ」

「なぜです」

「顔が分かってると、死ぬのも少し現実味がなくなる」

リオは明るく笑った。

「まあ、会うつもりはありませんけど」


白嶺は少し考えた。

「――それは賢明です」


 白嶺は端末を操作する。

「診断を始めます」

「どうぞ」

天井から柔らかな光が降りた。

リオの周囲へ細かな粒子が浮かび上がり、身体の輪郭をなぞるように流れていく。


全身スキャン。

神経伝導速度。

脳活動解析。

遺伝子情報。

人格波形。


 数十秒後、診断は終了した。

リオは自分の手のひらを見つめていた。

「不思議ですね」


「何がですか」


「身体って、本人より先に全部知られるんだなと思って」

白嶺は端末から視線を上げた。

「気になりますか」

「いえ」

リオは軽く手を握り、すぐに開いた。


「むしろ安心します。自分の主観ほど信用できないものはないので」

白嶺の指が止まる。

「二十四歳にしては、随分と達観した言い方ですね」


「火星へ行く人間は、みんな少しくらい達観してますよ」

リオは笑った。


「そうでないと、出発前にこんな書類へサインできません」

「死ぬことを想定した契約ですからね」

「死ぬつもりはありません」

返答は早かった。


だが、軽くはなかった。

「ただ、死ぬ可能性を無視するほど若くもない」


白嶺はリオを見る。

二十四歳。

診断結果にも戸籍情報にも矛盾はない。

それでも今の言葉だけが、わずかに年齢から浮いていた。

「若くもない、ですか」


リオは一瞬だけ黙った。

そして、すぐに明るく笑う。

「宇宙では一秒でも判断が遅れたら年齢なんて関係ない、という意味です」


「なるほど」

白嶺は端末へ視線を戻した。

説明は自然だった。自然すぎるほどに。


白嶺は端末へ視線を戻したが、指先だけがしばらく動かなかった。


「火星へ行くのは夢だったんです」

リオは天井を見上げる。

「今は違う」

「そう。だから行く」


白嶺は尋ねる。

「怖くないんですか」

リオは少し考えた。

「怖いですよ」

「それでも?」

「怖いから面白い」


当たり前みたいにリオは言った。

「どうせなら見たことがない景色を見たいんです」


白嶺はリオを見たまま数秒黙った。次の質問へ移ろうとして、端末の上で指を止める。


「……興味深いですね」


リオは笑った。

「それ、褒めてます?」

「観察対象としては」

「ひどいな」

リオはそう言いながら、少しも嫌そうではなかった。


契約は数分で終わった。

リオは立ち上がる。

「もし死んだらよろしくお願いします」


「その時は」

白嶺は答える。

「歓迎します」


リオは笑った。

「それじゃ困るな」

そう言って、リオは契約室を出ていった。

扉が閉じる。


室内には、先ほどまでの明るい声だけが少し残っているようだった。

モニカは端末を確認しながら、小さく息を吐いた。

「変な人でしたね」

「そうですか」

「ええ。火星に行く三日前に、死後契約へ来て、あんなに楽しそうに笑える人は普通じゃないです」

白嶺はリオが出ていった扉を見ていた。


「恐怖反応は低いですね」

「先生、そういう見方しかできないんですか」

「他にどう見れば?」

「普通に、明るい人だなとか」

「明るい……」

白嶺はその言葉を繰り返した。

モニカは少し呆れたように笑う。

「そうです。明るい若者。ちょっと変わってますけど、火星へ行く人なんてだいたい変わってるんじゃないですか」

「なるほど」

「それに、いい人そうでしたよ」

「どこがです」

「人の目を見て話すところとか、冗談を受けるところとか、怖がってないふりをしてるわけじゃないところとか」


モニカはリオのデータを閉じた。

「少なくとも、ここに来る人の中では珍しく嫌な感じがしませんでした」


白嶺は答えなかった。

モニカはリオのデータを閉じた。


彼女の中では、リオはただの明るい若者だった。死を前提にした契約を笑って済ませる、少し変わった火星行きの青年。

それ以上ではない。


それだけだった。

白嶺は端末に残った診断結果へ視線を落とす。

身体状態。

神経状態。

認知能力。

運動能力。

人格波形。

どれも基準値を大きく超えている。


それ自体は、火星移住計画の参加者なら珍しくない。だがリオの数値は整いすぎていた。高いだけではなく、歪みも欠損も少ない。それでいて、完全に平均化されているわけでもない。


「先生?」

モニカが顔を上げる。

「どうしました?」

「いえ」

白嶺は端末を懐へ収めた。

「少し確認したいことがあります」

「リオさんのデータですか?」

「火星移住計画の形式です」

「また細かいところ見てるんですか」

「細かいところに、たまに大きな問題があります」

モニカは肩を竦めた。

「出ました。先生のそれ」

「それ?」

「気になったら止まらないやつです」

白嶺は少し考えた。

「そうでしょうか」

「そうです」


モニカは紙コップを片づけながら言った。

「でも今回の人は、普通に無事帰ってきてほしいですね」


白嶺は扉の方を見た。

「なぜです」

「いい人そうだったからです」

モニカは当然のように答えた。

白嶺は何も言わなかった。

その答えは、数値ではなかった。


だが、モニカの中では十分な理由になっているらしい。

「そうですか」

白嶺は短く言い、契約室を出た。


白嶺の個室は、モニタールームの奥にある。

研究室というより、隔離された観察室に近かった。


壁一面には利用者データへ接続するための薄い端末が並び、机の上には読みかけの論文と冷めたコーヒーが置かれている。

白嶺は椅子へ座ると、リオ・ヴァレンの診断結果を再び開いた。


二十四歳。

男性。

火星移住計画第一次入植団。

予定出発日、七月七日。

身体状態、極めて良好。

神経疾患、該当なし。

運動能力、上位〇・〇三パーセント。

認知能力、上位〇・〇一パーセント。

人格波形、安定。

幸福設計適性、異常なし。

白嶺は無言で画面を進める。

ヴィクターの条件を隣に表示した。

リオのデータは、その条件にほとんど重なっていた。


偶然と呼ぶには、少し整いすぎている。

白嶺はしばらく画面を見つめていた。

モニカの声が頭に残っている。


 ――普通に、明るい人だなとか。


白嶺は指先を止めた。

普通。明るい。いい人そう。

その評価は、どれもデータには表示されない。


だがリオ・ヴァレンという人間を見た時、モニカは真っ先にそこを見ていた。


「送信画面を」

白嶺が呟くと送信画面が開く。


宛先はヴィクター・ヴォルコフ。本文欄は空白のまま、添付にはリオ・ヴァレン基準診断データだけが入っている。


白嶺は一度だけ送信前の画面を見た。

それから静かに指を下ろす。


送信完了。


個室には、端末の微かな動作音だけが残った。

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