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天国白書  作者: 凛1129
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6章 既視感 (3)アルゴスの沈黙

挿絵(By みてみん)

「……馬鹿な」

白嶺の指が止まった。


モニタールームの壁面には、火星生活圏基盤整備計画の事故速報が表示されている。


火星移送船アルゴス

乗員十二名。

出発から二十四時間後、生命維持系統に重大異常。

任務中止。

地球圏へ緊急帰還中。


白嶺は画面を閉じなかった。

もう一度、報告書を開く。


乗員区画七番リオ・ヴァレン、二十四歳。

生命維持ユニット異常、仮死状態。


白嶺は数秒だけ黙った。

モニターの隅には、前日に会った青年の顔が表示されている。明るい金髪に白い訓練服。火星へ行くことを、怖いから面白いと言った男だった。


その身体データは、ヴィクターの条件にほとんど一致していた。


そして今、その男は地球へ戻されようとしている。

「こんな、都合よく……」

白嶺は小さく呟いた。

モニカが振り返る。

「先生?」

白嶺は答えない。

事故報告の再生ボタンに指を置いた。

数秒後、火星移送船アルゴスの船内記録が表示される。


7月8日、木曜日。

火星移送船アルゴスは地球軌道を離脱した。

船長は張偉龍(チャン・ウェイロン)

乗員は十二名。

《アルゴス》は単なる探査船ではなかった。

船内には自律建設機、地下掘削ユニット、酸素生成炉、通信塔基材、小型発電炉の中枢部品が積み込まれている。


人類はすでに何度も火星へ機械を送っていた。

無人探査機も、建設ドローンも、資材投下船も送り込まれている。

だが人間が火星で暮らし続けるための基盤を、人間自身が現地で組み上げる計画はこれが初めてだった。


火星生活圏基盤整備計画。

《アルゴス》に乗る十二名は、その第一次建設隊だった。

世界中が、その出発を見守っていた。


無重力で金髪が少し浮いている。

白い訓練服の袖を片手で押さえながら、リオは子どもみたいに笑っていた。


「見えてる?」


隣の乗組員が呆れたように言う。

「何が」

「地球」

「見えてるだろ。そこにある」

「違う。小さくなっていく地球」

リオは窓の外を指差した。


「今しか見られないんだぞ」

「出発してからずっとそれ言ってるな」

「当たり前だろ」

リオは振り返る。


「俺たちは地球から離れてるんじゃない。人間が住める場所を増やしに行くんだ」


乗組員が笑う。

「演説か?」

「練習だよ。火星で一番最初に言う台詞を考えてる」

「何て言うつもりだ」

リオは少し考えた。


「まずは、発電炉を置く場所を間違えるな、かな」

周囲から小さな笑いが起きる。

船内は穏やかだった。

緊張はある。

だが恐怖に支配されてはいない。


十二名の乗組員は、自分たちが危険な任務へ向かっていることを理解していた。

それでも、この映像の中には出発直後の高揚があった。

リオは座席へ戻りながら、まだ窓の外を見ている。


「火星に道路を作るんだ」

リオは窓の外を見たまま言った。

「最初の空気、最初の水、最初の灯り。そういうのを作りに行く」

「詩人だな」

「違う」

リオは笑った。


「現場作業員だ」


そう言って、リオは端末に表示された資材配置図を指で動かした。

「発電炉はここじゃない。ここに置くと砂嵐の時に補給路が死ぬ。最初の一基は居住区より通信塔に近い方がいい」

「到着前から仕事か」

「着いてから考える奴は、だいたい現場で邪魔になる」

白嶺は映像を止めた。


停止した映像の中で、リオはまだ笑っていた。

前日に契約室で会った時と同じ顔だった。明るく、よく笑い、死を前提にした契約すら冗談に変える。

数値では説明しにくい種類の、人を巻き込む力があった。


白嶺は停止した映像を見つめたまま、次の記録を開いた。

異常が発生したのは、出発から二十四時間後だった。

《アルゴス》は月軌道を通過している。


地球はすでに背後で小さくなり、火星はまだ赤い点に近かった。

その時間帯、乗組員の多くは第一休眠に入っていた。


長期航行へ身体を慣らすため、出発直後の二日間は睡眠周期が人工的に調整される。個人生命維持ユニットは、乗員ごとの生体データに合わせて酸素濃度、二酸化炭素除去、体温、循環補助を管理していた。


最初に変化したのは、乗員区画七番の二酸化炭素除去率だった。

わずかに落ちる。

続いて、酸素供給の補正が遅れた。

医療AIは即座に異常を検知し、補助換気へ切り替えようとする。

だが命令は通らなかった。


権限エラー。

蘇生プロトコル停止。

生体維持優先順位変更。


通常ならあり得ない表示が、続けて画面に浮かぶ。

対象。

リオ・ヴァレン。

船内へ警報が鳴り響いた。


張船長がブリッジへ駆け込む。

「状況は」

「乗員一名、生命維持異常。リオ・ヴァレン、心停止に移行」

「蘇生は」

「医療AIが開始しています。しかし、補助換気と循環補助が権限エラーで停止」

「手動介入」

「受け付けません」


張船長は一瞬だけ黙った。

「受け付けない?」

「はい。ユニットが船長権限を拒否しています」


その意味を、誰もすぐには受け入れられなかった。


「操作ログは」


張船長が低い声で言った。

管制席の一人が、すぐに該当ユニットの履歴を呼び出す。


数秒。

その顔色が変わった。

「ありません」

「何が」

「異常発生の直前、三秒間の操作履歴が空白です」


張船長の目が細くなる。

「空白?」


「はい。通常なら、故障でも介入でもログは残ります」

「消えたのか」

「消された、という方が近いかと」

誰も続きを言わなかった。単純な故障ではない。


この時代、火星船は、人間一人の生命維持異常程度では止まらない。医療AIは、心停止からの蘇生を前提に設計されている。

まして《アルゴス》は、人類圏外へ向かうための船だった。

単純な故障で乗員一名を救えないなど、本来なら起きない。


張船長は歯を食いしばる。

「地球管制へ繋げ」


数分後、宇宙管制センターとの回線が開いた。

「こちらアルゴス。乗員一名、生命維持異常。医療AIの蘇生プロトコルが権限エラーで停止しています」


地球側の管制官は数秒沈黙した。

「――医療AIの再起動は」

「応答しません」

「ユニット切り離しは」

「乗員の生命維持を完全に停止する危険があります」

「他乗員への波及は」

「現時点では不明」


張船長はモニターを見る。

リオ・ヴァレンの生体表示は、ほとんど平坦になっていた。

だが完全には停止していない。

脳活動は、消えかけながらも微かに残っていた。


「救命は可能か」

張船長が尋ねた。


地球側は即答しなかった。

沈黙の間にも、警報音だけが続いている。


生命維持ユニットの異常はリオ一名に限定されている。だが原因は分からない。もし同じ異常が他のユニットへ波及すれば、乗組員全員が危険に晒される。


管制官の声が低くなる。

「アルゴス、現時点で任務継続は危険と判断します」


張船長は目を閉じた。

「一名のために、か」

「一名ではありません。原因不明の生命維持系統異常です」

管制官は淡々と言った。

「再発時、全乗員を失う可能性があります」

ブリッジから、声が消えた。


 火星はまだ遠い。

張偉張偉龍は、何度もその赤い点を見てきた。

少年の頃は望遠鏡で、訓練生の頃は管制室の巨大スクリーンで、船長になってからはシミュレーターの窓越しに何千回も見た。

だが本物の火星へ向かっているのは、今が初めてだった。


《アルゴス》には、十二名の命だけではなく、各国が積み上げてきた三十年分の計画が載っている。発電炉、酸素生成炉、地下居住区の基礎設備、通信塔の中枢部品。火星を、ただの赤い惑星から人間の生活圏へ変えるための最初の荷物だった。


そのすべてを、自分の判断で引き返させる。

張船長は、リオの生体表示を見た。

微弱な脳波。

今にも消えそうな線。

それでも、まだそこに残っている。


張船長はゆっくり息を吐いた。

「帰還すれば、救命の可能性は」

「地球圏内であれば、高度医療施設への搬送が可能です」

「死亡確定ではないのだな」

「現時点では」

張船長はリオの生体表示を見た。

「……了解した」

静かな声だった。

「アルゴスは任務を中止する」


火星移送船アルゴスは、月軌道の外側で反転を開始した。


火星へ人類の生活圏を築くための最初の建設計画は、中断された。

白嶺は記録を最後まで再生した。


蘇生プロトコル停止。

リオ・ヴァレン。

仮死状態のまま地球圏へ搬送予定。


白嶺は画面を閉じなかった。


「――ヴィクターへ連絡」


 通信待機の表示が浮かぶ。

その光を見ながら、白嶺はもう一度、事故報告へ視線を戻した。


リオ・ヴァレン。

仮死状態。


その表示だけが、妙に画面の中で浮いて見えた。

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