6章 既視感 (2)紅の日食
ヴィクターから依頼を受けた翌日。
白嶺はモニタールームで候補者のデータを眺めていた。
だが条件を満たす人間は意外と少なかった。身体能力が優秀でも神経障害の既往があり、認知能力が高くても精神疾患歴がある。遺伝子補正の副作用が残っている者もいて、白嶺は無言で候補を消していった。
モニターへ来訪者通知が表示された。
中枢化事前契約。
火星移住計画参加者。
白嶺はデータを開いた。
火星移住計画の参加者は、出発前に天国センターとの契約を結ぶ。
開拓者優先中枢化制度。
人類圏外へ向かう者には、事故死した場合でも人格データの受理と中枢化手続きが優先される特例が与えられていた。
縁起が悪いと嫌がる者もいる。
だが、火星へ向かう以上、死は契約書の中に最初から含まれている。
リオ・ヴァレン。
二十四歳。
男性。
火星生活圏基盤整備計画、第一次建設隊。
出発日まで三日、七月七日水曜日。
白嶺は端末を閉じ、立ち上がった。
契約室は同じ階の奥にある。
自動ドアが音もなく開くと、廊下の空気が静かに流れ込んできた。建物内の温度は一定に保たれている。暑さも寒さも、ここではほとんど意味を持たない。
それでも、外が夏であることは分かった。
壁面ガラスの向こうで、都市の輪郭が白く滲んでいる。遠くの建物は熱に揺れ、空は晴れているのに薄い膜をかけたように霞んでいた。
地表冷却プレートが、道路の下で淡く点滅している。
かつてなら異常気象と呼ばれた温度も、今では珍しくない。人々は地上を避け、地下通路や空中回廊を使って移動する。建物は人間から季節を遠ざけ、都市は暑さを制御することで、ようやく日常を維持していた。
壁面表示には、日付だけが淡々と浮かんでいる。
7月4日、日曜日。
白嶺はそれを一瞥し、契約室へ向かった。
「先生」
背後から声をかけられた。
モニカだった。
片手に端末を持ち、もう片方の手には紙コップのコーヒーを二つ持っている。ひとつを白嶺へ差し出した。
「火星移住計画の事前契約です」
「見ました」
「見ました、じゃなくて。今回は優先枠ですよ」
白嶺はコーヒーを受け取る。
「開拓者優先中枢化制度ですか」
「そうです。火星行きの人たちは、万が一があった時に通常待機を飛ばして接続されます。国家開拓貢献者扱いですから」
「死ぬことを前提にした優遇ですね」
「言い方」
モニカは顔をしかめた。
白嶺は壁面ガラスの向こうを見る。
外の景色は熱で白く滲んでいた。地表冷却プレートが道路の下で淡く点滅し、人々は地上を避けるように空中回廊を移動している。
「火星へ行くより、外を歩く方が危険そうですね」
「そういう冗談、言うんですね」
「冗談ではありません」
「じゃあもっと嫌です」
モニカは小さく息を吐いた。
「契約者、もう来ています。リオ・ヴァレン。二十四歳。火星移住計画第一次入植団です」
「二十四歳」
白嶺は端末へ視線を落とした。
「若いですね」
「若いですよ。なのに妙に落ち着いてます」
「緊張していない?」
「全然。むしろ楽しそうです」
白嶺は少しだけ眉を動かした。
「火星へ行くのが、ですか」
「はい」
「普通の契約なら行政窓口で済むはずですが」
「火星移住計画の参加者は別です」
モニカは契約室の扉へ視線を向ける。
「開拓者優先中枢化制度です。事故時に通常待機を飛ばして接続される代わりに、出発前の人格基準データをここで取ります」
「人格基準データ」
「脳波、記憶構造、人格波形、幸福設計適性。死亡時に脳がどこまで損傷しているか分かりませんから」
モニカは端末を操作する。
「行政窓口で契約書だけ書かせても、いざ事故が起きた時に使えるデータが残っていなければ意味がありません」
「合理的ですね」
「縁起は悪いですけどね」
モニカは少しだけ苦笑した。
「でも火星へ行く人たちは、だいたい笑ってサインしますよ。死ぬ前提で書類を書くのに」
「なぜです」
「さあ」
モニカは契約室の中へ視線を向けた。
「たぶん、死ぬ気がないからじゃないですか」
モニカは契約室の扉へ視線を向ける。
「変な人ですよ。たぶん先生と少し話が合います」
「それは失礼ですね」
「どっちに?」
モニカは肩を竦めた。
白嶺は答えず、契約室の扉へ向かった。
自動ドアが開く。
そこには金髪の青年が座っていた。
長い脚を組み、背もたれに軽く身体を預けている。火星移住計画の訓練服は白を基調とした簡素なものだったが、彼が着ると妙に未来的に見えた。
肩まで届かない明るい金髪に、日焼けした肌。よく笑う人間特有の目元の柔らかさがあるのに、姿勢には隙がない。若い身体の中に、どこか古い余裕が混じっていた。
青年は部屋へ入ってきた白嶺を見るなり、明るく笑った。
「おお、本物だ」
モニカが小さく呟く。
「ほら、変な人」
「本物ですか?」
白嶺は、静かにリオへ聞いた。
「白嶺先生」
リオは立ち上がった。
「事前契約の説明映像で見ました。死んだら、この人の所に送られますって」
「随分、縁起の悪い説明ですね」
「でしょう?でも火星行きの連中には評判いいですよ」
「なぜです」
「顔が分かってると、死ぬのも少し現実味がなくなる」
リオは明るく笑った。
「まあ、会うつもりはありませんけど」
白嶺は少し考えた。
「――それは賢明です」
白嶺は端末を操作する。
「診断を始めます」
「どうぞ」
天井から柔らかな光が降りた。
リオの周囲へ細かな粒子が浮かび上がり、身体の輪郭をなぞるように流れていく。
全身スキャン。
神経伝導速度。
脳活動解析。
遺伝子情報。
人格波形。
数十秒後、診断は終了した。
リオは自分の手のひらを見つめていた。
「不思議ですね」
「何がですか」
「身体って、本人より先に全部知られるんだなと思って」
白嶺は端末から視線を上げた。
「気になりますか」
「いえ」
リオは軽く手を握り、すぐに開いた。
「むしろ安心します。自分の主観ほど信用できないものはないので」
白嶺の指が止まる。
「二十四歳にしては、随分と達観した言い方ですね」
「火星へ行く人間は、みんな少しくらい達観してますよ」
リオは笑った。
「そうでないと、出発前にこんな書類へサインできません」
「死ぬことを想定した契約ですからね」
「死ぬつもりはありません」
返答は早かった。
だが、軽くはなかった。
「ただ、死ぬ可能性を無視するほど若くもない」
白嶺はリオを見る。
二十四歳。
診断結果にも戸籍情報にも矛盾はない。
それでも今の言葉だけが、わずかに年齢から浮いていた。
「若くもない、ですか」
リオは一瞬だけ黙った。
そして、すぐに明るく笑う。
「宇宙では一秒でも判断が遅れたら年齢なんて関係ない、という意味です」
「なるほど」
白嶺は端末へ視線を戻した。
説明は自然だった。自然すぎるほどに。
白嶺は端末へ視線を戻したが、指先だけがしばらく動かなかった。
「火星へ行くのは夢だったんです」
リオは天井を見上げる。
「今は違う」
「そう。だから行く」
白嶺は尋ねる。
「怖くないんですか」
リオは少し考えた。
「怖いですよ」
「それでも?」
「怖いから面白い」
当たり前みたいにリオは言った。
「どうせなら見たことがない景色を見たいんです」
白嶺はリオを見たまま数秒黙った。次の質問へ移ろうとして、端末の上で指を止める。
「……興味深いですね」
リオは笑った。
「それ、褒めてます?」
「観察対象としては」
「ひどいな」
リオはそう言いながら、少しも嫌そうではなかった。
契約は数分で終わった。
リオは立ち上がる。
「もし死んだらよろしくお願いします」
「その時は」
白嶺は答える。
「歓迎します」
リオは笑った。
「それじゃ困るな」
そう言って、リオは契約室を出ていった。
扉が閉じる。
室内には、先ほどまでの明るい声だけが少し残っているようだった。
モニカは端末を確認しながら、小さく息を吐いた。
「変な人でしたね」
「そうですか」
「ええ。火星に行く三日前に、死後契約へ来て、あんなに楽しそうに笑える人は普通じゃないです」
白嶺はリオが出ていった扉を見ていた。
「恐怖反応は低いですね」
「先生、そういう見方しかできないんですか」
「他にどう見れば?」
「普通に、明るい人だなとか」
「明るい……」
白嶺はその言葉を繰り返した。
モニカは少し呆れたように笑う。
「そうです。明るい若者。ちょっと変わってますけど、火星へ行く人なんてだいたい変わってるんじゃないですか」
「なるほど」
「それに、いい人そうでしたよ」
「どこがです」
「人の目を見て話すところとか、冗談を受けるところとか、怖がってないふりをしてるわけじゃないところとか」
モニカはリオのデータを閉じた。
「少なくとも、ここに来る人の中では珍しく嫌な感じがしませんでした」
白嶺は答えなかった。
モニカはリオのデータを閉じた。
彼女の中では、リオはただの明るい若者だった。死を前提にした契約を笑って済ませる、少し変わった火星行きの青年。
それ以上ではない。
それだけだった。
白嶺は端末に残った診断結果へ視線を落とす。
身体状態。
神経状態。
認知能力。
運動能力。
人格波形。
どれも基準値を大きく超えている。
それ自体は、火星移住計画の参加者なら珍しくない。だがリオの数値は整いすぎていた。高いだけではなく、歪みも欠損も少ない。それでいて、完全に平均化されているわけでもない。
「先生?」
モニカが顔を上げる。
「どうしました?」
「いえ」
白嶺は端末を懐へ収めた。
「少し確認したいことがあります」
「リオさんのデータですか?」
「火星移住計画の形式です」
「また細かいところ見てるんですか」
「細かいところに、たまに大きな問題があります」
モニカは肩を竦めた。
「出ました。先生のそれ」
「それ?」
「気になったら止まらないやつです」
白嶺は少し考えた。
「そうでしょうか」
「そうです」
モニカは紙コップを片づけながら言った。
「でも今回の人は、普通に無事帰ってきてほしいですね」
白嶺は扉の方を見た。
「なぜです」
「いい人そうだったからです」
モニカは当然のように答えた。
白嶺は何も言わなかった。
その答えは、数値ではなかった。
だが、モニカの中では十分な理由になっているらしい。
「そうですか」
白嶺は短く言い、契約室を出た。
白嶺の個室は、モニタールームの奥にある。
研究室というより、隔離された観察室に近かった。
壁一面には利用者データへ接続するための薄い端末が並び、机の上には読みかけの論文と冷めたコーヒーが置かれている。
白嶺は椅子へ座ると、リオ・ヴァレンの診断結果を再び開いた。
二十四歳。
男性。
火星移住計画第一次入植団。
予定出発日、七月七日。
身体状態、極めて良好。
神経疾患、該当なし。
運動能力、上位〇・〇三パーセント。
認知能力、上位〇・〇一パーセント。
人格波形、安定。
幸福設計適性、異常なし。
白嶺は無言で画面を進める。
ヴィクターの条件を隣に表示した。
リオのデータは、その条件にほとんど重なっていた。
偶然と呼ぶには、少し整いすぎている。
白嶺はしばらく画面を見つめていた。
モニカの声が頭に残っている。
――普通に、明るい人だなとか。
白嶺は指先を止めた。
普通。明るい。いい人そう。
その評価は、どれもデータには表示されない。
だがリオ・ヴァレンという人間を見た時、モニカは真っ先にそこを見ていた。
「送信画面を」
白嶺が呟くと送信画面が開く。
宛先はヴィクター・ヴォルコフ。本文欄は空白のまま、添付にはリオ・ヴァレン基準診断データだけが入っている。
白嶺は一度だけ送信前の画面を見た。
それから静かに指を下ろす。
送信完了。
個室には、端末の微かな動作音だけが残った。




