6章 既視感 (4) 白界
リオ・ヴァレンはまだ、天国へ接続されていなかった。
高度医療施設へ搬送されたあと、仮死状態の維持だけは成功している。生命維持ユニットの異常によって脳活動は不安定なままだが、完全に失われたわけではない。
蘇生可能性、低。
中枢化移行準備、開始。
開拓者優先中枢化制度が適用され、リオの人格基準データはすでに天国センターへ送られていた。あとは現世側の医療判断を待つだけだった。
白嶺は個室のモニターに、リオの最新データを表示していた。
リオ・ヴァレン。
二十四歳。
男性。
火星生活圏基盤整備計画、第一次建設隊。
身体損傷は軽微。神経疾患の記録はない。運動能力も認知能力も極めて高い。仮死状態という点を除けば、ヴィクターの条件にほとんど重なっていた。
白嶺はしばらく画面を見つめたあと、通信を指示した。
宛先はヴィクター・ヴォルコフ。
添付するのは、リオ・ヴァレンの医療データ、人格基準データ、そして《アルゴス》事故報告。
本文は短く済ませた。
『候補者として確認願います』送信。
画面に既読の表示が浮かんだ。
だが、すぐには返答が来ない。
白嶺は椅子へ背中を預けた。個室の中は静かだった。モニタールームの奥にあるこの部屋には、外の会話も足音も届かない。
白嶺は再びデータを確認した。
身体状態は申し分ない。脳活動も完全には停止しておらず、損傷も少ない。これ以上の候補を探す方が難しいはずだった。
数分後、通信要求が入った。
ヴィクターからだ。
白嶺は回線を開く。
画面に老人の顔が映る。暗い部屋だった。窓の外には夜景が見える。ヴィクターは椅子に座り、片手にグラスを持っていた。
「見ましたか」
白嶺が言う。
ヴィクターはすぐには答えなかった。画面の向こうで、リオのデータを確認しているらしい。老人の目だけが、わずかに動いている。
沈黙が長い。
「条件には合っています」
白嶺は言った。
「ああ」
「年齢、身体状態、神経状態、運動能力。どれも依頼に近い」
「近いな」
短い返答だった。
その声に、喜びはなかった。
「問題がありますか」
ヴィクターはようやくグラスを机へ置いた。
「これは……無理だな」
白嶺は画面を見たまま黙った。
「無理?」
「使えん」
「理由を聞いても」
「聞いても分からん」
「判断材料が不足しています」
ヴィクターは小さく笑った。
「君はいつもそうだな。数値が揃えば、答えも揃うと思っている」
「違うのですか」
「違う」
老人は、画面の向こうでリオの画像を見た。
「肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな」
白嶺は端末へ視線を落とした。
リオの戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。どれも正常だった。
「公式記録に異常はありません」
「公式記録に残るようなものなら、私が見る必要はない」
ヴィクターは淡々と言った。
「その身体は使えん」
「身体状態は極めて良好です」
「だから使えんと言っている」
白嶺は黙った。
ヴィクターは急がない。画面の向こうで、ただ白嶺を見ていた。
「次を探せ」
「これ以上の候補は簡単には見つかりません」
「それでも探せ」
「理由を説明してください」
「説明した」
「履歴、という言葉だけでは不十分です」
ヴィクターは少しだけ目を細めた。
「白嶺」
「はい」
「世の中にはな、書類より身体の方が正直なことがある」
白嶺は答えない。
「そして私は、正直な身体しか信用しない」
通信の向こうで、ヴィクターは椅子から立ち上がった。
「次の候補を待っている」
「ヴィクター」
「その身体は使えん」
それだけ言って、通信は切れた。
映像が消える。
白嶺はしばらく動かなかった。個室には端末の低い駆動音だけが残っている。
ヴィクターの言葉が通信ログに残っていた。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
白嶺はリオの公式記録を開いた。
戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。
異常なし。
画面を閉じるがすぐに開き直す。
戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。
異常なし。
白嶺は通信ログへ戻った。
再生。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
停止。もう一度、再生。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
最後までは聞かなかった。
白嶺は音声を切った。
リオのデータへ戻る。
リオ・ヴァレン中枢化移行、待機。
画面の右端で、表示が変わる。
中枢化移行、開始。
人格基準データ接続。
脳活動残滓、受理。
初期環境構築。
移行が始まった。
通常であれば、ここから適応環境が生成される。死者は、自分の記憶や欲望に応じた場所へ入る。家族のいる部屋、海辺、子どもの頃の家、仕事場、あるいは本人が最も安心できる風景。
白嶺はそれを何度も見てきた。
死者の幸福は、たいてい分かりやすい。
会いたい人間。戻りたい場所。やり直したい時間。欲しい身体。欲しい言葉。
人間の望みは複雑に見えて、形にすれば似たようなものばかりだった。
だが、リオの初期環境は表示されなかった。
画面に白いノイズが走る。
白嶺は眉をひそめた。
「システム確認」
端末へ指示する。
「中枢化システム、正常」
音声AIが応答した。
「環境構築ログ」
「初期環境、構築済み」
「映像出力」
「可能です」
白嶺は映像を拡大した。
そして、手を止めた。
なにもない。
空も床も壁も地平線もない。距離感すら分からない。白い光なのか、白い闇なのかも判別できなかった。
その中央に、リオ・ヴァレンが立っていた。
白い訓練服のまま、両腕を下ろし、顔を上げることもなく、微動だにしない。
出発前の映像で笑っていた男とは、まるで別人だった。
白嶺は環境設定を確認する。
初期適応室、感覚刺激、記憶補助、視覚構築、正常。
人格波形、形成済み。
幸福指数、測定不能。
白嶺は数秒だけ画面を見つめた。
「海辺へ変更」
画面は変わらない。
「居住区」
変わらない。
「火星表面」
変わらない。
「アルゴス船内」
変わらない。
「家族記憶を参照」
「参照失敗」
「人格基準データを再同期」
「再同期完了」
リオは動かない。
白い世界は白いままだった。
白嶺は椅子から少し身を乗り出す。
「エラーを検出してください」
「システムに重大なエラーはありません」
「環境構築に失敗しています」
「環境構築は完了しています」
白嶺は端末の表示を切り替えた。
初期適応室、海辺、居住区、火星表面、アルゴス船内。
すべて白い。
「再同期」
「完了しました」
「もう一度」
「完了しました」
「もう一度」
音声が一拍遅れて応答した。
「再同期はすでに完了しています」
白嶺の指が止まる。
「指示を復唱する必要はありません」
「了解しました」
画面の中でリオは動かない。
この何もない白さが、リオの中枢化環境として成立している。
白嶺はモニターを見た。
白い世界。
中央に立つリオ。
動かない身体。
反応しない人格波形。
幸福を拒んでいるのではない。恐怖しているのでもない。ただ、どこにも接続されていない。
知らないはずの光景。
白嶺は瞬きの回数を減らした。
脳の奥で、何かが細く鳴る。
水の中。
白い光。
遠くから聞こえる声。
白嶺は一度だけ瞬きをした。
映像は変わらない。
リオは立っている。
何もない場所で、何も見ていないように。
それでも、そこにいる。
白嶺の口元がわずかに動いた。
笑ったわけではない。
けれど、そう見えたかもしれない。
「……面白いですね」
小さく呟く。
誰にも届かない声。
「肉体には履歴が残る……戸籍より正直にな」
白嶺は再びモニターへ視線を戻した。
正常と答えるシステム。
どこにも存在しないはずの無。
白嶺は終了ボタンへ指を置いた。
押さない。
数秒後、指を離す。
「ログを保存」
「保存しました」
「リオ・ヴァレンの中枢化環境を継続観察」
「設定しました」
画面の中で、リオは動かない。
白嶺はヴィクターの通信ログを開いた。
『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』
再生。
停止。
白嶺はリオの映像へ戻る。
真っ白な世界。
動かないリオ。
正常と答えるシステム。
白嶺はモニターの明度を落とした。
白は薄くならなかった。
もう一度、明度を落とす。
変わらない。
白嶺は端末の縁を掴んだ。
指先に力が入る。
薄い端末が、小さく軋んだ。
「……正常、ですか」
音声は答えない。
個室の照明が自動で一段暗くなる。
それでもモニターの白だけが、部屋の中で静かに光っていた。




