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天国白書  作者: 凛1129
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6章 既視感 (4) 白界

挿絵(By みてみん)

 リオ・ヴァレンはまだ、天国へ接続されていなかった。


高度医療施設へ搬送されたあと、仮死状態の維持だけは成功している。生命維持ユニットの異常によって脳活動は不安定なままだが、完全に失われたわけではない。


蘇生可能性、低。

中枢化移行準備、開始。


 開拓者優先中枢化制度が適用され、リオの人格基準データはすでに天国センターへ送られていた。あとは現世側の医療判断を待つだけだった。


白嶺は個室のモニターに、リオの最新データを表示していた。

リオ・ヴァレン。

二十四歳。

男性。

火星生活圏基盤整備計画、第一次建設隊。


 身体損傷は軽微。神経疾患の記録はない。運動能力も認知能力も極めて高い。仮死状態という点を除けば、ヴィクターの条件にほとんど重なっていた。


 白嶺はしばらく画面を見つめたあと、通信を指示した。

宛先はヴィクター・ヴォルコフ。

添付するのは、リオ・ヴァレンの医療データ、人格基準データ、そして《アルゴス》事故報告。


本文は短く済ませた。

『候補者として確認願います』送信。

画面に既読の表示が浮かんだ。

だが、すぐには返答が来ない。


 白嶺は椅子へ背中を預けた。個室の中は静かだった。モニタールームの奥にあるこの部屋には、外の会話も足音も届かない。


白嶺は再びデータを確認した。

身体状態は申し分ない。脳活動も完全には停止しておらず、損傷も少ない。これ以上の候補を探す方が難しいはずだった。


数分後、通信要求が入った。

ヴィクターからだ。

白嶺は回線を開く。


 画面に老人の顔が映る。暗い部屋だった。窓の外には夜景が見える。ヴィクターは椅子に座り、片手にグラスを持っていた。


「見ましたか」

白嶺が言う。


ヴィクターはすぐには答えなかった。画面の向こうで、リオのデータを確認しているらしい。老人の目だけが、わずかに動いている。


沈黙が長い。

「条件には合っています」

白嶺は言った。

「ああ」

「年齢、身体状態、神経状態、運動能力。どれも依頼に近い」

「近いな」

短い返答だった。

その声に、喜びはなかった。


「問題がありますか」

ヴィクターはようやくグラスを机へ置いた。


「これは……無理だな」


 白嶺は画面を見たまま黙った。

「無理?」

「使えん」

「理由を聞いても」

「聞いても分からん」

「判断材料が不足しています」


ヴィクターは小さく笑った。

「君はいつもそうだな。数値が揃えば、答えも揃うと思っている」

「違うのですか」

「違う」

老人は、画面の向こうでリオの画像を見た。


「肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな」

白嶺は端末へ視線を落とした。


リオの戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。どれも正常だった。

「公式記録に異常はありません」

「公式記録に残るようなものなら、私が見る必要はない」

ヴィクターは淡々と言った。


「その身体は使えん」

「身体状態は極めて良好です」

「だから使えんと言っている」

白嶺は黙った。


ヴィクターは急がない。画面の向こうで、ただ白嶺を見ていた。

「次を探せ」

「これ以上の候補は簡単には見つかりません」

「それでも探せ」

「理由を説明してください」

「説明した」

「履歴、という言葉だけでは不十分です」


 ヴィクターは少しだけ目を細めた。

「白嶺」

「はい」

「世の中にはな、書類より身体の方が正直なことがある」


白嶺は答えない。

「そして私は、正直な身体しか信用しない」

 通信の向こうで、ヴィクターは椅子から立ち上がった。

「次の候補を待っている」

「ヴィクター」

「その身体は使えん」


それだけ言って、通信は切れた。

映像が消える。


 白嶺はしばらく動かなかった。個室には端末の低い駆動音だけが残っている。

ヴィクターの言葉が通信ログに残っていた。


『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』


 白嶺はリオの公式記録を開いた。

戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。


異常なし。


画面を閉じるがすぐに開き直す。

戸籍情報、医療履歴、成長記録、火星計画適性検査。


異常なし。


白嶺は通信ログへ戻った。

再生。

『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』

停止。もう一度、再生。


『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』

最後までは聞かなかった。

白嶺は音声を切った。

リオのデータへ戻る。


リオ・ヴァレン中枢化移行、待機。

画面の右端で、表示が変わる。

中枢化移行、開始。

人格基準データ接続。

脳活動残滓、受理。

初期環境構築。


移行が始まった。

通常であれば、ここから適応環境が生成される。死者は、自分の記憶や欲望に応じた場所へ入る。家族のいる部屋、海辺、子どもの頃の家、仕事場、あるいは本人が最も安心できる風景。


白嶺はそれを何度も見てきた。

死者の幸福は、たいてい分かりやすい。


会いたい人間。戻りたい場所。やり直したい時間。欲しい身体。欲しい言葉。

人間の望みは複雑に見えて、形にすれば似たようなものばかりだった。


だが、リオの初期環境は表示されなかった。

画面に白いノイズが走る。


白嶺は眉をひそめた。

「システム確認」

端末へ指示する。


「中枢化システム、正常」

音声AIが応答した。

「環境構築ログ」

「初期環境、構築済み」

「映像出力」

「可能です」


白嶺は映像を拡大した。

そして、手を止めた。


なにもない。


空も床も壁も地平線もない。距離感すら分からない。白い光なのか、白い闇なのかも判別できなかった。


その中央に、リオ・ヴァレンが立っていた。


白い訓練服のまま、両腕を下ろし、顔を上げることもなく、微動だにしない。

出発前の映像で笑っていた男とは、まるで別人だった。


白嶺は環境設定を確認する。

初期適応室、感覚刺激、記憶補助、視覚構築、正常。

人格波形、形成済み。

幸福指数、測定不能。


白嶺は数秒だけ画面を見つめた。

「海辺へ変更」

画面は変わらない。

「居住区」

変わらない。

「火星表面」

変わらない。

「アルゴス船内」

変わらない。


「家族記憶を参照」

「参照失敗」

「人格基準データを再同期」

「再同期完了」


リオは動かない。

白い世界は白いままだった。


 白嶺は椅子から少し身を乗り出す。

「エラーを検出してください」

「システムに重大なエラーはありません」

「環境構築に失敗しています」

「環境構築は完了しています」


白嶺は端末の表示を切り替えた。

初期適応室、海辺、居住区、火星表面、アルゴス船内。


すべて白い。


「再同期」

「完了しました」

「もう一度」

「完了しました」

「もう一度」


音声が一拍遅れて応答した。

「再同期はすでに完了しています」


白嶺の指が止まる。

「指示を復唱する必要はありません」

「了解しました」

画面の中でリオは動かない。


この何もない白さが、リオの中枢化環境として成立している。

白嶺はモニターを見た。


白い世界。

中央に立つリオ。

動かない身体。

反応しない人格波形。


幸福を拒んでいるのではない。恐怖しているのでもない。ただ、どこにも接続されていない。


知らないはずの光景。

白嶺は瞬きの回数を減らした。

脳の奥で、何かが細く鳴る。


水の中。

白い光。

遠くから聞こえる声。


白嶺は一度だけ瞬きをした。

映像は変わらない。

リオは立っている。

何もない場所で、何も見ていないように。


それでも、そこにいる。


 白嶺の口元がわずかに動いた。

笑ったわけではない。

けれど、そう見えたかもしれない。


「……面白いですね」


小さく呟く。

誰にも届かない声。


「肉体には履歴が残る……戸籍より正直にな」

 

白嶺は再びモニターへ視線を戻した。

正常と答えるシステム。


どこにも存在しないはずの無。


白嶺は終了ボタンへ指を置いた。

押さない。

数秒後、指を離す。

「ログを保存」

「保存しました」


「リオ・ヴァレンの中枢化環境を継続観察」

「設定しました」


画面の中で、リオは動かない。

白嶺はヴィクターの通信ログを開いた。


『肉体には履歴が残る。戸籍より正直にな』


再生。

停止。

白嶺はリオの映像へ戻る。


真っ白な世界。

動かないリオ。

正常と答えるシステム。


白嶺はモニターの明度を落とした。

白は薄くならなかった。

もう一度、明度を落とす。

変わらない。

白嶺は端末の縁を掴んだ。

指先に力が入る。


薄い端末が、小さく軋んだ。

「……正常、ですか」

音声は答えない。


個室の照明が自動で一段暗くなる。


それでもモニターの白だけが、部屋の中で静かに光っていた。

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