7章 連関の系譜(1)秘色の胎動
白嶺は、リオ・ヴァレンの映像を見返していた。
画面には真っ白な世界が映っている。その中央でリオは立ったまま動かない。環境を変えても、音を流しても、記憶補助を使っても結果は同じだった。
システムだけが、正常と返し続けている。
白嶺は端末へ指を置いた。
「再生」
出発前の《アルゴス》船内映像が映る。リオは窓の外を見て笑っていた。無重力の中で、金髪がわずかに浮いている。
「火星に道路を作るんだ」
映像の中のリオが言う。
「最初の空気、最初の水、最初の灯り。そういうのを作りに行く」
白嶺は映像を止めた。
次に白界の映像を表示する。
リオは動かない。
「再同期」
「完了しました」
「感覚刺激」
「正常に送信されています」
「反応ログ」
「変化なし」
白嶺は画面を閉じなかった。
その背後で、モニカが別の端末を見ていた。
「 次、音声反応を順に試してくれ 」
様々な音声が流れる。
天国センターの通常処理。
死者の希望を読み取り、環境を構築し、幸福指数を確認する仕事。
それは表向きには穏やかな業務だった。
死者が望んだ世界へ向かう。
救済。再会。やり直し。
そう呼ぶこともできる。
だがモニカの画面に映っているものは、そんな言葉では片づかなかった。
現世では教師だった男がいた。
記録上は問題のない人物。勤務評価も高い。
保護者からの信頼も厚く、犯罪歴もない。
現世にいた時のAI人格診断でも、重大な危険傾向は検出されていなかった。
だが死後の環境で、その男が望んだものは違った。
小さな教室。
言うことを聞く子どもたち。
逃げない児童。
そして拒絶しない身体。
モニカは映像を途中で閉じた。
「……最低」
白嶺は返事をしなかった。
リオの白界を拡大している。
「先生」
「はい」
「今の見てましたか」
「見ていません」
「見ない方がいいです」
「必要なら見ます」
「必要じゃありません」
「多くの人は、幸福を作れません」
「知能の話ですか」
「知能だけではありません。知識と訓練です」
白嶺は白界を見たまま答えた。
「人間は、自分が何で幸福になるかを正確には予測できません。手に入れる前は強く望む。手に入れた後は慣れる。そして、また別の刺激を欲しがる」
「だから、あんな世界になるんですか」
「はい。快楽、支配、復讐、承認。分かりやすい願望ほど構築しやすいですが、長くは保ちません」
白嶺は端末を操作した。
「安定した幸福には、関係性、役割、自己決定、成長、意味づけが必要です。ですが、それを自分で設計できる人間は少ない」
「天国なのに?」
「天国だからです」
白嶺はモニカを見ずに言った。
「制限がなくなると、その人間の構造だけが残ります。現世で幸福を組み立てられなかった人間は、死後も同じです」
モニカは別の記録へ切り替えた。
次の利用者は、現世で慈善事業をしていた女性だった。
AI診断では、共感性が高く、社会貢献意識も強いとされている。
だが構築された環境では、彼女は理想の家族を作り、何度も壊していた。
自分に感謝しない夫を罰する。
自分を理解しない娘を泣かせる。
最後には全員を屈服させる。
それでも満足しない。
また最初からやり直す。
同じ台詞。同じ怒り。同じ支配。
モニカは眉間を押さえた。
「AIって、何を見てるんでしょうね」
白嶺はリオの反応ログを見たまま答えた。
「傾向です」
「傾向?」
「過去の発言、行動履歴、医療記録、購買記録、脳波パターン、対人反応。その総合です」
「それだけ見ても、分からないものは分からないんですね」
「はい」
モニカが顔を上げる。
「そこは認めるんですね」
「AIは心を読む装置ではありません」
白嶺は画面を切り替えた。
白界。
リオは動かない。
「本人が本当に何を望むかまではAIは入れません。近似はできます。予測もできます。ですが本人が死後に何を選ぶかは、接続後にしか分かりません」
「だから家族の天国化映像は見られないんですね」
白嶺の指が止まる。
「家族……」
そう呟いたが、すぐにモニターにまた目を向け答える。
「制度上は禁止されていますね」
「知ってます」
モニカは自分の手を見た。
「テレシアさんは壊れてました」
「はい」
「でも、ここで見る多くの人より、ずっと人間に見えました」
「人間らしさの定義ですか」
「違います」
モニカの声が少し揺れた。
白界の映像が一瞬揺れた。
「!?」
白嶺の動きが止まる。
モニカは画面を閉じた。
「でも、今日は少し分かった気がします」
「何がですか」
「見たら壊れますよ」
白嶺はモニカを見た。
モニカは笑わなかった。
「お父さんが死後に何を望んだか。お母さんが本当は何をしたかったか。恋人がどんな世界で幸せになっているか。子どもが親のいない場所を選んでいたら。逆に、自分のためだけに誰かを閉じ込めていたら」
モニカは端末の黒い画面を見た。
「そんなもの、遺族が見たら終わります」
「法の趣旨と一致します」
「趣旨じゃないです」
モニカの声が少し低くなった。
「人間が耐えられないんです」
白嶺はまたリオの画面へ戻った。
「なるほど」
「聞いてます?」
「聞いていますよ」
「今の『なるほど』は、たぶん聞いてない時のやつです」
「聞いています」
白嶺はテレシアの記録を開いた。
画面に映ったのはテレシアの部屋だった。小さな部屋にベッドが一つ、揺り籠が一つ。そこには、赤ん坊の世話を続ける彼女の姿が残っている。
ただ赤ん坊の世話を続けていた。脳死に至るまで。
モニカは画面に気づいた。
「テレシアさんですか」
「はい」
「また調べてるんですか」
「比較しています」
「何と」
白嶺は答えず、テレシアの環境ログを開いた。
室温。照明。音声。揺り籠の軋み。赤ん坊の呼吸音。
テレシアが口ずさんでいた短い旋律。
白嶺はその音声だけを抽出した。
「先生?」
「音声刺激として使います」
「誰に」
「リオ・ヴァレンに」
モニカは言葉を失った。
「なぜです」
「さあ……」
白嶺は音声を白界へ送った。
「だから比較します」
音だけが流れる。
小さな部屋の環境音。
揺り籠の軋み。
低い旋律。
モニターの端に、わずかな波形が立った。
白嶺の指が止まる。
「もう一度」
同じ音を流す。
リオは動かない。
だが、右手の指先だけがわずかに揺れた。
モニカが息を止めた。
「今」
「もう一度」
白嶺は別の母親と赤子の音声を選び、白界へ流した。
リオの指先は動かない。
モニカは画面を見たまま言った。
「どういうことですか」
「分かりません」
「先生が分からないって言う時、だいたい良くないことですよね」
「はい」
「そこは否定してください」
白嶺は返事をしなかった。
テレシアの記録。
リオの白界。
ヴィクターの言葉。
肉体には履歴が残る。
白嶺は四つの画面を並べた。
テレシアの小さな部屋。
リオの白い世界。
リオの身体データ。
テレシアの死亡関連記録。
モニカは画面を見た。
「先生」
「はい」
「何を探してるんですか」
「分かりません」
「じゃあ、なんでそんな顔をしてるんですか」
白嶺はモニカを見る。
「どんな顔ですか」
「楽しそうな顔です」
「そうですか」
「そうです」
モニカは端末を閉じた。
「私は、ちょっと無理です」
白嶺は何も言わない。
モニカは言葉を続けた。
「毎日、人の願望を見ます。死んだ後なら少しは綺麗になるのかと思ってました。でも違うんですね。死んでも、だいたいそのままです」
白嶺はリオの波形を見ている。
「人格の連続性です」
「そういう言い方をしないでください」
「では」
「分かりません。でも、今はその言い方を聞きたくないです」
「見れば分かる話です」
「僕には、見ただけでは分かりません」
「でしょうね」
モニカは小さく笑った。
笑ったのに、目元は笑っていなかった。
「先生は、人間を見ているようで見ていません」
白嶺は答えない。
モニカは続けた。
「欲望も、悲しみも、愛情も、全部データで見ますよね」
「必要です」
「必要でも、それだけじゃないです」
白嶺はリオの画面から視線を外した。
モニカの頬に涙が一筋落ちていた。
「モニカさん」
「何ですか」
「涙が出ています」
「知ってます」
「呼吸が浅くなっています」
「それも知ってます」
「注意が嫌悪記憶に固定されています」
「だから何ですか」
白嶺は立ち上がった。
モニカは顔を上げる。
次の瞬間、白嶺はモニカに口づけた。
長くはない。
乱暴でもない。
だが、あまりにも突然だった。
モニカは動かなかった。
白嶺が離れる。
数秒。
モニカの手が上がった。
白嶺の頬に乾いた音が響く。
「何をしたんですか」
声は低かった。
白嶺は何事もなかったかのようにモニターの前に座った。
「注意固定を切りました」
「そういう話をしていません」
「涙は止まっています」
「止まったんじゃありません」
モニカは唇を手の甲で拭った。
その動きは乱暴だった。
「別の感情で上書きされたんです」
「なら成功です」
「最低です」
白嶺は少し首を傾けた。
「不快でしたか」
「不快です」
「しかし心拍は上昇しています。怒りだけではなく」
「言わないでください」
モニカが遮った。
白嶺の視線が止まる。
「なぜです」
「私が分かっているからです」
モニカは視線を逸らした。
頬が赤い。
それに気づいた瞬間、白嶺を睨み直した。
唇を拭う手に、さらに力が入る。
「恋愛反応に近いものが出ています」
「だから言うなって言ってるんです」
「恋愛ではありません。接触刺激による一時的な……」
「そういうところですっ!」
モニカは唇を強く結んだ。
「先生は、そういうところが本当に最低です」
白嶺は答えない。
モニカの呼吸はまだ浅い。涙は止まっていた。
白嶺は端末へ視線を戻した。
テレシアの音声ログ。
リオの指先反応。
白界。
モニカはそれを見て、さらに顔を歪めた。
「今、私を見てませんよね」
「見ています」
「違います」
モニカは震えた声で言った。
「先生は、私の反応を見てるだけです」
白嶺は少し黙った。
モニカは部屋を出ていった。
自動ドアが閉じ、個室に沈黙が戻る。
白嶺はしばらく扉を見て、やがて端末へ向き直る。
白界。
白嶺は再生ボタンへ指を置いた。
また、リオの指先がわずかに動いた。
「なぜ……」




